第 3 章 満洲国における教員の養成
2 満洲国における在職教員に対する再教育
満洲国の在職教員の思想を統一するため、1933 年 4 月、満洲国の首都新京で教員訓練所 (1938 年以後、中央師道訓練所に変名)を開いた。前節で確認したように、教員訓練所は 1938 年の新学制実施、及び 1943 年の師範教育令の改正により、教育方針が変更されたため、本 節では教員訓練所による在職教員の再教育について考察する際、1938 年と 1943 年を境界線 として 3 つの時期に分けて分析を進めていく。
満洲国の旧来の教員は民国の三民主義教育を受けてきたものがほとんどである。これら の教員に満洲国の思想を伝授するために、1932 年 8 月、満洲国文教部より新京で「教員講 習会」が開かれ、翌年 4 月、教員講習会の規模が拡大され、満洲国在職教員の再教育機関 としての教員訓練所が設立された。教員訓練所は文教部の直轄下にあり、全国の初等・中 等教育に勤めている中堅教員を対象者とする。1933 年 4 月 26 日に公布された「教員訓練所 章程」は以下のような内容である22。
第一条 訓練員は各省省長、東省特別区長官及び新京特別市市長に推薦される 第二条 訓練員の定員は毎期百名である
第三条 毎期の訓練期間は三ヶ月以内で、連続的に行うことができる 第四条 訓練科目は建国精神、国内時勢及び国際関係、経学、教育等である 第五条 訓練員は指定される宿舎に宿泊する
第六条 訓練所より教員に指定された旅費及び宿泊費を支払う 第七条 訓練修了者に訓練証書を授与する
第八条 本章程は公布の日から実行される
(大同二年(1933 年)4 月 26 日公布)
この訓練所の規定に示されているように、まず、第一条で、「各省省長、東省特別区長官 及び新京特別市市長に推薦される」という条件が設けられ、再教育を受けていた教員は優 秀なものであることが保証された。次に、「毎期百名」の大人数の定員に対して、わずか「三 ヶ月」間の訓練を実施し、また、その訓練を「連続的に」行うことから見れば、満洲国政 府は短期間で現職教員の思想を統一し、さらに、訓練科目に建国精神や、国内時勢及び国 際関係などのような満洲国の精神と国勢に関する内容が多く設けられたことから、この講 習を通じて教員に満洲国に対する認識及びその理解を入植し、満洲国に適合する教員に改 造しようとした意図が読み取れる。
こうして、1935 年 7 月まで教員講習所ではすでに 9 期の講習を行い、868 名23の在職教員
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に対する再教育を施した。第 1 章の満洲国の教育制度に関する部分で確認したように、1934 年より満洲国の学校教育では日本語教育が実施され始め、それにしたがい、1935 年より、
教員講習所の訓練科目に日本語が新しく加えられた。1935 年 12 月までに実施された第 11 期講習において、教員講習所での講習の主旨は依然として「建国精神の体得」にあったが、
日本語教育の比重は以前より大幅に増加したという24。たとえば、所生の日本語能力を向上 するために、以下の方法が実施された25。
1 教授時間数を増加する 2 日本語教員の人数を増やす 3 日本語能力によって組を分ける 4 日本語教材の実際化を図る 5 所内での日常生活を日本語化する 甲 生活用語は必ず日本語にする 乙 看板や記などは必ず日本語にする 丙 訓話する時、必ず一回日本語にする 丁 写真、掛図などを通して日本文化に親しむ 戊 宿舎内に日本語雑誌を備える。
上記の方法から、教員講習所では授業の時間を利用して、教員に日本語教授を実施した だけでなく、普段の日常生活において看板や雑誌などの視覚・聴覚の刺激、また強制的に 日本語を話させるなどの手段で、教員を日本、日本文化に親しませ、教員の日本語能力を 高める工夫を凝らしたことが窺える。
