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第 1 章 満洲国の民族と教育

2 満洲国の教育制度

2.3 満洲国の社会教育と日本語

2.3.2 協和会による教育

2.3.2.2 協和会による日本語教育

前節まで、協和会の歴史に沿って各時期における協和会の性格と活動について確認して きた。協和会による活動の中心が建国精神を普及することにあるが、それだけにとどまっ てはいない。本節では、協和会による教育活動、特に日本語教育に関する活動について考 察してみたい。

(1)一般民衆に対する日本語教育

1932 年、建国当初、旧来の学校の教育方針や理念などが満洲国に相応しくないと判断さ れたため、満洲国では大量の学校が閉鎖された。その後、日本人教員の派遣および満洲国 での教員の養成などを実施して以後、初等・中等学校が 1934 年より次第に開校されるよう になり、それと同時に、満洲国の教育方針にそって、学校教育の中で日本語が導入された。

こうした背景の中での協和会の動きをみてみよう。

満洲事変以来閉鎖されていた小学校の開校に協力し、さらに日満両国の一心同体たる実 を挙げる一助として日満両国語の普及をはかり、一ヶ年半のうちに日語学院 38 ヶ所を開き、

その生徒数は 5 千人に達した。このほか国民の中堅分子を養成するために奉天に講習会を 設け、日本留学生(日本への留学生)のためにハルビンに留学生準備所を設立した。(満洲 国史編纂刊行会(1971:82)、下線は引用者による。)

上記の記述より、協和会が学校教育の再開に関与し、学校の再建に協力したことが確認 できる。それと同時に社会教育においては、協和会が日語学院を開設して凡そ 5 千人の日 本語人材を育成し、日本留学のための教育組織を設けていたこともわかった。ここから、

建国初期、協和会が積極的に日本語教育に取り組み、社会教育における日本語教育の一翼 を担っていたといえよう。なお、協和会による訓育は社会の一般民衆を対象者としていた が、その中に、特に「国民の中堅分子」としての青年に対する訓練教育が「国力の進展と 健全なる発達を促す上に最も緊要な事」とみなされ、講習会、訓練所などの形で行われた。

前述したように、協和会の組織構成には中央政府に協和会本部を置き、地方の各省に分 会を設置し、さらに各省の各県に事務室を設けるという三段階となっているが、実際協和 会の中心事業である民衆運動を有効に施行していたのは各県にある事務室である。1934 年 に中央政府により作成された「辨事処(地方事務室)工作に就いて80」によると、各事務室の 中心事業は「日満鮮(例外トシテ蒙露)青年中ヨリ有望ノ辨事員ヲ選ミ、之ニ一定度ノ訓練 ヲ加ヘテ任ニ就カシムベシ81」と明示され、そして、この訓練に向かって、各地域で青年教 育班と平民教育班の 2 つの訓育形式が編成されていた。そのうち、青年教育班の修業期間 は一年と定められ、訓練科目は「①日本語文②満洲国建国ノ歴史及王道政治ノ意義ト其ノ

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方法概要③協和会ノ性質及其ノ国際的意義④満洲社会及経済ノ現状ノ概略⑤平民教育ノ理 論及実際⑥共同組合概設【ママ】特ニ信用組合(都市ニテハ消費組合モ合セ)ノ理論及実際82」 が課された。協和会の各地の事務室による教育のもう一つの形式は一般民衆への平民教育 である。教育期間は三ヶ月で、「各種ノ千字課本ヲ授ケ、コレニヨリテ満洲国民特ニ順腐性 高キ農民トシテノ常識ヲ涵養セシム83」ことを教育内容としていた。そして、この平民教育 を担っていたのは、青年教育班及びそこの修業者である。

青年教育班のほか、青年訓練所も地方に普遍的に開設された。青年教育班の平民教育の 指導者を養成するという性格と異なり、青年訓練所は主に「将来郷村指導の中心となるべ き84」ものを養成するところである。奉天省では 1934 年 8 月より各県で青年訓練所を開設 しはじめ、県内の各村より選抜された優秀な青年を収容し、2 ヶ月から 6 ヶ月間の共同生活 式の訓育を実施した。訓育の内容については、各県によって異なるが、共通する科目とし ては精神訓話(建国精神、青年訓練所の主旨など)、農業、保甲制度、時事解説及び日本語 が挙げられる85。以上の青年訓育の事例から、1934 年の時点で、協和会による各地域で実施 された青年訓育においては、日本語の教育がすでに教育内容の必須科目となり、それと同 時に日本語が満洲国の各民族の青年に必要とされた基本素養の一つとなっていたことが窺 えよう。

