九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
学部留学生の自律的学習能力向上支援を目指す日本 語教育方法の探索 : メタ認知の活性化を促す学習活 動を通して
長谷川, 順子
https://doi.org/10.15017/2534368
出版情報:九州大学, 2019, 博士(比較社会文化), 課程博士 バージョン:
権利関係:
博士学位論文
学部留学生の自律的学習能力向上支援を目指す 日本語教育方法の探索
―メタ認知の活性化を促す学習活動を通して―
九州大学大学院比較社会文化学府 長谷川 順子
2019 年 7 月
i
要 旨
本研究は、日本の大学で学ぶ学部留学生の自律的学習能力の向上を支援する日本語 教育方法を開発することを目的とする。留学生対象の日本語科目の授業に自律的学習 能力の向上に有効とされているメタ認知の活性化を促す活動を組み入れ、継続的にそ の活動の内容と方法を改善しつつ結果を観察し、受講した学習者の認識と行動を質的 に調査して、方法の妥当性を検証した。以下に、本論文を構成する各章の概要を示す。
第 1章では、本研究が必要とされる背景と目的を述べ、探索方法を示した。今日の 大学教育で育成することが目指されている「学士力」及び関連する能力の内実を確認 した上で、学部留学生への重要な支援として提供されている日本語教育科目の役割を 検討し、自律的学習能力の養成が喫緊の課題であることを捉えた。この認識に基づい て、自律的学習能力の向上を支援する学習方法を探索するという本研究の目的と意義 を述べ、その探索を進める手順を提示した。
第 2章では、学部留学生の自律的学習能力の向上を支援する活動を考案する前提と して、関連する主要な研究を概観して課題を認識するとともに、留学生の持つニーズ と可能性を把握した。まず、「自律的学習能力」という概念を検討し、その中核要素と される「メタ認知」を活性化させるには「ストラテジー」の知識・技能の向上と自己の 学習を捉える「内省」の促進が必須要素であることを認識した。また、学部留学生に 提供される「アカデミック・ジャパニーズ教育(以下、AJ 教育)」が目指す「市民と しての力」は、「学士力」の中心概念である「生きる力」に通底し、「自律的に学ぶ力」
が必須要素であることを確認した。こうした認識に基づく実践研究が既に行われ、教 育方法開発への示唆が豊かに提供されているが、ストラテジー指導と初年次段階のメ タ認知の発達を継続的に観察して効果を検証することは、いまだ試みられていなかっ た。一方、学部留学生に行った実態調査結果から、自律的学習能力の向上を目指す支 援が学部留学生に必要とされている現状を認識した。以上の検討から、本研究では、
「メタ認知」の活性化を目指し、その直接的表れの一つと見なされる「学習ストラテ ジーの理解と行使」とメタ認知の発達を促す「内省活動の実行」を基本方針として、
それに資する学習活動を考案して実行し、学習者の認識と行動の変化を観察して、そ の効果を検証すべきと考えられた。
第3章では、上記の基本方針に基づいて開発し、2014年度から2017年度の4期に わたって行った学習活動と用いた教材を示し、アクション・リサーチの経過を報告し た。教育実践と調査を行った場は、九州地区の某国立大学工学部の学部留学生に提供 されている日本語科目「日本事情」で、読解活動や発信活動に関連した「学習ストラ テジーの理解と行使」と「内省活動の定期的実行」の2 つの活動を必須項目としなが
ii
ら、当該学期の受講者のニーズと実施結果の分析に基づいて、各期の使用教材や活動 内容を調整した。受講者の数は限られていたが、継続的な観察を行い、これまでほと んど捉えられていなかった初年次段階の日本語学習者の認識と行動の様相を明らかに した。最後に、4期にわたる実践の総合的分析に基づき、活動形態、学習素材、担当者 による学習者への対応の3点から、望ましい支援の方法について考察した。
第 4章では、当該科目の実施中及び終了後に得られたデータをもとに、授業に組み 入れたメタ認知活性化を目指す活動の妥当性を検証した。学習者が毎回の授業の最後 に記述した内省文を主要データとして実施中の学習者の認識や行動を分析し、学習活 動への動機の継続と学習に関する気づきの状況を観察した結果、概ね望ましい方向へ の変化が起こりつつあることが捉えられた。科目終了の約2 週間後と約半年後に協力 者に対して行った半構造化面接調査結果の分析から、科目中に捉えられた肯定的な変 化が終了後の日本語科目以外の科目や他の活動へも波及していることを確認した。加 えて、学習者の内省文に行った教員のフィードバックを分析し、継続的なフィードバ ック活動が学習者のメタ認知を活性化させただけでなく、教員自身の内省にも肯定的 な影響を及ぼしたことが観察された。以上の検証から、基礎的学力が高く主体的な学 習能力を備えていると見られた本コースの留学生にとっても、意識的にメタ認知の活 性化を促す活動が「学び方」を拡張する契機となり、有益な影響を及ぼした可能性を 捉えた。本研究が、これまで積極的な援助方法の考案が等閑視されがちであった高い レベルの基礎力と意欲を有する学習者を対象とした日本語科目のコース・デザインの 開発に寄与したと考えられた。
第 5章では、研究成果をまとめ、残された課題を総括した。初年次の学部留学生へ の支援として本研究が設定した「自律的学習能力向上の支援」という目標と、本研究 で行った「メタ認知の活性化」を主眼とする支援方法は、概ね妥当であり、AJ教育が 目指す「市民としての力」の育成に欠かせない自律的学習能力を高めることに役立つ と考えられた。自己主導型の学習への適応が速やかに進まない学習者へのよりよい支 援方法については、今後も継続的に観察と検証を積み重ねていく必要が認識された。
本研究は、対象とした数が多くはなく、かつ、比較的基礎力の高い学習者に限定され てはいたが、その基礎力の高さゆえに自助努力に期待される傾向があった学習者も援 助を必要としており、彼らの必要に適合した援助を提供することによって大学教育の 目標の達成に直結する成果が生み出されることを明らかにした。本研究の成果は、学 部留学生への日本語教育方法として広く応用され得るものであり、学部留学生教育の 質の向上に一定の貢献をなしたと考える。
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目 次
要旨 ... ⅰ 目次………... ⅲ 表一覧... ⅴ 図一覧………... ⅶ
第1章 研究の背景と目的及び構成 ... 1
1.1 本研究の背景……… 1
1.1.1 今日の大学に期待されている教育とは……… 1
1.1.2 学部留学生教育の前提:不確定性……… 7
1.1.3 大学の留学生教育における日本語教育の役割……… 8
1.2 本研究の目的 ... 10
1.3 本研究における探索の方法 ...11
第2章 自律的学習能力育成に関連する研究の動向と学部留学生の現状 ... 12
2.1 自律的学習能力の理解と育成に関する先行研究 ... 12
2.1.1 学習者の「自律性」の概念とその理解の発展 ... 12
2.1.2 「自律性」育成のための必須要素 ... 17
2.1.3 ストラテジー研究の発展と学部留学生支援への示唆 ... 22
2.1.4 日本語教育における「自律性」を重視する教育の発展... 28
2.2 学部留学生の現状:そのニーズと可能性 ... 36
2.2.1 調査の概要 ... 36
2.2.2 結果及び考察 ... 39
2.3 本研究における学習方法開発の方法 ... 45
第3章 開発した日本語コースとその実施結果 ... 49
3.1 開発した日本語コースの概要 ... 49