教員講習所はいつから教授科目の中に日本語を増設したのかを現有資料では確認するこ とができない。上記の日本語成績を上げる方法の項目から判断すれば、1935 年第 11 期講習 が実施されるまでは、日本語の教授時間数が少なかったので、第 11 期より「教授時間数を 増加」させたと考えられる。また、第 11 期講習までの日本語教員が不足したので、第 11 期より日本語「教員数を増やす」ようになったと推測できる。ここから、遅くても第 10 期 の教員講習より在職教員に日本語を教え始めたと考えられる。では、その後の在職教員に 対する日本語教育はどのようなものであったか。前掲の教員訓練所の第 1 期の募集要項と 比較しながら、1936 年 1 月 29 日前に公布された「第十二回人員募集要項26」について検討 してみよう。第十二回募集要項の具体的な内容は以下のとおりである。
一 講習趣旨 建国精神によって初等及び中等教育教員を訓練する 二 講習期間 康徳三年(1936)1 月から 6 月までの 6 か月間
三 講習科目 建国精神、国内状況及び国際関係、経学、国文、教育、日本語、地理歴史、
算術、理科、実業、図絵手工、音楽体操等 四 班別
1 日本語班(日本語を主要学科として) 2 班 定員 100 名 2 図絵手工班(図絵手工を主要学科として)1 班 定員 50 名 3 音楽体操班(音楽体操を主要学科として)1 班 定員 50 名 五 選抜条件
1 在職男教員
2 品行端正、身体強健、労働者にたるもの
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第 1 期講習の規定と比較すると、第 12 期の講習については以下のような特徴がみられる。
①講習の主旨は相変わらず建国精神の普及にある。
②講習の質が一層重要視されるようになった。講習期間は 3 ヶ月から6ヶ月に延長され、
また、人数は定員 100 名から 200 名までに増加した。一見、6ヶ月間で 200 人の教員に訓 育を行うという結果は以前の講習と変わりがないようであるが、同じ人員に 6 ヶ月間ほぼ 以前の 2 倍の時間の教育を行うことから、教育の内容がより豊富になり、講習の質が一層 重視されたといえよう。
③日本語教員の養成を重視している。この募集要項の日本語班の設置は注目に値する。
日本語班とは、募集要項で説明されているように、主に日本語を主要学科にする班であり、
すなわち、日本語教員を養成する班である。日本語班を希望する在職教員は訓練所で日本 語を主要学科とする教育を受け、修了後、初等・中等教育の日本語教員に充てられること とが推定できる。ここより、1936 年の時点で、教員講習所は単に在職教員の思想を統一し、
再教育を行う組織としてだけでなく、「日本語班」の開設によって在職日本語教員養成の場 ともなったといえる。
④男子教員の人数の比重が大きかった。単に募集要項から見れば、第 12 回では男子教師 のみが募集されていた。その理由については、当時、満洲国の日本語教育に携わっていた 田中俊資が以下のように解釈していた。「まず、女教師は結婚や家庭など様々なことがある ため、仕事に集中できない可能性が大きい、次に、男女の担当科目から見れば、男性の性 格は客観的で理系の科目を担当することに堪能であるが、それに対して、女性の方は性格 的には主観的で人文や芸術などの科目担当が相応しい27」。つまり、満洲国政府は女性の特 質から判断し、男女を区別して養成し、教育現場に対応させた。
⑤講習科目は以前より多く設けられた。建国精神、国内状況及び国際関係、経学(四書五 経に関する内容)の科目はそのまま継続されてきたが、国文、教育、地理歴史、算術、理科、
実業、図絵手工、音楽体操等の科目の開設により、在職教員に多方面の技能、知識を有す ることが期待されていたことが窺える。また、もう一方、当時の師範教育の教授科目を精 査したところ、教員講習所で課された科目は師範学校などでの教授科目とほぼ一致したこ とが分かった。ここより、上記の科目の開設は、実際満洲国の教員の質を統一させようと した意図からきたといえよう。