時勢の移り変わりにつれ、1937 年以後、協和会による教育活動の重心が民衆への建国精 神の普及のほかに、より一層青年に対する訓育に置かれるようになった。1937 年 2 月 1 日、

協和会の中堅会員を獲得するために、民政部、軍政部と蒙政部の合同部令より満洲国で初 めての政府が組織した青年訓練所が開設された。訓練所の規定は以下のとおりである。

16 歳以上 19 歳未満の青年中、選ばれたものは民族を問わず、訓練所に収容して 2 ヶ月半 ないし 3 ヶ月の共同生活をなさしめ、その間に団体的精神を養い、規律、節制などの習慣 を習得せしめ、また、公民教育においては協和精神(民族協和)、法制、厚生、産業、日語 などの知識技能等の科目を設け、また、軍事訓練も受けさせた。(中略)日本語では、初歩 的なものを教えた。(満洲国史編纂刊行会(1971:109)、下線は引用者による。)

この記述により以下の 2 点のことを抽出することができる。第 1 に、1937 年の時点で、

協和会により実施された青年訓練教育の中に、日本語はすでに教授科目の一つとして定着 し、その教育は各民族の青年を対象にして実施されたと推定できる。第 2 に、民族協和理 念の普及が協和会の活動の中心であったことである。先ず、訓練対象者の民族を問わず、

共同に訓練を受けさせ、訓練生の構成から民族の協和を実践していたのである。次に、訓 練所での生活は「共同生活」を基本としており、訓練項目の中でも明確に「団体的精神」

や「協和精神」が設けられて、これは教育の内実において協和を追求していると考えられ る。満洲国における官吏・教員に対する教育、また、高等教育機関で実施された教育を精 査したところ、その教育のほとんどは「共同生活」で行われたことがわかった。たとえば、

1932 年 7 月 11 日に設立された高等官吏の訓育を担当した大同学院では、政府より推薦され てきた各民族の官公吏を対象とし、3 ヶ月から 6 ヶ月間の共同訓育を実施していた。しかし、

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満洲国ではこのような多民族共同生活型の訓育は大同学院より始まったのでなく、その雛 型と見なされるのは満洲国の成立とともに設立された大同学院の前身である資政局訓練所 による訓育86であると考える。その後、この形式は教員の訓育、及び学校教育にも応用され ていった。ここより、満洲国における中堅人材の養成に多民族共同生活という養成形式の 特徴の存在が窺えよう。

1940 年までに、協和会の主導で開設された青年訓練所は全国的に計 164 所に達した87。次 は、表 1-5 が示している勃利県青年訓練塾を例として実際の訓練状況をみてみよう。

表 1-5 勃利県青年訓練塾訓練状況表

各村別 大四駅村 進賢村 倭肯村 小五駅村 七台河村 青龍 三合 八家子村 大平村 杏樹村 合計

訓練回数 二回 二回 二回 二回 二回 一回 一回 一回 一回 14

第一訓練人員 30 18人 40人 53人 25人 24人 29人 40人 20人 279人

第二期訓練人員 40人 29人 34 40人 40人 _ _ _ _ 183人

第一訓練期間 5月20日~8月15 5月1日6月4 3月1日~6月1日 6月17日~8月1日 6月28日~8月28 7月15日~8月30 9月3日~12月3 総計

第二期訓練期間 9月26日~12月2 7月5日~10月5日 7月15日~10月1 8月1日~9月10 9月15日~10月3 11月1日~12月1 3月28日~6月30 462人

教材整備状況 青年教範30冊識字日語読本20冊 青年教範30冊読本20冊日語読本20冊 青年教範30冊公民(印刷)40冊 青年教範30冊識字日語読本20冊 青年教範53冊日語読本53冊協和 青年教範20冊日語20冊協和30国民読本25冊 青年教範30冊日語読本20冊青年誌本2冊 青年教範41冊 青年教範20冊