3.1.1 コースの設計 ... 49
3.1.2 コースの実施概要 ... 55
3.2 実施結果 ... 57
3.2.1 第Ⅰ期(2014年度後期)の実践の概要 ... 57
iv
3.2.2 第Ⅱ期(2015年度後期)の実践の概要 ... 66
3.2.3 第Ⅲ期(2016年度後期)の実践の概要 ... 75
3.2.4 第Ⅳ期(2017年度後期)の実践の概要 ... 89
3.3 コース実施からの示唆 ... 104
3.3.1 実施した4期の展開 ... 104
3.3.2 コース実施結果からの示唆 ... 107
第4章 メタ認知の活性化を目指す活動の効果検証 ... 112
4.1 コース実施中の学習者の認識と行動へのメタ認知活性化活動の影響 ... 112
4.1.1 分析の手続き ... 112
4.1.2 結果及び考察 ... 114
4.1.3 日本語科目のコース・デザイン改善への示唆 ... 131
4.2 コース終了後の学習者の認識と行動へのメタ認知活性化活動の影響 ... 132
4.2.1 分析の手続き ... 132
4.2.2 結果及び考察 ... 134
4.2.3 日本語科目のコース・デザイン改善への示唆 ... 148
4.3 教員のフィードバックの影響 ... 149
4.3.1 分析の手続き ... 149
4.3.2 結果及び考察 ... 149
4.3.3 フィードバックの意義 ... 154
4.4 メタ認知活性化の促進を目指す活動の効果 ... 154
第5章 結論 ... 155
5.1 本論文のまとめ ... 155
5.2 本論文の意義 ... 163
5.3 今後の展望 ... 164
参考文献 ... 166
資料一覧 ... 184
付録資料 ... 186
初出一覧 ... 247
謝辞 ... 249
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表一覧
表1-1 「近代型能力」と「ポスト近代型能力」 ...2
表1-2 わが国における「新しい能力」概念 ...4
表1-3 OECD-DeSeCo のキー・コンピテンシー ...5
表2-1 学習者トレーニングのコンテンツ・スキーマ ... 18
表2-2 PIFSカリキュラムのテーマ ... 21
表2-3 優れた学習者がよく活用する学習ストラテジー ... 23
表2-4 言語学習ストラテジーの特徴 ... 23
表2-5 学習ストラテジーの予備的分類 ... 25
表2-6 CALLA:The Cognitive Academic Language Learning Approach ... 26
表2-7 Metacognitive Model ... 26
表2-8 AJ教育と関連する具体的な教育研究領域 ... 31
表2-9 日本語の文章構造を捉えるための読解ストラテジー ... 33
表2-10 調査の項目(問題の所在) ... 37
表2-11 各項目の質問 ... 37
表2-12 協力者の在籍学年 ... 38
表2-13 協力者の母語 ... 39
表2-14 協力者の所属学部 ... 39
表2-15 協力者の日本語能力(所属機関別) ... 39
表2-16 勉学に関わる困難についての調査結果 ... 40
表2-17 学部留学生が大学での勉学で感じる困難の傾向 ... 40
表2-18 学部留学生が考える留学成功の要件 ... 43
表3-1 学習内容に含めた学習ストラテジー ... 50
表3-2 本コースの教材 ... 51
表3-3 受講者... 55
表3-4 コース実施の基本方針... 56
表3-5 第Ⅰ期(2014年度後期)の学習活動... 57
表3-6 読解ストラテジーの自己点検表(一部) ... 59
表3-7 リフレクション・ノート例1(学部2年生・非漢字圏出身) ... 61
vi
表3-8 リフレクション・ノート例2(学部3年生・非漢字圏出身) ... 61
表3-9 第Ⅱ期(2015年度後期)の学習活動... 66
表3-10 課題解決学習のまとめレポート例1 ... 69
表3-11 課題解決学習のまとめレポート例2 ... 70
表3-12 課題解決学習のまとめレポート例3 ... 72
表3-13 リフレクション・ノート例3(学部3年生・非漢字圏出身) ... 74
表3-14 リフレクション・ノート例4(学部3年生・漢字圏出身) ... 74
表3-15 第Ⅲ期(2016年度後期)の学習活動 ... 76
表3-16 課題解決学習のまとめレポート例4 ... 79
表3-17 課題解決学習のまとめレポート例5 ... 81
表3-18 課題解決学習のまとめレポート例6 ... 83
表3-19 課題解決学習のまとめレポート例7 ... 85
表3-20 リフレクション・ノート例5(学部2年生・漢字圏出身) ... 86
表3-21 リフレクション・ノート例6(学部3年生・非漢字圏出身) ... 87
表3-22 第Ⅳ期(2017年度後期)の学習活動 ... 90
表3-23 学習者12の課題解決学習Ⅰのレポート ... 92
表3-24 第8週使用ワークシート ... 92
表3-25 課題解決学習のまとめレポート例8 ... 93
表3-26 課題解決学習のまとめレポート例9 ... 95
表3-27 課題解決学習のまとめレポート例10 ... 97
表3-28 課題解決学習のまとめレポート例11 ... 98
表3-29 リフレクション・ノート例7(研究生・漢字圏出身) ... 101
表3-30 リフレクション・ノート例8(大学院生・漢字圏出身) ... 101
表3-31 リフレクション・ノート例9(大学院生・漢字圏出身) ... 102
表3-32 リフレクション・ノート例10(交換留学生・漢字圏出身) ... 102
表4-1 研究協力者の属性 ... 113
表4-2 内省文から得られたカテゴリーとその定義 ... 114
表4-3 内省文に現れた認識や行動 (全年度)... 123
表4-4 内省文に現れた認識や行動(A) ... 124
表4-5 内省文に現れた認識や行動(B) ... 125
vii
表4-6 学習者Iの内省文 ... 125
表4-7 学習者Jの内省文 ... 126
表4-8 学習者Kの内省文 ... 127
表4-9 学習者Lの内省文 ... 128
表4-10 学習目標・自己評価表(一部) ... 129
表4-11 学習目標・自己評価に関する面談結果... 130
表4-12 コース終了後調査の協力者 ... 132
表4-13 日本語科目での活動に対する認識の全体的な傾向 ... 135
表4-14 フィードバックの記述文の全体的な傾向 ... 152
表4-15 フィードバックに対する学習者の反応 ... 153
図一覧
図2-1 メタ認知の分類... 19図2-2 課題遂行の各段階におけるメタ認知的活動 ... 20
図2-3 AJ教育研究と関連する教育研究領域 ... 30
図2-4 アカデミック・ライティングの構成要素 ... 32
1
第1章 研究の背景と目的及び構成
本章では、本研究が必要とされる背景と目的を述べ、探索方法の概略を示す。まず、
産業社会から知識基盤社会(knowledge-based society)への大きな変動の中で根本的 な転換を余儀なくされている大学教育の状況1 を概観し、今日の大学(学部)に求めら れている教育とはどのようなものかを認識する。その上で、日本語を母語としない学 部留学生への重要な支援として提供される大学での日本語教育科目では、彼らが大学 教育を通して現代の世界で必要とされている能力を存分に伸ばしていけるよう援助す ることを目標に据え、語学的知識・技能の供与だけでなく自律的学習能力の涵養を意 図して行う必要があることを確認する。以上の議論をもとに、自律的学習能力向上を 支援する学習方法を探索するという本研究の目的を述べ、続いて、その探索を進める 手順を提示する。
