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第 3 章 満洲国における教員の養成

1 満洲国の教員養成制度

1.1 教員の養成

1.1.1 満洲国成立以前の教員養成

近代、中国における教員の養成は清末民初に師範教育の導入からはじまったとみられ、

その嚆矢となったのは 1897 年南洋公学師範院の開設である。1904 年、清朝政府より癸卯学 制が制定され、師範教育制度の形はある程度整えられた。その後、清朝政府より大量の留 学生が日本に送り出され、それと同時に、日本人教習が清朝に招聘されてきた。それらの 方策を通じて、日本の師範教育の体系が清朝の教育制度に受容され、次第に初等教育教員 の養成組織である「初級師範学堂」と中等教育教員の養成組織である「優級師範学堂」を 主体とする日本式の師範教育制度が清朝で確立された。

1912 年、中華民国政府が成立して、旧来の「初級師範学堂」と「優級師範学堂」をそれ ぞれ「師範学校」と「師範高等学校」に改称された。1922 年、民国政府により「壬戌学制」

が制定され、中国教育史上大きな変革をもたらした。「壬戌学制」では、教育の主旨につい て「社会の発展に応じて、一般民衆教育を基礎とし、国民の経済力を考慮しながら、社会・

生活まで教育を浸透させる4」と決められ、つまり、教育の実用性を重視するようにになっ た。この方針にしたがい、学校教育は初等教育、中等教育、高等教育の 3 段に分けられ、

学制は「六三三四制」、すなわち、小学校 6 年、中学校 3 年、高校 3 年、大学 4 年という制 度が策定された。この学制は満洲国成立後の 1930 年代の半ばまで援用され、また、現在、

中国における学校教育制度はこの「壬戌学制」に基づいたものである。表 3-1 は「壬戌学 制」により制定された学校体系表である。

表 3-1 の師範教育学校についてみよう。師範学校の修業年数は原則として 6 年と定めら れたが、中学校卒業者を対象とする師範学校の修業年数は短縮され後半の 3 年のみとなる。

また、短期間で小学校の教員を養成するために、師範講習科、師範講習所が設けられた。

これらの機関での修業年数は基本的に 3 年であったが、状況によって決められる5とされた。

師範高等学校については、高校卒業生を対象者とし、修業年数は 4 年と定められ、師範大 学校とも呼ばれた。

97 表 3-1 壬戌学制後の学校体系

(武強『東北淪陥十四年教育史料』吉林教育出版社 1993 年 142 頁より転載)

「壬戌学制」の規定により、師範学校のほかに、中学校、また、大学の中に教育科、師 範講習科を設立することができたため、それまでの師範教育でのみ行われた教員の養成は 一般学校にまで拡大し、教員養成の方式が多様化した。これらの教員養成の方式は満洲国 時代にも援用された。

1.1.2 満洲国の教員養成

中国の教育専門家である王野平(1989)の研究によれば、満洲国における教員の養成制度 については、1938 年の新学制の実施、1942 年の戦時体制の実施を境界線として大きく 3 つ の時期に分けることができる。すなわち、第 1 期(1932.3~1937.12)、第 2 期(1938.1~

1942.9)、第 3 期(1942.10~1945.8)の 3 期である。本節では、上記の時期区分に沿って、

満洲国の教員養成制度を確認する。

第 1 期については、第 1 章で述べたように、建国初期、満洲国の教育機構、教育方針、

教育制度などはまだ完備されていなかったため、大部分の学校が閉校されていて、教育は 一時期、停滞の状態に陥っていた。そして、関東軍は満洲国の「初等教育の 1 年から日本 語教育を開始する6」と計画していたが、教員と教材不足の問題で、その時期を遅らせ、実 際に日本語教育を行いはじめたのは 1934 年 9 月頃であった。満洲国成立以前、関東州及び 満鉄沿線地域に日本語学校(公学堂)の開設があり、日本人教員、また日本に留学した経験 がある漢人日本語教員が採用されていたが、その人数は極めて少なく、満洲国にとって、

教員不足の問題は深刻で緊要の問題となっていた。また、満洲国の現職の教員は「ほとん

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ど 20~30 代の人で、民国の教育を受け、育てられたものであり、(中略)民国の教育精神は すでに思想の奥まで浸みこんでおり、満洲国に対する認識・思想が欠けていた。もし、こ れらの教師をそのまま満洲国の教師にすると、極めて危険なことになる7」と懸念された。

この実情に直面して、1932 年 7 月に行われた「第一次教育庁長会議」で、各省の教育庁長 及び教育関係者より教員如何という議題をめぐって、様々な意見が交わされていた。その 結果として、「満洲国で高等師範や師範学校を設立して、もっぱら教師を育成する8」との法 案が出された。この方案により、満洲国の建国初期にほとんどの初等・中等学校がまだ未 開校の状態であったのに、師範学校が先立って開校されるに至った。満洲事変以前に東北 地域には師範学校が 133 校あったが、1932 年 7 月に至って、すでに 123 校の学校が開校さ れるようになった9。また、1934 年 10 月 1 日、満洲国で初めての中等教育教員を養成する 高等学校である高等師範学校が設立された。

