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第 3 章 満洲国における教員の養成

5 教員による日本語教授の実態

前節までは満洲国の 3 種の教員養成方式、すなわち、中堅在職教員の再教育、新規教員 の養成と一般在職教員の検定について考察してきた。3種の養成方式の形式は異なるものの、

実際の教授科目及び内容についての分析を通じて、満洲国の建国精神に対する認識、「教育」

に関する専門知識、語学能力及び体力という4つの能力が教員に求められた点に 3種の養 成方式が共通していることがわかる。特に、語学能力については、漢人教員に対する日本 語教育を例として、日本語が各種養成方式の教授科目の中で教授時間数が最も多い科目で ある。満洲国の教員養成はある意味では日本語教員の養成であると考えられる。では、こ れらの各種養成方式で養成された教員は実際、教育現場でいかに日本語を教えていたのか。

本節では、筆者が行った満洲国の教員経験者に対するインタビュー調査に基づいて、満洲

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国で養成された漢人教員による日本語教育の実態について考察してみる。

2008年3月16日から21日までの1週間を利用して、筆者は東北師範大学と長春のある 公園で第1回目のインタビュー調査を行い、その後、2008年9月1日から15日まで、再 び長春に行って、吉林省社会科学院老幹部活動センターで第 2 回目のインタビュー調査を 行った。調査の中心内容は「日本語教員はいかに日本語を教えていたか」という問題点で あった。ここで、インタビュー対象のそれぞれの日本語学習史を挙げて、その中から、日 本語教員に関するものを拾ってみたい。

1. 2008 年 3 月 21 日 長春市内の公園 A氏 (男) 漢族

生年:1929 年 出身地 :長春市農安県 日本語学習歴 1940 年~1945 年

日本語レベル 1945 年、簡単な日常会話ができる 日本語授業に

ついて

日本語授業では、単に漢人教員について、「アイウエオ」の発音から単 語発音への順番で、繰り返して読んでいた。

2. 2008 年 3 月 20 日公主嶺市 楊氏 (男) 漢族

生年:1934 年 出身地:吉林省公主嶺市 日本語学習歴 1943 年~1945 年

日本語レベル 1945 年、「先生」「飛行機」など、いくつかの簡単な単語のみ覚えて いた。

日本語教員 小学校では日本人教員がいなかったが、漢人日本語教員は前日に夜 校で習ったことを翌日丸ごと学生に教えていくことにした。したが って、教員の日本語レベルはあまり高くなかった。

日本語授業につ いて

授業中、教員について単語を読んでから、教員は中国語で単語や文 の意味を説明してくれた。文法の教授は全然なかった。

3. 2008 年 9 月 8 日吉林省社会科学院老幹部活動センター 陶氏 (男) 漢族

生年:1925 年 出身地:遼寧省黒山県

日本語学習歴 小学校 5 年から中学校卒業までの 6 年間 日本語レベル 小学校卒業した時、簡単な日常会話ができる 日本語授業につ

いて

小学校 5 年生から日本語を習い始めた。陶氏がいた漢人の小学校で は、4、5 名の日本人教員がいたが、日本語の授業に担当した教員は ほとんど漢人であった。授業中、文法教授が行われなかった。教員に ついて、日本語の発音、片仮名の書き方、簡単な会話などを学習した。

小学校を卒業して、農科学校(中学校に相当する)に入った。その学 校では、日本人教師が農業、芸術の科目を担当して、中国人教師が日 本語の科目を担当した。教科書の名前をはっきり覚えていないが、そ の内容は主に物語を中心にしたもので、今も「太陽と風」という題目 のものを覚えている。日本語授業では、教師について、文を読んだり 暗唱したりした。中学校の中国人日本語教師のほとんどは師範学校出 身であったため、彼らの中で、語学検定試験を受けて、2 等に合格す

130 る人が多かった。

4. 2008 年 9 月 15 日吉林省社会科学院老幹部活動センター 張氏 (男)漢族

生年:1927 年 出身地:遼寧省蓋平県

日本語学習歴 小学校 6 年、中学校 4 年、大学 3 年 13 年間

日本語レベル 中学校を卒業した時に、満州国の日本語語学検定試験を受けて、筆記 試験の 2 等に合格し、口頭試験の 3 等に合格した。

日 本 語 授 業 に ついて

小学校 5 年生になると、最初に覚えなければならなかったのは「日満 一徳一心」「王道楽土」などの建国精神であった。その後、日本語授 業の時間が多くなり、その授業は日本人から日本語教育を受けた経験 がある漢人教員が担当した。漢人日本語教員の中で、自由に日本人と 交流できるレベルが高い教員がいた。