1.1 本研究の背景
1.1.1 今日の大学に期待されている教育とは
学校教育の目的は、これを享受する者に、社会の一員として、また、個人として、実 りある人生を送るための基礎的知識と技能を習得させることにあり、そうである以上、
社会が変化し長期的・短期的要請が変われば、その目標は再考されることになる。
1980年代以降、社会の在り方を根底から揺り動かす科学技術が次々に開発・実用化 され、従来の産業社会から知識基盤社会への変化が加速している。あらゆる領域に新 しい知識・情報・技術が次々と現れ、いわゆる「グローバル化」が進んだ今日の世界で は、高等教育を受けた人間に期待される能力の質も変わって来る。何らかの特定の分 野で一定以上の知識を持つという旧来の専門的職業人にとどまらず、幅広い知識と柔 軟な思考力を備えて、次々と生ずる変化の中で社会と自分のよりよい在り方に繋がる
1 文部科学省中央教育審議会(以下、中教審とする)(2005)「我が国の高等教育の将来像(答申)」に よる。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05013101.htm
(2018年10月1日)
2
判断を的確に行っていける人間が求められている(中教審, 2005)。
新たな時代に求められる能力とはどのようなものか、それを明確に把握しようとす る試みが活発に行われている。教育社会学の立場から社会の現状と教育との関係を基 軸に広範な研究を行っている教育社会学者の本田由紀は、現代の日本社会において顕 著な「『能力』の多元化」(本田, 2005)という現象に着目し、それらの能力とその評価 の在り方について他に先駆けて問題提起を行った2。
本田は、現代のポスト近代社会における「人々の社会的位置づけ=地位達成を制御 する原理」を、「メリトクラシー(業績主義)」3 の亜種ないし発展形である「ハイパー・
メリトクラシー(超業績主義)」であるとし、評価の対象が「人間存在のより全体、な いし深部にまで及ぶ」(p.21)ことをその大きな特徴として指摘している。ポスト近代 型社会において求められる能力と従来求められてきた「近代型能力」とは、本田によ ると、下の表1-1のようになる。
表1-1「近代型能力」と「ポスト近代型能力」
(本田, 2005, p.22)
本田の解説によれば、従来のメリトクラシーの社会では、与えられた枠組みへの順 応性、同質性の高い文化や規範に対する協調性が期待されており、標準化された知識 の習得度や知的操作の速度、すなわち「基礎学力」が、試験を典型とする共通の尺度
2 本田(2005)について、本田自身は「直感や問題意識が先走り、データできれいに証明できたわけで は」ないと述べているが(朝日新聞2007年1月30日朝刊文)、価値観の転換期の混乱と困難をいち はやく指摘し、問題意識を喚起した功績は小さくない。
3 イギリスの社会学者マイケル・ヤングの造語。窪田鎮夫・山元卯一(1982)による。
4「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について<第一次答申の骨子>」(文部省中央教育審議会, 1996)
には、変化の激しい社会を[生きる力]として、「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的 に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力」、「自らを律しつつ、他人と協調し、他人を思いやる 心 や感 動す る心 など豊 かな 人間 性と たくま しく 生き るた めの 健康や 体力 」が 挙げ られて いる 。 www.mext.go.jp/b_menu/shingi/old.../old.../1309634.htm (2018年10月1日)
近代型能力 ポスト近代型能力
「基礎学力」
標準性
知識量、知的操作の速度 共通尺度で比較可能 順応性
協調性、同質性
「生きる力」4 多様性・新奇性 意欲、創造性 個別性・個性 能動性
ネットワーク形成力、交渉力
3
で比較された。これに対し、ハイパー・メリトクラシーの社会が求める「ポスト近代 型能力」は、「生きる力」という表現に集約されるような、「個々人に応じて多様であ りかつ意欲などの情動的な部分-『EQ』を多く含む能力」(p.21)であり、既存の枠組 みへの適応よりも新たな価値の創造や変化への対応が求められ、個人間のネットワー クの形成力や必要性に応じてリソースとして他者を活用できるスキルが重要であると いう。
「ポスト近代型能力」は、形成される様態も測定される方法も、従来の「近代型能 力」とは異なる。本田によれば、「近代型能力」の場合は、知識の暗記や公式の適用な ど一定のノウハウを踏襲することによって習得することができ、標準テストを通して
「公平かつ正当なものとして広く承認を得ることができた」(p.24)のに対し、「ポス ト近代型能力」という不定形の能力がどのように形成されるかについては、「社会的に 合意されたセオリーはいまだに確立されておらず」(p. 23)、しかも、一元的な尺度で の測定はなじまないため、「手続き的な公正さという側面が切り捨てられ(る)」(p. 21)。
すなわち、どのように評価されるか定まっていないという、可能性に満ちているとも 言えるが、否定的に捉えれば何も見えない状況にあると言える。
本田が、「能力の多元化」という表現によって強調しているのは、社会がメリトクラ シーからハイパー・メリトクラシーへ移行しているのではなく「むしろメリトクラシ ーは社会の基底的な構造としていまだに存続しており、そこにハイパー・メリトクラ シーという側面が付け加わりつつある」(p.25)という点である。つまり、従来の教育 目標であった能力の獲得の必要性は変わらず、それに加えて、「ポスト近代型能力」と いう不定形の能力の獲得が求められるようになってきており、そこでは、「個々人の柔 らかい内面をのぞきこもうとするハイパー・メリトクラシー」(p.264)の視線が広がり、
人間存在のより全体、ないし深部にまで及ぶ能力評価が行われるようになりつつある ことに本田は危惧を示している。
この状況への対応策として、本田は、「専門性」の獲得こそが要であり、「専門性」を 支える原則やノウハウを習得させる一定の学習課程を開発することが必要であると提 言している。本田が想定する「専門性」とは、固定的で閉鎖的な融通性のないもので はなく、幅広く柔軟で更新可能な「個々人が社会の中で、特に仕事に関する面で、立 脚することができる一定範囲の知的領域」(p. 261)を指す。こうした「専門性」を形 成する機会が社会の中に十分に設けられることがハイパー・メリトクラシー化への現
4
実的な対策になる可能性を示唆し、そこに学校教育の果たす役割があることを強調し ている。
教育方法学の立場から、新しい時代に必要な能力を定義しようとする試みもなされ ている。教育学者松下佳代は、学校教育の入口と出口である小学校と大学をフィール ドとして、能力論に関して積極的に問題提起を行っている。松下(2010)では、1990 年代以降、多くの先進国で共通して教育目標に掲げられるようになった諸概念が〈新 しい能力〉5 という名称でまとめられている(表1-2)。
表1-2 わが国における「新しい能力」概念
名 称 機関・プログラム 出 典 年 [初等・中等教育]
生きる力 文部科学省 中央教育審議会答申『21 世紀を展 望した我が国の教育の在り方につ いて―子供に「生きる力」と「ゆと り」を―』
