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中央師道訓練所による日本人教員の養成

第 3 章 満洲国における教員の養成

3 満洲国における教員の養成

3.2 中央師道訓練所による日本人教員の養成

大森(1997:63-64)によると、満洲国では初めて日本人教員に対する教育を実施したのは 1937 年 6 月 1 日から高等師範学校付属臨時初等教員養成所で 50 名の日本人教員に 6 ヶ月間 の訓練を施したことであった。この 50 名の教員は、1936 年満洲国政府により策定された「日 系教師全満配置五ヶ年計画」に応じて、日本国内の府県知事の推薦を受けた有資格者から 選抜された優秀な教員である。これらの教員はそもそも日本の教員資格を持っていたため、

訓練後、満洲国の教諭の免許状が授与され、満洲国の教育機関に配置された。

上記の教員資格を有した日本人教員に対する教育を再教育というなら、満洲国で本格的 に日本人教員の養成を行ったのは 1938 年新学制実施後、中央師道訓練所で実施された訓育 である。本節では、満洲国の教育制度の時期区分に沿って、1943 年を境界線として、1938 年から 1945 年まで、中央師道訓練所で実施された日本人教員の養成について考察し、満洲 国が期待した日本人教師像を描いてみたい。

前述したように、中央師道訓練所はそもそも漢人などの民族の在職教員に対する再教育 を行う機関である。1938 年、新学制の実施にともない、3 月 17 日付の勅令第 36 号をもっ て「中央師道訓練所官制」が公布され、同年 4 月 12 日に民生部訓令第 76 号で「中央師道 訓練所訓練要綱」が公布された。この要綱により、中央師道訓練所は同年から、受講生を 二部に分けることになった。第一部の対象者は漢人在職教員で、第二部は日本人である。

第二部はさらに三種に分けられた。その内訳は、第一種は初等教育教員育成部門、第二種 は専門学校卒業以上の学力を有するものを対象者とした中等教育教員育成部門、第三種は 中等学校卒業者を対象者とした中等教育教員育成部門である。前述したように、1938 年に 入所した第一期生の経歴を調べたところ、教員資格を有する在職教員もいたが、新卒者は 総人数の半分以上を占めていたことがわかる。つまり、中央師道訓練所で実施された日本 人教員の養成は、在職教員の再教育と新卒者に対する新規教員養成の統合であるといえる。

1938 年第二部第一期生の人数、訓練期間及び訓練科目は表 3-21 のとおりである。

表 3-21 1938 年第二部第一期生訓練状況

人数 訓練期間 訓練科目

第一種生 127 5.11∼12.20 建国精神、教育、帝国内外事情、満語、体育、実習、特別研究、特別講演 第二種生 175 4.1∼4.30 建国精神、教育、帝国内外事情、満語、体育、特別講演

第三種生 50 4.1∼4.30

(武強(1993:71)より筆者が作成した。)

表 3-21 から、中央師道訓練所で養成された中等教育教員の人数は初等教育教員より遥か

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に多いことが分かった。また、訓練の期間から見れば、初等教育教員には半年の期間が定 められたのに対し、中等教育教員の養成機関はわずか 1 ヶ月しかなかった。このことから、

満洲国では当時、中等教育教員が緊急に必要であったことが窺える。

訓練科目については、初等教育教員と比べ、中等教育教員には実習と特別研究が課され ていないことがみられる。実習とは、教育実習のことではなく、農業の実習を中心とし、

実際の農業労作を通じて所生の勤労の精神を養うという、文教部の方針によるものである。

特別研究は、建国精神と教育の何れかを課題にし、そして、受講生を班に組んで、共同研 究を行うことで相互の知見を高めることを目標とした。

また、他の科目の指導については、建国精神は建国精神の本義を闡明して、訪日宣詔の 内容及び意義を理解させ、体得させる。「教育」は帝国教育の根本に基づき、教育理論、実 践、教育法規及び師道修練上に必要なことを授ける。帝国内外事情については、国内と国 外に分けられており、国内事情は満洲国の行政、財政経済、軍備治安、農村事情、協和会 及びその他の一般知識を指し、国外事情は外交及び国際事情、また、日満不可分の関係を 論述する内容である。漢語については、初等教育教員に基礎的な漢語力が求められ、中等 教育教員には漢語の初歩が求められた。体育には、体操、教練、乗馬、射撃及び武道が課 され、受講生の心身鍛錬、また団体としての訓練が重要視された。

各科目の教授時間数は表 3-22 のとおりである。

表 3-22 1938 年訓練所学科目回数 (単位:回) 訓練科目 第一種生(6 ヶ月) 第二、三種生(1 ヶ月) 漢人教員(10 ヶ月)

