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日誌・作文の内容から描き出した人物像

第 4 章 満洲国における白系ロシア人の人材養成

4 満洲国における白系ロシア人に対する学校教育

4.2 建国大学

4.2.2 日誌・作文の内容から描き出した人物像

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(建国大学『露人学生に対する日本語教授の報告』1939 年に収められた「露人学生作文」

「塾生日誌抄」より、筆者作成)

以上、教科書及び白系ロシア人が書いた日誌・作文の誤用、文型及び漢字使用について の分析を通じて、1938 年、建国大学における白系ロシア人に対する日本語教育について考 察してきた。白系ロシア人向けの教科書が欠如していたものの、会話能力の養成が重要視 されたため、それまで満洲国で編集されてきた儒教を盛り込んだ教科書を排除し、あえて 日本文化を大量に取り入れた場面シラバスを中心とした『速成』を使用した。白系ロシア 人生徒の日誌や作文にはまだ文体・表記不一致などの問題が存在していたものの、教科書 で取り扱われた範囲内の文型及び助詞を自由に使いこなし、その正用率が伸び続け、また 漢字の書き・応用力も上級に達したという教育の効果を明らかにした。ただし、当時の日 本語教授の「文法説明なし」、「会話中心」という教育方針の下、白系ロシア人の日本語学 習に助詞の脱落、また、文型に連なる動詞の形が不明確などの問題が残っていたことが指 摘できる。

白系ロシア人の作文・日誌にどんな内容が記され、またどんな社会実態が反映されてい たのか。次節に日誌と作文の内容について検討してみる。

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の後、7 時に掃除、7 時半に朝食、13 時に昼御飯、17 時半に夕食と 21 時に就寝というスケ ジュールであった。そのうち、遥拝は日本による教育の共通行事で、満洲国のみではなく、

植民地台湾・朝鮮、またその後の東南アジア占領地でも行われた。民族を問わず、天皇崇 拝という実際の活動を通じて、異民族に日本の精神・文化を体得させ、精神・文化上の統 一を図ろうとした日本の植民地・占領地統治の特徴の一端が窺える。

また、午後 1 時の昼食後の学習時間の大部分は軍事訓練と勤労奉仕に占められていた。

1938 年、学校教育に新学制が導入されて大きく変更された教育方針の一つは、労作教育、

いわゆる勤労奉仕を取り入れたことである。また、戦時状況に応じて、中等以上の教育機 関で軍事訓練が求められたため、白系ロシア人はソの勤労奉仕を実行する運命からまぬか れなかった。9 月 19 日、丁は日記に「南嶺の兵営附近まで行軍48」と記しており、また、10 月 1 日、丙は日記に「今日は八時に出発して南嶺の東の射撃場へ行って射撃の演習をしま した49」と記録している。

②学習内容。建国大学における白系ロシア人に対する教育の中に、日語科目のほかに、

数学、西洋史、満洲史及び武道、柔道、剣道科目の設置が日誌の内容から窺える。たとえ ば、11 月 5 日、丙は日記に「今日大学の道場開き武道大会がありました。我が第二塾は剣 道の試合で勝ちました。大変嬉しい事でした50」と当日の喜びを記録している。

日語科目に関しては、前期の講読、会話、作文の上に、10 月より書取が加えられた。書 取は現在の聴解と異なり、聞いた内容を文字化する、つまり聞く・書くが同時進行の項目 である。それまでの会話、作文及び漢字認識能力が重要視された白系ロシア人向けの日本 語教育には、聞く・書く科目の導入により、日本語の四技能をバランスよく同時に求めら れたことが窺える。

また、満洲史科目の開設に注目したい。前述したように、1938 年、新学制実施後、白系 ロシア人教育機関に「神学」科目を排除し、その代わりに満洲地理・歴史を中心内容とす る「国民道徳」の開設が求められたが、対応する教材の欠如、また教材編纂に時間が必要 であるなどにより、実際、初等・中等教育機関での「国民道徳」科目の導入は実現できな かった。建国大学での白系ロシア人向けの満洲史科目の開設は、北満学院に継ぎ、満洲国 の高等教育機関の中で、白系ロシア人への満洲国「国民道徳」教育に踏み出した第一歩で あり、またこの教育は日本語教育とともに白系ロシア人の満洲国国民への統合教育の重要 な一環であると考える。

③校外生活。日誌及び作文の中に、学内の生活のみではなく、汽車を利用して、満洲国 の他の地域に行事に参加しに行ったり、故郷に帰ったりした学校以外の生活に関する記述 も見受けられる。学内の生活に関する記述の中に、白系ロシア人学生が感情を表にする表 現は少なかったが、校外生活については、故郷に帰る際の喜び、また、日本人の先生の家 を訪問する時、初めて日本の文化を感じ、日本の「汁粉」を飲んだ時の楽しさが文字から 溢れてくる。

建国大学では多民族共塾を営んでいたため、白系ロシア人の日本語能力を顧慮し、少し

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日本語会話ができる 2 人を中心にし、5 人を 3 人と 2 人に分けて 2 つの多民族共住の塾に編 入させた。しかし、日誌の中に他民族との交流に関する記述は極めて少なく、8 月 20 日、