満洲帝国協和会(1942)『協和運動』第 4 巻第 12 号 46-47 頁より、筆者が作成した。

表1-5 より、1940 年に勃利県では、杏樹村を除いて他の9つの村ではともに青年訓練所 が開設され、青年訓練が実際に行われていたことが確認できる。入所した青年は国民小学 校を卒業した者もいれば、学歴がないものもいた。各科の指導員は全員協和会の会員が充 てられ、そのうち、青年訓練所を卒業したものがほとんどである。ここに、特に注目すべ きところは、9 つの訓練所のうちに半分以上が日本語という科目を開設したことである。こ れにより、1940 年の時点で、協和会が青年に対する日本語教育を重要視していたことが読

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み取れる。しかし、青年訓練所を卒業した青年たちの進路は多岐にわたる。例えば、満洲 国の大都市である奉天では、青年訓練所の卒業生の大部分が「警察官、鉄道警護隊員、下 級官吏などとなることを望み、元の職域或は地域に帰って活動しようとしな88」かった。こ の状況に直面して、協和会が「職場に対する中堅青年養成」を目的とする「転業(転職)青 年訓練」を実施するようになった。転職訓練の受講者は口頭試問と身体検査で決められ、

採用されたものに一か月程度の共同訓練が実施される。訓練方針としては、これまでの青 年訓練の趣旨である建国精神の鼓吹と団体的規律訓練の徹底のほかに、大東亜共栄圏建設 に合わせて実際の作業を通じて青年への勤労奉公精神の徹底化、及び自然科学、機械学、

衛生などの職場生活に必要な知識を授けることが挙げられた89。表 1-6 は当時の青年訓練所 での教授科目表である。

表 1-6 転職訓練教授科目表 (単位:時間)

訓練主標 課目 時数 授業課目主旨

徳性涵養 建国精神 2 建国精神一般理念

産業人トシテノ人構 建国史 3 建国ノ具体的事情

国民道徳 5 国民道徳意義ヲ理解セシメ実践要領 勤労興国観 5 転業ノ必然ト勤労興国ノ意義 大東亜戦争 4 大東亜戦争原因意義及理想

修身 10 自由的道義的生活ノ糧

国民訓 3 団体観念ノ認識

日語 30 職場ニ要スル簡単ナル日語 常識涵養卒業人トシ

テノ一般常識

保健衛生 5 個人衛生公衆衛生工場安全教育 自然科学 3 自然ト人類ニ関スル常識 機会工学 3 機会ニ関スル簡単ナル知識 身體鍛錬汗ト愉悦ノ

訓練

教練 66 職場規律確立ノ根底基本訓練

作業 60 聖汗ニ依ル生産ト歓喜ノ體識

産業體換 15 産業報国精神涵養及體位向上 唱歌 10 行動ニ潤ト余裕ヲ興エ活力素ノ補給

満洲帝国協和会(1943)『協和運動』第 5 巻第 9 号 83 頁より転載。

表 1-6 から言えることは、第 1 に、1943 年の戦時状況に合わせて協和会より開設された 訓練所の教育の重点は、すでに協和会成立初期と中期の建国精神の普及から身體鍛錬に移 っていったことである。教授科目の中に教練と作業、つまり、体を動かした実践の分量が 他の科目より遥かに多かった。第 2 に、教授時間総数の 2 番目を占めていたのは日本語で ある。1ヶ月の訓練で、ほぼ毎日1時間という配分で日本語教育が行われたことが推測で きる。ただし、日本語の水準に関しては、「職場に要する簡単なもの」と定められており、

これより、社会教育組織である青年訓練所においての日本語の水準には職場への適合性の みが求められていたと推測できよう。転職訓練を受けた青年の進路先については、第 1 回 目の訓練には 114 名の訓練生のうち、97 名の卒業生が全部満洲飛行機に入職し、第 2 回に 109 名の卒業生の中の 64 名が奉天造兵所に、30 名が満洲工学に、15 名が藤倉工業に入職し たというデータが示されている90。このデータに協和会による教育の結果が如実に反映され