1996
リテラシー OECD-PISA6 国立教育政策研究所『生きるための 知識と技能』
2001 (2004.2007) 人間力 内閣府(経済財政
諮問会議)
『人間力戦略研究会報告書』 2003 キー・コンピテン
シー
OECD-DeSeCo7 ライチェン&サルガニク『キー・コ
ンピテンシー』
2006 (原著2003) [高等教育・
職業教育]
就職基礎能力 厚生労働省 『若年者就職基礎能力修得のため の目安策定委員会報告書』
2004 社会人基礎力 経済産業省 『社会人基礎力に関する研究会「中
間とりまとめ」報告書』
2006 学士力 文部科学省 中央教育審議会答申『学士課程教育
の構築に向けて』
2008 [労働政策]
エ ン プ ロ イ ヤ ビ リティ(雇用され うる能力)
日本経営者団体連 盟(日経連)
『エンプロイヤビリティの確立を めざして―「従業員自律・企業支援 型」の人材育成を―』
1999
(松下, 2010, p.3)
5 〈新しい能力〉の表記は、松下(2010)に準じて、〈 〉でとじた。
6 経済開発協力機構(OECD)が実施する国際的な学習到達度調査:Programme for International
Student Assessmentの略。15歳児を対象に3年ごとに読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシ
ーの三分野について調査される。www.nier.go.jp/kokusai/pisa/index.html(2018年10月1日)
7 Definition and Selection of Competenciesの略。PISA とともに、1997年に着手されたOECDのプ ロジェクトである。
5
松下は、これらの <新しい能力> 概念に共通して含まれる要素として、下のa.-d.
を挙げている。
a. 基本的な認知能力(読み書き計算、基本的な知識、スキルなど)
b. 高次の認知能力(問題解決、創造性、意思決定、学習の仕方など)
c. 対人関係能力(コミュニケーション、チームワーク、リーダーシップなど)
d. 人格特性、態度(自尊心、責任感、忍耐力など)
これらには、「認知的な能力だけでなく人格の深部にまで及ぶ人間の全体的な能力を 含んでいること」、「そうした能力を教育目標や評価対象として位置づけていること」
という共通性がある(pp.2-3)。
表1-2が示すように、<新しい能力> は、学習段階や学習目標によって様々な捉え 方がなされるが、その中核を明示するのはOECD-DeSeCoのキー・コンピテンシーで あると松下は指摘する(p. 27)。以下、松下による解説の要点を述べると、このキー・
コンピテンシーには、表1-3に示されるように、3つのカテゴリーがあり、それらは、
「個人の人生の成功(クオリティ・オブ・ライフ)」と「うまく機能する社会」の両方 に資するもので、全ての個人にとって重要である。
表1-3 OECD-DeSeCo のキー・コンピテンシー
<カテゴリー1>
道具を相互作用的に用いる
A言語, シンボル, テクストを相互作用的に用いる B知識や情報を相互作用的に用いる
Cテクノロジーを相互作用的に用いる
<カテゴリー2>
異質な人々からなる集団で 相互にかかわりあう
A他者とよい関係を築く
Bチームを組んで協同し, 仕事する C対立を調整し, 解決する
<カテゴリー3>
自律的に行動する
A大きな展望の中で行動する
B人生計画や個人的プロジェクトを設計し, 実行する C権利, 利害, 限界, ニーズを擁護し, 主張する
(松下, 2010, p.22)
この 3 つのキー・コンピテンシーの中核をなすのは、一人一人が深く考え、行動す ることであり、「深く考えることには、目前の状況に対して特定の定式や方法を反復継 続的に当てはめることができる力だけではなく、変化に対応する力、経験から学ぶ力、
6
批判的な立場で考え、行動する力が含まれている」とされる8。こうした能力が、従来 の「学力」を目標として想定した教育では獲得されにくく、教育方法の変更が余儀な くされていることは言うまでもない。
以上、新たな時代に求められている能力を本田(前掲)と松下(前掲)の研究に基づ いて探求してきたが、ここから、現代の大学教育、特に基礎段階での教育への示唆を 読み取ることができる。松下は、新たな能力は従来の「『学力』という表現で一括りに できない」(まえがきi)と述べているが、これは、「メリトクラシーとハイパー・メリ トクラシーの混淆」(p.30)と言える状況にあるという本田の指摘に重なる。新たな社 会を生き抜いていくために、松下は、<新しい能力> を「手なづけ飼い慣らす」必要を 説き(p.32)、本田は、「ポスト近代型能力」の要請に対抗する「鎧」、すなわち、「世の 中を渡っていく最初の武器になるもの」としての「専門性」の習得を提言している (p.261)。ハイパー・メリトクラシーの進展が避けがたいものであるならば、そのよう な社会に生きる学習者に対してそれに対応する準備をさせる(グリフィン他, 2014)
ことが学校教育の責務であり、本田と松下が述べている新たな学力の様相を前提とし て教育内容を考案していくことが必要である。文科省は、学士課程教育の目標を「学 士力」とし、その育成を図る学士課程教育の質的転換(中教審, 2012)を図っているが、
その要素として挙げられている「知識・理解」、「汎用的能力」、「態度・志向性」、及び
「総合的な学修経験と創造的思考力」も、社会のパラダイムの転換により到来する予 測困難な時代を生き抜いていくための能力と言える。
具体的な教育方法を考案する際に特に留意しておく必要があるのは、OECD-
DeSeCoのキー・コンピテンシーでは “reflectiveness”(内省)が最も重要な要素と
位置づけられていることである(OECD, 2005)。大学教育の目標は、「個人の人生の成 功(クオリティ・オブ・ライフ)」と「うまく機能する社会の構築と維持」の両方に資 する能力を獲得することであり、それには、専攻する学問分野の知識にとどまらず、
論理的思考力や課題解決力などの汎用的能力、他者と協働する態度、自律的に学習し ていく技能を獲得しなければならない。そのためには、「学習」が社会と自分のよりよ い在り方に繋がるものであることを明確に認識し、自分についての「内省」をもとに 活動を考案していく積極性を伸ばすことが、とりわけ重要だと言える。
8 OECDにおける「キー・コンピテンシー」について(中央教育審議会教育課程部会第48回配付資 料)www.mext.go.jp/bmenu/shingi/chukyo/.../1402980.htm (2018年10月1日)
7 1.1.2 学部留学生教育の前提:不確定性
大学の基礎教育の一環として提供される日本語教育の内容と方法を考える上で、教 育条件の一般的特徴を理解しておく必要があるだろう。
基礎教育の一環として提供されている日本語科目がそれ以外の外国語科目といささ か異なる点は、不確定要素が多く、また、その程度も大きいことである。まず、見込ま れる受講者数や学習者のレベルなどが年ごとに学期ごとに著しく変動することが珍し くない。大学における外国語科目には、ほとんどの学生が既に一定以上の知識を備え ている「英語」と、中国語・ドイツ語・フランス語など新規に学習を始める「初修外国 語」9 があり、どの科目においても各年度の受講者数や学習者のレベルなどには一定 の変動があるだろう。しかし、日本語科目の場合は、1年生として入学する人数、専門 分野別(=学部別)、あるいは、出身地域別の人数、さらには、滞在が一年以下の交換 留学生が参加するかどうかといった付帯条件も、年ごとに異なり、その情報がコース 開始時まで明らかにならないことが少なくない10。