満洲国の初期の師範教育は民国政府の「壬戌学制」の学校の系統をそのまま踏襲し、教 育方針は「教師に必要な知識と技能を教授し、国民の模範となるべき道徳品性を培い、指 導者としての精神を備える10」と明示されたように、知識と精神の教育に重点を置き、満洲 国の指導者として教員を育てるという方針であった。そして、教員の資質を全面的に向上 するために、1934 年 8 月 20 日「師範教育令」を頒布した。第二条に師範教育の方針を「実 践躬行して徳性の涵養、知識技能の修得、身體の鍛錬に努めしめ、以て国民の師表たるべ き人格を陶冶するを以て本旨とす11」と改めた。つまり、徳育、知育、体育及び実践能力が 教員養成の中心となっていた。

このように、満洲国政府は建国初期から満洲国の新規教員の養成に取り組んでいた。し かし、師範教育機関での教員養成は時間がかかる。この実情に対して、一時的な応急施策 として、「師範学校で養成されている学生が卒業するまでに、現有の教師に対して検定・伝 授を行い、採用する12」という方法が考案された。この考案に応じて、1932 年 8 月に新京南 嶺で漢人教員を対象とした「教員講習会」が開かれ、在職教員に対する精神教育を実施し はじめた。翌年 4 月、「教員講習会」をもととした「教員講習所」が設立され、満洲国全域 で選ばれた優秀な初等・中等現職教員に対する再教育が始まった。再教育の方針は、これ までの漢人教員に欠けていた満洲国に対しての認識、いわゆる建国精神を体得させること であった。

1938 年 1 月 1 日より満洲国では新学制が実施された。新学制実施以前の 1937 年 5 月 2 日 に勅令第 75 号で「師道教育令」が公布され、教員養成と教育について改めて規定していた。

「師道教育令」により、教員養成の目的は「実践躬行ニ留意シテ鞏固ナル国民精神ノ涵養、

知識技能ノ習得、身體ノ鍛錬ニ務メシメ以テ人格ヲ陶冶13」のとおり、新学制実施以前と同 じく、依然として精神、知識及び身体力の養成に重点を置いていたが、師範教育の体系に 変更が見せた。新学制実施以後の師範教育の種類及びそれの学校体系に占める地位は表 3-2 が示しているとおりである。表 3-2 にみられるように、元の師範教育機関の「師範」は全 部「師道」に変えられた。その理由については、当時政府に教育担当の皆川豊治は「師範

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と云う語意は最高人格の教師を云ひ現したもので、上級学校との関係で高等師範と云ひ或 は師範高等と云ふのは観念的に不合理であり、また教師たるの自覚を積極的に促す意味に 於いては師道の言葉の方がより相応しいと云ふ観念からである14」と解釈していた。

表 3-2 新学制実施後学校体系表

民生部教育司(1937:17)『学校令及学校規定』より転載。表の中の数字は年齢を表す。

表 3-2 の中の師道学校は省または特別市の管轄下にあり、(1939 年より国の管轄下に入っ たが、実際の管理は省または特別市による)初等教育教員の養成を目的とする機関である。

修業年限は 2 年で、国民高等学校 3 学年修了者またはそれと同等の学力を有するものを対 象とする。師道高等学校はもとの師範高等学校であり、満洲国政府により設立された中等 教育の普通科目15の教員を養成する機関である。修業年限は 3 年、対象者は師道学校、国民 高等学校または女子高等学校、及びそれと同等学歴を有するものである。師道高等学校の ほか、政府が指定した大学の中に特修科を設置し、教員の養成もできる。

また、教員の不足を補うために、師道学校内に特修科を増設したり、または、もとの師 範中学校と師範講習科を合併して新しい特修科を設置したりして、国民学舎、または国民 学校、国民優級学校の補助教員を養成するようになった。特修科の修業年数は 2 年で、対 象は国民優級学校卒業者、または 13 歳以上の同等学歴を有するものである。さらに、女子 初等教育教員を養成するために、もとの女子師範学校を女子国民高等学校附設の師道科に 改設した。女子国民高等学校の卒業生を対象とし、学制は 1 年である。

新学制実施以後の師範教育機関による教員養成の形式は新学制実施以前の「壬戌学制」

時代の形式と同じであるが、師道学校や師道特修科の修業年数はそれぞれ以前より 1 年短 縮され、2 年となって、満洲国ではいかに初等教育教員が緊急に必要であったのかが窺える。

1941 年満洲国には師道学校が 18 校、女子師道科を設けた学校が 13 校、師道特修科を設け た学校 62 校16であった。この数字から、師道学校のみでの教員養成は満洲国の教員の需要 を十分満たすことができず、初等教育教員の養成は修業年限 2 年の特修科によって補われ

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国⺠優級学校

国⺠学校

師道

⾼等 学校

15 14 13 12

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師道

学校 師道科

⼥⼦

国⺠

⾼等 学校

(師 道)特

修科 18 17

国⺠⾼等学校

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7 13 17

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