建国精神 20 7 30

教育 154 30 102

帝国内外事情 25 11 34

満語(日本語) 222 255

(武強(1993:69、72)より、筆者作成)

表 3-22 に挙げられている学科目は訓練所での主要科目である。毎回の教授時間数は 2 時 間である。表 3-22 より、一見、同じ科目であっても漢人教員に課される時間が多いように みられるが、漢人教員の訓練期間が長かったため、平均的には、建国精神、帝国内外事情、

日本語に与えられた時間は日本人第一種生とほぼ同じである。また、学科のうち、日本語 と漢語に割かれた時間が最も多く、訓練期間中にほぼ毎日 3 時間以上が語学教育に充てら れたと推算できる。これにより、満洲国政府が初等日本語教員の養成を重要視し、しかも 単に漢人教員の日本語能力のみではなく、日本人教員に対しては漢語能力を高く求めてい たことが窺える。第二期生の矢口進氏は、中央師道訓練所に在学中、漢語の教育に重点が 置かれたため、漢語の学習に相当の努力を注いだと述べている59。また、第二期生の岸田愛 造氏は訓練所を卒業してから、日本語を教えながら、日本人子弟向けの国民学校で漢語を 教えていた60ということからみると、中央師道訓練所での漢語学習は受講生には多大な意味 を持っていたと考えられる。

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また、表 3-22 より、「教育」科目の時間数については、日本人は漢人教員より多く設定 されたことが分かる。満洲国政府民生部教材編纂を担当していた松尾編審官は中央師道訓 練所で「日本語読本編纂の趣旨」と題して講義を行った際、日本人教員の責任について「日 系教師としては児童に対する日語指導のみでなく、学校教師への指導やその地区民衆をも 指導する等、日系教師の活動分野は拡範囲である61」と指示している。そして、これらの指 導や活動に関する技能を身に付けさせために、「教育」科目にも多くの時間が配分されたと 推測できよう。

以上に挙げられた科目のほかに、訓練所内で定期的に座談会を開き、所生と教官の意見 交流を図り、また、受講生の心身を鍛錬するために、行軍が実施された。その他、満洲国 の農村の現状を理解し、それに相応しい学校教育の在り方を検討するために、受講生に農 村実態調査が課されていた。そして、初等教育教員の訓練が終了する1ヶ月前、論文の提 出が求められ、それに基づいて総合的な考査を行ったうえで、合格可否の判断が下され、

合格者に修了証書を授与する。

日本人所生の訓練内容と漢人在職教員の訓練内容を比べると、教授科目において漢人在 職教員に自然科学と日本語が課されたほか、その他の科目はほとんど同じである。しかし、

これらの教授科目と内容を師範学校の教授科目と内容と比較してみると、科目の数も内容 も師範学校より少ないことがわかる。このことから、1938 年中央師道訓練所で実施された 日本人教員の養成は、師範学校で行われた教員養成に相当するものではなく、その実質は 在職教員に対する短期再教育と同じ性格を持つものであると指摘できる。

前述したように、1939 年以後、中央師道訓練所の構成は変更しつつあった。中央師道訓 練所の主事徳宿太重はそこで養成された日本人教員を満洲国の中堅教員にさせるには、1 年 の訓練期間では不十分だと政府に申し出62、その結果、1939 年より、日本人初等教育教員の 養成期間は 1 年7ケ月まで延長された。1940 年、中等師道訓練所では第一部を錬成科に改 称し、第二部は養成科へと名称を変更した。1941 年になると、養成科には初等教育教員を 養成する第一部、中等教育教員を養成する第二部と朝鮮人教員を養成する第三部が設けら れ、そのうち、第一部は学歴によって、甲類と乙類に分けられる。甲類は日本の中等学校 及び乙類の卒業者を対象者とし、乙類は日本の国民高等科卒業者を対象者とする。第一部 は一貫して 5 年、第二部は 6 年、第三部は 6 年と日本の師範教育制度を模倣していた63。こ れによって、満洲国における日本人教員の養成の形式が整えられたと考える。さらに、1943 年、養成科の乙類は前期と改称し、甲類は後期と改称した。中等教育日本人教員の養成は 師道大学の錬成科に移管された。1944 年、中央師道訓練所は中央師道学院と改称された。

1939 年以後の中央師道訓練所の学科目及びその内容については、1943 年に入所した金谷 源治の回想によると、1944 年の授業科目は「建国精神、国民道徳、満語、武道(柔剣、銃剣 術)、体育、農業実習などと軍事教練が主になって、一般教科は少なくなっていた64」。また、

1944 年 4 月入学した金井治水は、学校の授業の中に数学、物像、生物、用器画、唱歌、ロ シア語、東洋史などの科目が設けられた65と述べている。金谷源治が語った一般科目はおそ