対象者の日本語習熟度も一定ではなく、十分と言える段階に達していない者が多い。
学部留学生は、大学での授業のほとんどが日本語で行われる状況に対応しなければな らないため、一定以上の習熟度(N1またはN2レベル)11 に達していることが入学要 件とされ、日本人学生と同程度とは言わないまでも、4 技能全般にわたって大学での 勉学に必要な言語能力を持つことが期待されている(札野・辻村, 2006)。しかしなが ら、大学での学修活動に問題なく参加し得る技能を備えている留学生は少なく(村上,
2000; 長野・峯, 2005)、彼らを支援する体制を学部全体で、あるいは、大学全体で整
える必要があると指摘されている(村上, 2000; 水本・池田, 2002)。
さらに、大学入学までに受けた教育の中で形成された教育の在り方についてのビリ ーフ12 も多様であり、学習態度や学習技能にも影響を及ぼす。学習は自己主導で進め るものというビリーフを持った学習者もあるが、中国出身の学習者を対象にビリーフ
9 既修外国語の英語に対して、英語以外の外国語を「初修外国語」と呼ぶ場合がしばしばある。
10 筆者が担当した日本語科目の3.1.2の表3-3に挙げた4学期すべてにおいて、受講者の情報がコー ス開始前に担当者には伝えられることはなく、また、コースが始まって一か月程度は新規に受講や聴 講を希望する者が現れるなど、かなりの変動があった。
11 国際交流基金及び日本国際教育支援協会の共催で行われている日本語能力試験(JLPT:Japanese- Language Proficiency Test)のレベルに準じた。日本語能力試験は、日本語を母語としない人の日本語 能力を測定し認定する試験で、最上級からN1・N2・N3・N4・N5の5つのレベルがある。
12 言語学習の方法・効果について人が自覚的または無自覚的にもっている信念や確信を指す(日本語教 育学会, 2005)。
8
調査を行った板井(1997,1999)は、伝統的知識重視の学習方法を支持し教師への期 待が顕著に見られたと報告している。出身地を問わず、「正しい知識を供与されてそれ を獲得する」という学び方に慣れていた学生にとっては、「自律的に課題を見出して探 求する」という大学での学び方への転換が容易ではないことは想像に難くない。留学 生の場合、教師役割や学生役割をはじめとする様々なルールについてのビリーフの違 いが、日本語運用上の困難とも相俟って、学習スキルの獲得や拡張を図る上でより大 きな困難をもたらす場合があることが予想される。
しかし、留学生がしばしば平均的な日本人学生をはるかに上回る積極性を発揮する ことや、物事の捉え方が多様であること、お互いの背景について情報のギャップがあ ることなど、これらの特性は、学習活動を計画する上で有利な条件ともなり得ると考 えられる。
1.1.3 大学の留学生教育における日本語教育の役割
日本の大学における留学生教育の中で、日本語科目は、新たな学習方法や学習態度 を獲得し、自律的な学習者となるという目標の達成を直接支援する場としての役割を 持つ。こうした認識を前景化したのは「アカデミック・ジャパニーズ(以下、AJとす る)」の教育についての議論であった。AJは、2002年の「日本留学試験」13 の実施開 始に伴って、「日本の大学での勉学に対応できる日本語力」という定義の下に導入され た。しかし、この時点で「大学での勉学に対応できる日本語力」とは何かについての 共通理解があったわけではなく、方法や内容に混乱や不一致が見られた。そうした中、
門倉(2006)は、「AJ とは教養教育である」(p.7)と明確に主張し、教養教育の本義 を、以下に示すように、大学で求められる主体的な学びへの転換を促す「転換期教育」
と現代社会を市民として生きていくための「市民的教養」の2点であるとした。
AJとは「大学での勉学」に対応できる日本語力をさしている。「大学での勉学」の根幹
は、「学び方を学ぶ」ことにある。「学び方を学ぶ」ことは、初年次教育において最も有効 だが、大学教育全体を通じての〈教養教育〉の中心的課題でもある。「学び方を学ぶ」〈教
13 独立行政法人日本学生支援機構(JASSO)によって、外国人留学生として日本の大学(学部)等に入学 を希望する者について、日本の大学等で必要とする日本語力及び基礎学力の評価を行うことを目的と して実施されている試験である。www.jasso.go.jp/ryugaku/study_j/eju/ (2018年10月1日)
9
養教育〉14 では、「問題発見解決学習」において、学習者の既有の「市民的教養」として の知識を有機的に活用させるとともに、学習者の「自己を表現し、他者と出会う」という コミュニケーション力を育成することが肝要である。 (門倉, 2006, p.9 下線は筆者)
上のように、門倉は、AJ の中核を「問題発見解決学習」とし、「市民的教養」は、
「現代社会を市民として『生きる力』と言い換えることができる」(p.11)とした。AJ が「〈学びとコミュニケーション〉の日本語力」(p.17)であるならば、これが生涯にわ たっての「生きる力」となることは言うまでもない。門倉は、大学における日本語教 育の目的が、大学での勉学を円滑に遂行する日本語運用能力だけでなく、将来の基盤 となる汎用的能力や創造的思考力、すなわち、「現代社会を市民として生きる力」に繋 がる自律的な学習能力の涵養であることを明確化した。
しかし、「理念」と「実践」とを一致させるのは簡単ではなく、AJ 教育の内実がキ ャンパス関連語彙の提示や情報収集技能の獲得に傾くことが少なくなかった(因他, 2013)。「問題発見解決学習」を通して「市民的教養」を身に付け、自己を表現し他者 と出会うという理念の実現を難しくしている要因の一つは、留学生の言語的基礎能力 の不足である。村上(2000)は、学部留学生には日本語で自己の考えを論理的に伝え る力が不足していることを指摘し、長野・峯(2005)は、資料の読解、口頭発表、レ ポート作成などに困難を感じている学部留学生が少なくないと報告している。この背 景には、しばしば、専門科目等の授業を優先するために、留学生対象の日本語科目を 受けたくても時間の余裕がないという学部留学生の事情がある。もう一つの要因は、
教える担当者側が従来型の教育を変更することの困難である。近年、日本人学生を対 象とする初年次教育においても、既存知識の獲得が主眼となる高校までの学習方法か ら主体的に学ぶ大学での学習方法への転換を助けることを目的とする科目15 を設置 している大学が増えているが、河合塾(2010)の調査では、学生の自律化・自立化16 を促す取り組みは全体的にまだ遅れ気味であると報告されている。留学生を対象とす る場合、教師が学習者の多くが抱えている言語的困難を目の当たりにし、本田(前掲)
の指摘を想起するまでもなく、語彙や構造の知識などを含む従来型の能力も必要とさ
14〈教養教育〉の表記は、門倉(2006)に準じて、〈 〉でとじた。〈学び〉や〈コミュニケーション〉も 同様である。
15 大学によっては、学部入学から大学院までを一貫する「基幹教育」と称して位置づけられている。
16 「自律化・自立化」という二つの用語の併記は、河合塾(2010)に基づく。
10
れる現状がある以上、従来型の学習に傾くことは想像に難くない。さらにこの傾向に 拍車をかけるのは、「問題発見解決学習」の具体的方法を見出すことが難しいことであ る。自律的学習能力の獲得を支援すべきことは十分に理解していても、従来通りの時 間数やカリキュラム上の枠組みの中で、どのように新たな学習活動を組み入れて行く かを考案するのは容易ではない。