甲が綴った「尹君と一緒に私の家え行って中食を食て松花江に行った51」という内容のみで ある。塾の担当者によると、入塾当初、5 名の白系ロシア人は共に「寂寥の感を」抱いてお り、1 ヶ月経ってから、徐々に同塾の日本人と日本語会話の練習を始めたという52

④宗教活動。白系ロシア人生徒の日誌・作文の中に、色彩が最も濃い部分は白系ロシア 人の生活と密接に関わる宗教活動に関するものの記述である。日誌には宗教活動に関する ものが 2 篇あり、5 篇の作文の中でも 2 篇がそれについて言及している。たとえば、9 月 25 日の日記に、丙は「今日はロシヤ人の大祭日がありました。私は教会に行きました53」と記 しており、また、12 月 4 日の日記に甲は「今日は聖母宮入祭ですから教会え行った54」と述 べている。セレデキンは作文のテーマを「復活祭」にし、文中には復活祭の意味について 説明している。「春節と関係あります。思わず人間に対して愛(する)55」と綴っている。ま た、セヴエルコーフは作文の中で満洲の冬について描写し、文の最後の段落に、「正月の七 日より十九日までの間にはロシヤの一番御目出度いお祭りがあります56」と述べ、「19 日に キリスト教徒は教会に集まり皆一緒に附近の川に行きます57」とそこでのイベントについて 紹介し、最後に「冬、私の一番好きな季節です58」と感情を表している。

「宗教の信仰はロシヤ人民の最も神聖とする点であり、宗教教育はそれまでの白系ロシ ア人教育の根底をなすところである」(後藤、1934:100)。新学制実施後、満洲国では神学 大学を除いて、白系ロシア人の高等教育機関には宗教に関する教育が実施されていなかっ たが、実際の生活上、白系ロシア人の宗教の習慣は尊重されていたことが窺える。この点 については、白系ロシア人の教育機関での休日の詳細からわかる。白系ロシア人向けの教 育機関での休日は総計 161 日と定められたが、そのうち、日曜日 52 日、夏休み 50 日、冬 休み 20 日、満洲国建国記念日 1 日、執政誕生 1 日、中国伝統の孔子及び関羽の記念日など 5 日間を除けば、残った 32 日は全てロシア正教の祭日となっている(後藤、1934:101-102)。

以上の日誌・作文の内容により、以下のような白系ロシア人青年像が描かれると考える。

1938 年、建国大学に入学当初、日本語の十分な会話能力を持たず、人数的にも少ないた め、他民族との交流はほとんどなく、多民族の共塾生活の中にあっては異色のように見ら れたが、日本語教育を受け、日本語が上達するにつれ、日本人及び他の民族との接触が漸 次多くなり、多彩な学校及び校外生活を営むようになった。日本語学習においては勤勉で、

明るく、向上心に満ちており、「常に和露辞書を携帯して未修の単語に遭えば必ず辞典につ きて之を資し、以て自己の知識となすと相当努力を継続59」していた。それゆえ、次年度入 学予定の白系ロシア人受験生への案内、また、先生に同伴して白系ロシア人居住地域に行 く際、先生の通訳が担当できた。白系ロシア人は日本語学習に情熱を示しているが、政治・

時勢には無関心で、ひたすら宗教信仰に強く執着して、ロシア文化・文学に関心が高いこ とが読み取れる。

しかし、一方、白系ロシア人はすでに日本・満洲国の文化を受け入れている一面も窺え

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る。日本人先生の家を初めて訪問した時の喜び、初めて汁粉を食べる際の嬉しさ及び武道、

相撲大会を鑑賞する際の楽しさは文字を通して伝わってくる。また、作文の中に「満洲帝 国の政府は心から国内の人民の生活を向上し、幸福にさせたいと思って、政治をやってい ます。その人民の中にはロシヤ人も入っているのですから私は将来の仕事として、大学を 卒業して官吏になり、満洲国の政府とロシヤ人其の他満洲国に住んでいる人達との間の仲 介人になりたい60」と将来の希望を述べている。この作文を前述した 1934 年に白系ロシア 人学生より綴られたロシア賛美、ロシア正教賛美を中心とした作文と比較すると、白系ロ シア人青年の認識の中にはある程度満洲国、満洲国国民の意識があり、また、満洲国が提 唱した民族協和の理念は多少なりとも白系ロシア人の認識の中に馴染みこんでいたという 思想の転換が読み取れるであろう。さらに、1943 年 6 月 12 日、建国大学では満洲国皇帝溥 儀が臨場下で 1938 年に入学した第一期生合計 106 名の卒業式が行われた。5 名の白系ロシ ア人はこの卒業生の中に入っていた。卒業する前、卒業生全員に対して高等文官試験が行 われ、その結果は、「学業のみではなく、建国精神の体得についても、成績極めて優秀で61」 あった。1939 年以後の建国大学で行われた白系ロシア人に対する教育の詳細は不明である が、この結果から推測すれば、5 名の白系ロシア人も満洲国の高等文官試験に合格し、満洲 国及び建国精神に対する認識が深まったと考えられる。