第 3 章 ファミリービジネス
3.6. ファミリービジネス研究
3.7.2. ファミリービジネスの視点からのトヨタ自動車
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企業では、所有と経営の一致にともない経営者の保身により効率性が低下する 可能性も指摘している。
3.7.ファミリービジネスの歴史
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当時は綿糸紡績業の近代化が急速に推し進められた時代で、豊田佐吉は機械 の修繕を通じて動力機に興味を持つようになり、自動織機の発明をしようと試 みた。そして、試行錯誤の末、
1891
年に木製人力織機を発明し特許を取った。しかし、手動の木製人力織機では生産性に限りがあり、豊田佐吉はさらに動 力織機の開発を行おうとした。周囲から変人扱いされるほど研究・製作に邁進 し、
1896
年に動力織機を発明した。この動力織機は、人力に比べて10
倍から20
倍の高い生産性を誇り、品質の均一化をも実現し、繊維業界で爆発的に売れ るに至った。これに注目したのが三井物産である。1907年に三井物産等の出資で豊田式織 機株式会社が設立され、豊田佐吉は常務取締役兼技師長に就任した。ところが、
日露戦争後の反動恐慌で豊田式織機が業績不振に陥ると、経営陣は豊田佐吉に 責任を押し付け、1910年に辞任に追い込んでしまう。
その後
1911
年に、愛知郡中村大字栄字米田に個人経営の豊田自動織布工場の 建設を計画した。資金不足に悩んでいた佐吉は、豊田式織機株式会社の一件で 疎遠になっていた三井物産の大阪支店長である藤野亀之助と、名古屋支店長で ある児玉一蔵に助力を仰いだ。そして、両者の尽力で資金援助を受け、工場の 建設に至った。同じ時期、紡績工業が稼働し始めた
1914
年に第1
次世界大戦が勃発した。莫 大な注文が舞い込み、豊田式織機で莫大な収益を上げることができた。1918年 には株式会社に改組し、豊田紡績株式会社と名称を変更した。また、最大の輸 出先であった中国が関税を引き上げたため、中国現地法人、豊田紡績廠を設立 して中国の上海に進出した。トヨタ紡織の経営が安定すると、豊田佐吉は経営を婿養子の豊田利三郎に任 せ、自身は自動織機の開発に没頭した。1924年、ついに完全な自動織機が完成 し、その自動織機製造のため、1926年に愛知県刈谷町に株式会社豊田自動織機 製作所を設立、初代社長に豊田利三郎をすえた。
このようなことから、戦前、豊田紡織、豊田自動織機製作所などから構成さ れた企業群は、しばしば豊田財閥とよばれた。豊田佐吉の創った会社は地方財 閥と認識されるまでに至ったのである。
トヨタ自動車は、豊田佐吉の長男である、豊田喜一郎によって設立された。
豊田喜一郎は旧制第二高等学校を経て東京帝国大学工学部を卒業し、
1921
年に 豊田紡織に入社した。欧米の繊維業界視察の後、自動織機の開発に参画、1926 年に豊田自動織機製作所が設立されると、同社の技術担当常務に就任した。豊田喜一郎は、父親の豊田佐吉に劣らず、創業者精神にあふれ、国産自動車 の製造を志した。父から自動車開発を命じられたと言う説もあるが、周囲から は理解されず、人目を避けて極秘裏に自動車の開発と研究が行われた。
1933
年 には豊田自動織機製作所内に自動車部門を設置し、愛知県西加茂郡挙母町に工 場用地を買収、本格的な開発に着手した。しかし、なかなか開発は円滑に進ま ず、資金ばかりを費やした。豊田佐吉の死後、豊田財閥を指揮していた豊田利87
三郎は、豊田喜一郎の自動車製造に反対していたが、夫人の愛子が豊田喜一郎 の自動車製造にかける熱意を認めてやるよう説得した。
一方、日本政府は満州事変勃発後、戦地でのトラックの活躍に目を見張り、
1935
年に自動車産業の育成を目的とした法案を閣議決定した。豊田喜一郎は、どうにかこの年に国内乗用車とトラックの第
1
号完成を間に合わせ、実績をア ピールした。翌年の1936
年に自動車製造事業許可会社の指定を受けることに成 功し、1937年に豊田自動織機製作所自動車部を分離、トヨタ自動車工業を設立 し、初代社長に豊田利三郎、副社長には豊田喜一郎が就任した。そしてトヨタ 自動車工業の設立と並行して関連部門も徐々に発足し始めた。1938
年に軍部はトヨタ自動車工業に対してトラック増産を要請、大量生産に 向けた鋼材の安定供給を目的に、1939
年に豊田自動織機製作所は大規模な製鋼 工場を決定した。同工場をもとに、1940年に豊田製鋼を設立、同社に精密工作 機械の製造事業を移管した。1943
年には川崎航空機工業と合併し、アイシン精 機となった。更には1945
年には豊田車体工業を分離し、同社自動車車体の製造 事業を移管した。部品製造の分社化が進む一方、本家の豊田紡織がトヨタ自動 車工業に吸収合併される事態が起こった。第
2