とはいえ、知識だけでなく柔軟な思考力や創造力が重要性を増す中、それらを獲得 する基盤となる自律的な学習能力の向上を支援することは、高等教育の基礎段階にお ける最重要目標である。母国での中等教育以後の人格形成に関わる4 年間を日本の大 学で学ぶことになる学部留学生に対して、多くの場合初年次の科目として提供される 日本語科目では、自律的な学習者となることを支援するという AJ の教育の役割を深 く認識し、この目標を達成するための教育方法を開発しなければならない。
1.2 本研究の目的
「今日の大学に期待されている教育」、「学部留学生教育の前提:不確定性」、「大学 の留学生教育における日本語教育の役割」の3 点から本研究が必要とされる背景につ いて検討した結果、以下の課題や展望が明らかになった。
(1)今日の大学では、社会のパラダイムの転換により到来している予測困難な時代に 対応できる「学士力」を身につけた自律的な学習者を育成する教育が要請されて いるが、その教育は、学習が社会と自分のよりよい在り方に繋がるものであると いう認識と自分について内省的であり深く考えるという姿勢を基盤にして行わ れることが求められている。
(2)基礎教育の一環として提供されている日本語科目は、受講者数など基本的な学習 条件の変動が大きく、さらに、受講者の日本語習熟度や教育についてのビリーフ が多様であるなど、不確定性がその基本的特徴となっている。これへの対応は容 易ではないが、留学生の特性を生かして学習の活性化に結び付けられる可能性も ある。
(3)初年次教育におけるAJ教育の役割とその理念に鑑みて、現代社会を市民として
「生きる力」の獲得に繋がる自律的な学習能力を学部留学生が向上させるための
11
支援方法を開発することは喫緊の課題である。
以上、大学教育で要請される能力と留学生教育としての日本語教育の役割とその不 確定性という点から、可能な支援を検討する必要がある。本研究は、日本の大学で学 ぶ学部留学生の自律的学習能力の向上を支援する日本語教育方法を開発するために、
留学生対象の日本語科目において、自律的学習能力の向上に資するとされるメタ認知 の活性化を促す活動を組み入れた授業を行って、その効果を検証し、教育方法への示 唆を探索するものである。
1.3 本研究における探索の方法
自律的学習能力の向上を支援する日本語教育方法を開発するために、続く諸章では、
日本語科目のコース・デザインを考案し、それをもとに教育実践を行い、その効果を 検証する。
まず、第 2章で、自律的学習能力に関する先行研究の議論を概観するとともに、学 習者のニーズについての調査を行い、教育方法への示唆を得る。
第 3章では、前章での結果をもとに考案したコース・デザインに基づいて、アクシ ョン・リサーチの手法(Nunan, 1989; 佐野, 2000)を用いて、学部留学生を主対象と する日本語科目において、筆者自身が授業実践を行い、その実施結果を報告する。
第4章では、2014年度から2017年度にわたって実施した教育実践の効果を検証す る。コース実施中とコース終了約 2週間後・約半年後の学習者の認識と行動について のデータを質的に分析する。
第 5 章では、4 年間に行った実践研究を総括し、学部留学生に対する日本語教育へ の貢献と今後の課題及び展望を示す。
12
第 2 章 自律的学習能力育成に関連する研究の動向と 学部留学生の現状
本章では、学部留学生の「自律的学習能力」の向上を支援する活動を考案する前提 として、「自律的学習能力」に関連する主な研究を検討し、併せて、留学生の持つニー ズと可能性を把握して、本研究で行う学習活動開発の方針を述べた上で、開発し実施 した学習活動の妥当性を検証する方法を述べる。まず、「自律的学習能力」という概念 の理解とこの能力の育成方法に関するこれまでの主要な研究を概観し、自律的学習者 を育成する方法の開発への示唆を得る。次に、日本の複数の大学に在籍する学部留学 生を対象に実施した調査結果に基づいて彼らの現状を把握し、教育実践における重要 項目を確認する。最後に、以上の検討から得られた示唆に基づき、本研究で行う学習 活動開発の基本方針を示す。続いて、開発した方法の妥当性の検証に用いる資料とそ の分析の方法を述べる。
2.1 自律的学習能力の理解と育成に関する先行研究
2.1.1 学習者の「自律性」の概念とその理解の発展
“learner autonomy”17(以下、「学習者の自律性」あるいは「自律性」)という概 念は、第二言語教育の中で特に着目されてきた。これに相当する日本語表現は一定し ておらず、使用される文脈によって意味の重点も多少異なるが、激動する現代社会の 教育において「自律性」が極めて重要な概念であるという認識は共通している。
言語教育における「自律性」への着目は、1960年代のヨーロッパにおいて、ファシ ズムやスターリニズムの台頭を許した過去への反省から、責任ある市民を育てるため の教育の在り方を模索する中で生まれたとされる(青木・中田, 2011)。「学習者中心」
という大前提を軸として、教育のパラダイムが「教える」から「学習者が学ぶことを 支援する」へと移る中、第二言語教育の分野では70年代に始まった欧州評議会の現代
17 本研究では、原則として、“autonomy”に「自律性」という日本語訳を当てる。日本語の文献におい て「学習者オートノミー」、「自律的学習能力」という用語が用いられている場合はそれに準ずる。
13
語プロジェクトを契機として、学習者の「自律性」の育成を目指す先駆的実践が各地 に広がった。70年代以降、いわゆる「コミュニカティブ・アプローチ」と総称される 新しい学習方法が次々に提案された。言語の形式や構造よりも機能や意味を重視する 言語観と、言語を使って行う問題解決行動の過程で言語習得がなされるという言語学 習観を背景に、学習内容や学習方法が見直され、学習者のニーズに応じたカリキュラ ムや学習者の主体的な学習への支援が重視されるようになった18。これらの数々の提 案のすべてに「自律性」への明示的言及が見られるわけではないが、「正しい形式の産 出が自動化されるまで徹底的に練習させる」というそれまで優勢であったオーディオ・
リ ン ガ ル 法 か ら の 脱 却 を 目 指し 、 様々 な 工 夫 に よ っ て 学 習 者 の 主体 的 で真 正 性
(authenticity)を持つコミュニケーション活動を誘発しようとしていたことは、「自律
性」への志向性の表れと見ることができるだろう。
言語教育の中で「自律性」を涵養していく方法を見出すことに大きな手がかりを提 供した研究としてHolec (1981)とLittle (1991)がある。
Henri Holec (以下、Holec) は、1971年にフランスのナンシー大学内に設立され
たCentre de Recherches et d'Applications Pédagogiques en Langues(CRAPEL)に 所属し、言語教育方法刷新への努力において中心的な役割を果たした。Holecは、「自 律性」について以下のように述べる。
(1) According to the definition given by B Schwartz in L’ éducation demain ‘autonomy’
is “the ability to assume responsibility for one's own affairs.” In the context with which we are dealing, the learning of languages, autonomy is consequently the ability to take charge of one’s own learning.