5. 2008 年 9 月 8 日吉林省社会科学院老幹部活動センター 郭氏 (男)漢族

生年:1928 年 出身地:遼寧省義県

日本語学歴 小学校 5 年、中学校 4 年、師道大学 1 年 10 年

個人経歴 1945 年終戦前に、南郭高級小学校で勤めていた。日本語を教えた。

日 本 語 授 業 に ついて

小学校 2 年から日本語を習い始め、日本語教員はみな漢人で、日本語 レベルは普通であった。単に日本語の発音と簡単な単語を教えてくれ た。

1938 年新学制が実施され、ちょうどその年に国民優級学校(小学校 5年)に入学した。学校の教員の中で日本人教員は 1 人しかいなかっ た。日本語の授業をやはり漢人教員が担当していた。文法教授なし、

発音の修正をしてくれた。

1942 年遼寧省の農科学校(中学校)に入学した。授業科目は中文、

数学、日本語および農科があった。日本語教材の内容はたとえば、野 口英世のような日本で有名な人物についての紹介や、「桃太郎」につ いての記述などがあった。漢人日本語教員が授業をする際、それらの 内容を中国語で説明して、そして、文を読ませて、発音を修正してく れた。それに、中学校で使っていた教科書の中で、漢字に対しては、

送り仮名が付いていなかったので、読むのが難しかった。

そのほか、農科の教科書はページの中に、上の半分は中国語で書いて あり、下の半分は日本語の訳文をつけたようなものがあり、その学校 の教科書の特徴にもなっていた。

自 身 の 日 本 語 教授

当時、教員が足りなかったため、1 人の教員が 1 組の数学、満語、日 本語など全部の科目を担当することになった。日本語の教科書は満州 国文教部より編纂された本であった。

実際授業する際には、最初、片仮名の発音及び椅子、机などのような 簡易な単語を教えた。単語の説明は全部中国語で行われていた。後に、

文がだんだん長くなっていった、それにもかかわらず、やはり以前の 通りに、日本語の意味を中国語で説明して、そして、学生を自分につ いて文を読ませていた。文法の教授は一切していなかった。

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以上のインタビュー証言により、当時の日本語教員の日本語教授について、以下の 2 点 にまとめることができると考える。

①当時の日本語学習者の評価から見れば、漢人日本語教員の日本語能力は様々であった。

前日に習ったばかりのことを翌日に学生に伝授する教員もいたし、自由に日本人と交流で きる教員もいた。特に、師範学校を卒業して中学校に勤める漢人教員の中に確かに満洲国 日本語語学検定試験の2等に合格する人もいた。

②漢人日本語教員により行われた日本語授業の共通点は文法の教授がなかったというこ とである。この文法教授がないことは、単に漢人日本語教員が教授を行う際に起こった問 題点だけではなく、満洲国における日本語教育全体の共通点でもあったといえる。たとえ ば、当時の日本語教科書の教授参考書を精査したところ、教師にいかに文法を授けるかを 明確に提示せず、単に学生の聞く、話す能力を強調していた68

ところで、インタビュー証言は、あくまで個別の事例であり、安易に一般化することは できない。しかし、これらの証言を客観的な視点から整理すれば、満州国における日本語 教育のひとつの具体的事例として、本研究を充実・発展させることができるのではないか と考える。

小括―満洲国における教員養成・教育の意味

本章では、満洲国における教員の養成・教育について考察してきた。満洲国建国初期、

教育の制度・方針などは策定されていなかったため、教員に関する制度はなかった。教員 の養成は民国政府の「壬戌学制」をそのまま踏襲した。1938 年、新学制の実施により、満 洲国の教育体系が確立され、また、「師道教育令」などの勅令、訓令の公布により、教員の 資格、任免、及び検定に関する制度が策定され、教員養成の制度はある程度整えられた。

満洲国建国初期、政府は満洲国の教育及び教員の質を懸念して、ひとまず教員講習所を 開設し、初等・中等教育在職教員の再教育に力を注いだ。教員講習所はその後、中央師道 訓練所、中央師道大学に改称されたが、始終漢人在職中堅教員の再教育を担っていた。ま た、開始時期が不明であるが、遅くても 1935 年より、教員講習所の役割は教員の思想の統 一、建国精神の伝授のみではなく、漢人在職日本語教員の養成も担うようになっていった。

1938 年に設立された地方師道訓練所は中央師道訓練所と同じ機能を有すると同時に、多民 族教員を対象者としたため、蒙古人とロシア人在職日本語教員の養成に果たした役割が大 きいことが指摘できる。

一方、師範教育による教員の養成については、初等教育教員の養成に、師道学校、師道 特修科、大学などに附設した師道科など、多様な方式があり、中等教育教員の養成には高 等師範学校などがあって、満洲国の教員不足の局面をある程度緩和できたと考える。この 多種の師範教育養成方式はそれぞれの基礎は異なるものの、教員の養成に建国精神、「教育」、 日本語及び身体訓練が実施されたという点においては一致している。特に「教育」という 教員の専門性にかかわる科目については、師道特修科と師道学校で教授された科目及び主