次世界大戦の勃発で欧米は日本からの輸入を中止、輸出産業であった紡 績事業は大打撃を受け、整理統合の嵐が吹き荒れた。豊田財閥でも、1942
年に 豊田紡織が内海紡織4
社と合併し、中央紡績と改称して延命を図った。しかし、紡績事業を続けていく余地が無くなり、翌
1943
年にはトヨタ自動車工業に吸収 合併されてしまった。第
2
次世界大戦が終戦を迎えると、GHQは財閥解体を指示、豊田財閥はその 動きを察知して、1945
年に参加企業から豊田称号を取り去り、グループ会社間 の役員兼任をやめて恭順の意を示し、解体から免れようとした。豊田製鋼を愛 知製鋼、豊田工機を刈谷工機、トヨタ車体工業を刈谷車体と改称、飛行機製造 の東海飛行機を愛知工業と改称した。しかし、豊田産業が持ち株会社の指定を 受け、解散を余儀なくされる。豊田産業は、
1936
年に月賦販売を目的にトヨタ金融として設立され、1942
年 に豊田産業と改称、豊田紡織がトヨタ自動車工業に吸収合併される過程で、所 有株式を譲り受けていたため、持ち株会社として認定された。同社解散後、1948
年に商事部門を継承して日新通商を設立、1956
年に豊田通商と改称して現在に 至っている。1949
年、GHQ
はインフレを抑止するため、経済顧問のドッジが提案する超緊 縮財政政策の新規融資を停止させ、財政補給金を廃止、公債の償還等をしたた め、インフレの終息に大きな効果があった。その反面、日本は急激なデフレに 見舞われ、企業の資金繰りの悪化を招いた。トヨタ自動車工業もその被害を受 け、同年12
月には資金調達に行き詰まり、倒産の危機に瀕した。そこで、1950年に販売部門を分離し、トヨタ自動車販売を設立した。ここに 至って労働組合は、会社が人員整理に踏み切るのは必至とみて、大規模ストに 突入した。トヨタが危機に瀕した際、豊田喜一郎は、人員整理は一切しないと
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労組と覚書を交わし、賃金10%カットを要請した。しかし、遂に人員整理な しには会社の存続が危ぶまれる状態にまで陥ったのである。
豊田喜一郎は労働組合に人員整理を提案し、引責辞任を表明。
1950
年6
月、社長の豊田喜一郎以下、主要な役員のほとんどが退任、豊田自動織機製作所社 長であった石田退三が、トヨタ自動車工業社長を兼務するようになった。
この未曽有の事態に労働組合も動揺し、人員整理を受け入れ、ストライキを 終結にするに至った。
三代目社長の石田退三は豊田喜一郎に社長復帰を勧めるが、豊田喜一郎は急 死してしまう。長男の豊田章一郎はまだ
27
歳、従兄弟の英二も39
歳にしかす ぎず、まだ跡取りが育っていなかった。そのため、石田は豊田自動織機製作所 の社長を兼務したまま、トヨタ自動車工業社長の続投を余儀なくされた。石田退三は愛知県知多郡の農家の六男に生まれ、母方の遠縁にあたる児玉家 から滋賀県立第一中学校に通った。中学校卒業後、代用教員、洋家具屋の丁稚、
呉服屋の番頭、服部商店の営業マンなど職を転々とする。そして、服部商店時 代に取り引き関係にあった豊田佐吉の知遇を得て、1927年に豊田紡績に入社し た。その後監査役、取締役などを歴任するものの、豊田紡績が紡績業を廃業す るにともない、豊田自動織機製作所の常務に転じ、1948年に社長に就任する。
1950
年のトヨタ危機で石田はグループ会社の一員として救済に奔走し、豊田 喜一郎が引責辞任したのを引き継いで、トヨタ自動車工業社長に就任したので ある。石田は社長就任のあいさつの最後に、「各位のご期待に副うことができま したあかつきには、再び豊田喜一郎氏が社長に就任することを前もってご承認 お願いいたしたいしだいです」と締めくくっている。後の豊田英二を社長に推したことから、石田は忠実な大番頭として大政奉還 を演出したように言われている。しかし、実際には、「トヨタでは、豊田佐吉や 豊田喜一郎を表面に立てなきゃ役員にはなれない」と述懐し、「豊田喜一郎のベ ンチャー精神が危なっかしくて見ていられない」と漏らすなど、シビアな目で 創業者一族の能力を見極めていた。
たとえば、豊田利三郎の長男、豊田幸吉郎が豊田自動織機製作所の専務時代 に、石田はどうも二代目はボンクラが多い。豊田一族だろうが関係ないといっ て、1975年に、豊田喜一郎を平取締役に更迭してしまった。豊田幸吉郎は豊田 佐吉の最年長の孫である。一族に与えた衝撃は計り知れなかっただろう、だが、
この創業者一族に対するシビアな姿勢は、その後もトヨタグループに脈々と受 け継がれ、豊田一族は鍛えられていく。
石田は自分の城は自分で守れと語り、愚直なまでに製造業の経営に徹した。
その一方、金にならない無駄は徹底的に排除した。また、財界活動を嫌ったた め、財界人から自社の業績しか顧みないトヨタモンロー主義と揶揄された。
1961
年に、石田は三井銀行神戸支店長であった中川不器夫に社長を譲ったが、中川が