(2) This ability is not inborn but must be acquired either by ‘natural’ means or (as most often happens) by formal learning, ie19 in a systematic, deliberate way.
(3) It is indeed an ability, “a power or capacity to do something” and not a type of conduct,
“behaviour”. ‘ Autonomy ’ is thus a term describing a potential capacity to act in a given situation, -in our case, learning-and not the actual behaviour of an individual in that situation.
(4) To take charge of one's learning is to have, and to hold, the responsibility for all the decisions concerning all aspects of this learning, ie:
―determining the objectives;
―defining the contents and progressions;
―selecting methods and techniques to be used;
―monitoring the procedure of acquisition properly speaking (rhythm, time, place,
18 日本語教育学会(2005)『新版日本語教育事典』pp.730-731「コミュニカティブ・アプローチ」参照。
19 ieは、原典のままとした。
14 etc);
―evaluating what has been acquired.
(5) Learning taken charge of in this way by the learner is self-directed or undertaken on an autonomous basis. This acceptance of responsibility for the learning may be done with or without the help of a teacher, with or without the use of teaching aids.
We can therefore distinguish self-directed learning with support from ‘unorganized’
self-directed learning.
(Holec, 1981, pp.3-4より一部抜粋, 斜体字は原典のもの)
(1) 「明日の教育」におけるシュワルツの定義によると、「自律性」とは「自分の問題に 責任を負う能力」である。したがって、我々が扱っている文脈、すなわち、言語学 習においても、自律性とは「自分の学習に責任を持つ能力」となる。
(2) この能力は生まれつきではなく、「自然な」方法によって、または(こちらのほうが普 通だが)正規の学習、すなわち体系的で計画的な方法によって、獲得されなければな らない。
(3) 自律性とは、まさに能力、「何かをする力あるいは才能」であって、「ある型の行動」や
「振る舞い」ではない。つまり「自律性」とは、ある状況、我々の関心に即していえば 学習において、行動することができる潜在的能力を指すのであって、特定の状況にお ける個人の実際の行動ではない。
(4) 自分の学習に責任を持つということは、学習のすべての側面に関するすべての決定、
すなわち、以下のことがらに責任を持つことである。
-目標を決定する
-内容と進行を明確にする
-使用される方法および技術を選択する
-習得の手順(厳密に言えばリズムや時間や場所など)をチェックする
-習得されたものを評価する
(5) このように学習者自身が自分の学習に責任を持って行う学習は、自己主導で、言い換
えれば自律的に 行われる。自己学習に責任を持つことは、教師の助けを借りるかどう か、補助教材を使用するかどうかとは無関係に、可能である。したがって、 支援を受 けつつ行う自己主導学習と、「体系的ではない」自己主導学習とは、区別される。
(同上, 筆者訳, 斜体字は原典のもの)
「自律性」とは「自分の学習に責任を持つ能力」であることが第一項で述べられ、
第二項以降で敷衍されるが、目標を決定し、学ぶ内容と学習方法を選択し、自分の進 捗状況を自分で観察する、といった一連の行動を主体的に進めることを可能にする能 力とは、先回りして一言で言えば、「メタ認知」20 を指していると言えよう。「自律性」
を、支援を受けて体系的に進める学習によって獲得されるものと見て、教育的支援の 必要性を強調している点も重要である。さらに、「潜在的能力である」という主張には、
学習の結果として表れる言語運用のみに着目する従来の言語学習観とは異なる見方が
20 「メタ認知」については、2.1.2 で詳述する。
15 反映している。
「自律性」を発揮させる「メタ認知」とは、「認知についての認知」と呼ばれ、通常 の認知よりも高次の「認知活動それ自体を対象として認知する心の働き」(三宮, 2008,
pp.1-2)を指している。「メタ認知」は、一般的に、人間や課題や方略に関するメタ認
知的知識とモニタリングやコントロールなどのメタ認知的活動に分けられる。「目標を 決定し、学ぶ内容と学習方法を選択し、自分の進捗状況を自分で観察する」といった 一連の行動は、メタ認知的知識とメタ認知的活動が働いて初めて可能になる。
Holec(前掲)の提言からは、学校教育の中で「自律性」の育成を行うことは可能で あり、その育成は、学習者が自らの学習を観察し計画し実行することを可能にする「メ タ認知」の育成が中核となることが諒解される。
Little (1991) は、「自律性」の育成を目指す実践の拡大に伴って、「自律性」に様々
な解釈が生じてしまった状況に対して、“What autonomy is not? ”という否定神学的 な問いを発し、「自律性」の理解を深めた。
“What autonomy is not”
(1) Perhaps the most widespread misconception is that autonomy is synonymous with self-instruction; that it is essentially a matter of deciding to learn without a teacher.
(2) What might be termed the organizational fallacy emerges again in the assumption that in the classroom context learner autonomy somehow requires the teacher to relinquish all initiative and control.
(3) Another misconception that arises in relation to classroom learning is that autonomy is something teachers do to their learners; in other words, that it is a new methodology.
(4) A fourth misconception is that autonomy is a single, easily described behaviour.
(5) Fifthly, and closely related to our fourth misconception, it is sometimes mistakenly believed that autonomy is a steady state achieved by certain learners.