教員講習所は開設されてから 1937 年 12 月まで、1838 名28の在職教員に再教育を行ってい た。前述していたように、仮に第 10 期から在職教員に対する日本語教育が始まり、11 期ま では毎回 50 名程度の人数で、12 期以後は毎回 100 名の募集程度として計算すれば、1937 年 12 月まで、教員養成所で養成されていた在職日本語教員はすでに 400 名近く、つまり、
これまでの総人数の 25%を占めていたと考えることができる。
2.2 中央師道訓練所による在職教員への再教育
1938 年、新学制の実施にともない、教員講習所が拡充され、名称は「中央師道訓練所」
に変更された。1938 年 3 月 17 日に満洲国政府は勅令第 36 号で「中央師道訓練所官制」を
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公布し、中央師道訓練所が民生部大臣の直轄下にあり、初等、中等教育の基幹教員及び視 学の養成を目的とすると明示している。新学制実施以後、中央師道訓練所における最も大 きな変化は、①訓育の対象者は、それまでの満洲国全域の初等・中等教育の在職漢人教員 のみから、日本から招聘されてきた日本人が加えられたこと、②教員養成の方式は在職教 員の再教育と新規教員の養成が同時進行する形となったことの 2 点である。したがって、
1938 年以後の中央師道訓練所の受講生の構成は表 3-6 のようになる。
表 3-6 1938 年中央師道訓練所構成
第一部(漢人など) 第二部(日本人、日本から選抜)
対象者 育成目標 対象者 育成目標
第一種 初等教育教員 初等教育教員 中等学校以上の卒業生 初等教育教員 第二種 中等教育教員 中等教育教員 専門学校・大学の卒業生 中等教育教員
第三種 視学 視学 中等学校の卒業生 中等教育教員
(武強(1993:65)『東北淪陥十四年教育史料』第 2 輯より、筆者作成)
表 3-6 に示されているように、中央師道訓練所には第一部と第二部があり、漢人教員を 第一部とし、日本人を第二部とする。各部の下に、受講生の出自及び養成目標によって、
さらに 3 種に分けられている。中央師道訓練所で再教育を受けていた漢人教員は、初等・
中等教師のほか、視学も対象者とされた。一方、日本人については、これまでの研究の中 で、表 3-6 のように、日本人の学力のみを示してあるが、出自などについては詳しく記さ れてこなかった。中央師道訓練所の日本人卒業生の情報を精査したところ、1938 年、第二 部第一種では 127 名の受講生が在籍し、同年 12 月 20 日に 124 名の卒業生を送り出したこ とが分かった29。また、卒業生の入所前の職業を見ると、学校の卒業生は 73 名、小学校教 員 27 名、その他は各種職員であった30。つまり、中央師道訓練所で実施した日本人に対す る教育は日本人の身分を区分せず、新教員の養成と在職教員の再教育を統合して行われた のである。だが、教育機関の卒業生の人数が遥かに多かったため、本研究では、中央師道 訓練所で行われた日本人に対する教育を新規教員の養成の枠組みに取入れ、3.2 の節で詳し く論述する。本節では、主に中央師道訓練所による教員の再教育について検討する。
1938 年 4 月 12 日に民生部訓令第 76 号をもって中央師道訓練所第 1 期生向けの「中央師 道訓練所訓練要綱」が制定された。その具体的な内容は以下の通りである31。
一 精神訓練を主体として東方道徳の真義を揚げる 二 帝国師道の本義を体得させ、教育報国の決心を固める
三 規律正しい、服従及び協同の実践能力を強め、責任感及び犠牲精神を深めることを通 して、垂範の役を果たせる
四 徹底的な団体訓練を通して、内務生活を規制する 五 知識技能を研究させレベルを高める
六 帝国内外状況を認識させる
七 国語を体得させる(第一部生に日本語、第二部生に漢語を学習させる)
以上の規定からみると、精神教育は相変わらず再教育の中心であることがわかった。特