(Little,1991, pp.3-4から抜粋)
上にあげたLittle の説明は、青木・中田(前掲)が「学習者オートノミーにまつわ る誤解」として取り上げ、Littleの記述に解説を加えて紹介している。
(1) 学習者オートノミーとは独習(self-instruction)の同意語であるという誤解
独習用教材の多くは、内容、方法、順番が決まっており、学習者自身がそれらを決める 余地はほとんどない。学習者オートノミーによる学習と独習は全くの別物である。
(2) 学習者オートノミーとは前提として教師がすべての主導権とコントロールを手放すこ とであるという誤解
16
学習者オートノミーを育てようとする実践が最終的に目指すのは学習者が教師なしで も学習できるようにすることだが、そこに到達するまでに教師がやらなければならな いことはたくさんある。
(3) 学習者オートノミーとは教授法であるという誤解
学習者オートノミーは、一定の手続きに従って教えれば育つというものではなく、ま た一定の手続きに従わなければ育たないというものでもない。学習者オートノミーを 育てるためのアプローチは多様である。
(4) 学習者オートノミーは学習者による特定の行動を指すものだという誤解
学習者オートノミーは能力である。能力があっても行動に移さないこともある。能力
をどのように使うかも人様々であり、学習者オートノミーを発揮する人々の行動は一 様ではない。
(5) 学習者オートノミーとはある種の学習者だけが到達できる、常に変わらない状態であ るという誤解
学習者オートノミーは優秀な学習者たちだけが持つものではなく誰でも持ちうる能力 であり、育つものであるが時には後退することもあるだろう。あることを学ぶための
オートノミーはあるが、他のことは助けがなければ学べないということもあるだろう。
(Little,1991; 青木・中田訳, 2011, pp.7-8を筆者が要約)
Littleは、Holecと同様に、学習者オートノミーによる学習が「独習」とは異なる
と主張し、「教師がやらなければならないこと」があるだけでなく「アプローチは多様 である」こと、適切な教育的介入が必要であること、「自律性」を追求する道筋を固定 的に捉えてはならないことを強調した。Little は、「自律性」の性質について次のよう に述べている。
Essentially, autonomy is a capacity – for detachment, critical reflection, decision- making, and independent action. It presupposes, but also entails, that the learner will develop a particular kind of psychological relation to the process and content of his learning. The capacity for autonomy will be displayed both in the way the learner learns and in the way he or she transfers what has been learned to wider contexts.
(Little, 1991, p.4, 斜体字は原典のもの)
本質的に、自律性は、能力であり、とらわれず、批判的内省、意思決定、自立した行動な どを行う力である。学習者が自分の学習のプロセスと内容に対してある特定の心理的関 係を持つことが前提であるが、同時に、必然的結果でもある。「オートノミー」という能 力は、学習の際にも、学習したことを他の状況に応用する際にも、発揮される。
(同上, 筆者訳)
Littleはこのように、「自律性」とは、自己の学習に関する様々な見方や決定や行動
を他人にコントロールされないで独立して行う能力、すなわち、自分の判断で行う能
17
力であるが、すべてを独力で行うのではなく、必要に応じて周囲からの教育的な支援 を受けたり、学習者が様々な学習活動を行ったりする中で育つものであって、「自律性」
がメタ認知の発露であることを明言した。他者のコントロールから離れて、内省し、
自分で決め、選択した行動を行う能力が「自律性」であり、これが獲得されれば、一つ の分野の学習にととまらず他の分野の学習にも、また、学習以外の目的に活用するこ とも可能であると考えられる。
青木 (1996, 2005)は、Littleの主張に賛同しつつ、“ autonomy” に与えられた日本 語訳の含意を問題にしている。青木は “ autonomy ” に与えられた「自律」という日 本語訳が、「自らを律する」、あるいは、「教師に言われなくても学習するという意味で の自主性」を示唆しがちであることを懸念し、「自律」という日本語から生じる誤解を 避けるために「オートノミー」とカタカナで表記する立場をとった。青木によれば、
「学習者オートノミー」の中核は、自分の学習に関する意思決定を自分で行うための 能力、すなわち、「学習の目的、目標、内容、順序、リソースとその利用、ペース、場 所、評価方法を自分で選べるということである」(青木・中田,前掲, p.2)。さらに、学 習という活動が、社会的な存在としての学習者が社会の制約との関わり合いの中で行 うものである以上、「自分にとって最善の選択肢を選んでいく能力」を学習に伴う諸々 の制約を認識してその中で発揮していくことが重要であると強調している。
以上の検討から、「自律性」あるいは「学習者オートノミー」とは、自らの学習に責 任を持ち(Holec, 前掲)、学習に関する決定や行動を他者にコントロールされないで
(Little, 前掲)、自らの学習をコントロールする能力(Benson, 2001)であると言え る。そこで、本研究においては、「自律的学習能力」を「自分が当該の時点で取り得る 最善の方法を選択して実行し、かつ、自分の学習を客観的に観察・分析して次の計画 に活かす能力」と定義する。
2.1.2 「自律性」育成のための必須要素
本節では、「自律性」育成のために必要な要素を認識するために、学校教育における
「自律性」育成の方法についての代表的研究を概観する。学習者訓練の内容の概念化
を試みたWendenによる一連の研究(Wenden, 1986a, 1986b, 1991)、「メタ認知」と
学習活動の関係の明示化を行った三宮の研究(三宮, 1995, 2008)、学校現場での実践 を報告したWilliamらの研究(William et al. 1996, 2002)の順に検討する。
18
まず、Wendenは、第二言語習得におけるメタ認知の果たす役割(Wenden, 1986a, 1986b)に注目し、Wenden(1991)では、教育目標とすべき「自律的学習能力」の概 念を詳細に記述して、その訓練のために必要な要素を表2-1のように提示した。
表2-1 学習者トレーニングのコンテンツスキーマ
学習
ストラテジー
種類 働き
認知ストラテジー 言語情報を選択する、理解する、蓄 える、取得する
自己調整ストラテジー 計画する、モニターする、評価する 学習に関する
メタ知識
種類 側面
学習者自身に関する知識 情意的な要因、認知的な要因 ストラテジーに関する知識 効果的なストラテジー、学習の原理 タスクに関する知識 タスクの目的、言語の本質、意識的
努力の必要、タスクの要求
態度 種類 側面
学習者自身の責任 主体的であるか、自分の役割は何か 学習者自身の能力 学習できているか、自律的に学習で
きているか
(Wenden,1991, p.62をもとに日本語版作成)
上の表2-1に示されているように、Wenden(上掲)は、自律的学習者を育成する 訓練の内容を大きく三つに分けている。第一の要素は、言語学習を遂行する上で役立 つ「ストラテジー」21 の理解と利用である。認知活動に必要なストラテジーだけでな く、自己の学習に関わる活動の計画に基づいてモニターし評価する働きを持つ自己調 整ストラテジーが含まれる。第二の要素は、学習全般に関する知識である。効果的な 学習ストラテジーを選択することはもとより、自分自身の情意や認知を観察し、タス クの目的は何か、何に注意を向けるべきか、何ができるようになればよいかなど、自 分自身の言語学習や言語活動を分析的に理解することを重要と認めている。第三の要 素は、学習者自身の学習に対する態度である。自律的な学習が成立するための前提と も言えるもので、自分がすべきことを考え学習に主体的に取り組む責任や自律的に学 ぶ能力などが含まれる。以上から、「メタ認知」が自律的学習者を養成するための必須 要素であることが明らかである。
三宮(2008)は、「メタ認知」に関する先行研究の論考や提言22 を整理し、「メタ認
21 「学習ストラテジー」については、2.1.3 で詳述する。本研究では、「学習方略」も同義とする。
22 Flavell (1987) 、Brown (1987) 、Schraw & Moshman (1995) 参照。