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龍谷大学学位請求論文2001.03.05 小椋, 嶺一「近世中期文学思想論 -宣長と秋成-」

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(1)

近世中期文学思想論

と秋成

(2)

近世中期文学思想論

l

と秋成

(3)

はじめに

第一章

宣長の思惟構造の特質

ハ門﹁もののあはれ﹂論の源流について

口 ﹁

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造 序

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日﹁もののあはれ﹂論と法然浄土教思想との関連について

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出﹁歌道﹂と﹁古道﹂との関係をいかに理解するか

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(4)

付﹃

荘子

斉物論の視点から

血の思惟の構造││﹁白畢

と﹁血かたびら﹂のよみをめぐって

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枇成凝視の一点││

制﹁魔仏一如観﹂の系譜││八釈迦・達磨も我も一つ

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悪を嫌う心は悪││秋成と盤珪

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作意織の構造││﹁煽り

から﹁寓

﹂へ││

秋成と大阪

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白峯﹂の主題│

近世文学と仏教思想の視点から

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菊花の約

││信義から軽薄へ

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﹂論川

││理念と現実

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﹂論ll虚憶と実憧

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法僧﹂論│

島、実は化鳥

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﹁吉備埠の韮﹂鈴l

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貞蹄妬婦鐸への反転l

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四章

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文化五年本﹃春雨物語﹄から

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鷲山樹心著

上回秋成の文芸的境界

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元田興市著

雨月物語の探求

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萱沼紀子著

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近世中期という時代は、学問思想文学の領域において、儒教、仏教、老荘、国学‘神道が揖然 一 体化の様相を探め ていった。もちろん、そのことによって逆に 欄 互批判を鋭くし、時に、その批判は詰争として火を噴く場合もあった。が、 総じて各々が 一 線を画することが稀薄化する間向を示している。その典型が心学の龍行であ旬、主、思想の椛靖が顕著に 認められる滝沢馬琴の﹃南総里見八犬伝﹄の出現である。がその一方で自己の置かれている場について目覚めた人々は、 その確認のために樺々な形而上的学問への志向を強く

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もそのことは、やがて自ら修得した思想や学聞を如冊に表現す るか、その方法を模索することになる。その結果、士学史上においても、多様なジャンルの出現を見た 。 が、とりわけ幕 府の朱子学仙沼瞳の風潮が、逆に伝統的な士学への聞むを活発化させ、ある種の民族性を目覚めさせた。即ち、アイデンティ ティの確立である。が、我が国の古典の研究を過して、自己の歌論や物語訟の提示の中で、あるいは又、創作活動を通 して人間毘酷を深めるとともに、歴史や当代への批判を惨ませるという方法によって文学思想の宮島を深めていったので あ る 。 本書においては、このような状況の中から 、 奇しくも同じ文化園町中で、ほほ同時代に存命し、しかも同じ系統に速な りながら、極めて対照的な思惟様式を示した、本居室長 二 七 三

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ご と上回秋成 二 七 三 四 ; 一 八口九)の 二 人に焦点争当て、その文鋭的世為の様患を把握し、両者が見つめていた、 一 見世て非なる人聞の白血とその存在の問題に ついて、その依って立つ所の額融性と相違 世を 浮かびあがらせることを目的とする。

(8)

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(

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論の源流について

本居宜長の士学酋は、﹁もののあはれ﹂を中被とした主情主義的文学諭である。近世の思想史の尭展過程が朱子学的思惟 か ら の 解 盟 、

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びそれに対する創造的批判の歴史であったごとく、近世士学恩輔の展開通草も又、同じく朱子学的な勧 車 量 的功利主義的士学観からの脱却と否定の

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史 で あ つ れ f もその思潮の中で.宜長の文字詰は、 いかなる時代思潮に世つ て形成されたのか 。 時代思湖町 一 つの流れを解明することが、この小齢での主たる眼目である 。

25

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び﹃源氏物語﹂である 。 そして、植にあっては、﹁此物騒の外に歌置なく、歌置の外に此物語なし、歌道と此物語とは圭 ︿ 其 お も む き 同 じ 車 也 、 ﹂ ( ﹃ 紫 主 要 頓 ﹄ 巻 下 } と い 、 つ 考 え 方 に よ っ て 、 両 者 は 統 一 的に把握されているのである 。 し か し 、 ここでは、植の車氏物語観のみをき︿ることによって‘その文学 歯 の 一 特質について触れるだけにとどめたいと思う 。 宣長は、その草﹃紫士要領 ﹄ 二 巷﹃源氏物語玉の小衡﹄九巻を見ればわかるように、﹃源氏物語﹄に対する、綴進な 帰納的研究でも っ て、﹃揮氏物館﹂の内事が、儒教道草の立場から見れば、ほとんど肯定しがたい事件にみちみちている事、 それ敏、勧普盟悪町田的にそわないものであり、かえって悪へいざなうことになるという 。 なぜなら、光源氏には、大 不義的罪科があり、肝色の乱れも多い。それにもかかわらず、彼町生涯は、準盟栄華なものとして描かれ、ぞれのみなら ﹁ も の の あ は れ ﹄ 輸 の 概 流 に つ い て

(11)

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け物語の世界では、人間の生活の樟々な事象が吉まれるものであるという疹実によって、逆に締悪な筈としての性置をお びざるを得ないからである。だがしかし、そうかといって、謹奔をよしとするのではないと、彼は次の嫌にいう。 さはいへばとて淫奔をよしとしてとるにはあらずそれをば す て て か 、 は ら ず 、 物 の 複 を と る 也 ・ 此 所 を よ く よ く わ 免 ま ふ べ し ‘ と、そして更に、 淫 乱 に も せ よ 、 何 に も せ よ ま じ れ ら ん は 、 す て て か 、 は ら 血 事 也 、 物 の 夜 を い み じ う い は ん と で は 、 か な ら ず 返 本 は 、 英 中 に お は く ま じ る べ き こ と は 町 也 と。即ち、宣長の主彊は、士学の世界では、勧態と揚謹とはわけで考えるべきものではなく、両者相まって、 はじめて文

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、 ﹂ と し た の で あ る 。 即ち、文学の創作と草萱とは、室長にあっては、 ﹁ もののあはれ ﹂ を媒介として把握されているのである。では、﹁もの のあはれ﹂とは、いかなるものと、披においては理解されているであろうか。﹃紫主要領﹄巻上に、 世 に あ ち ゆ る 事 に み な そ れ ぞ れ の 物 の 哀 は あ る 事 也 、 そ の 感 ず る と こ ろ の 事 に 稽 芽 和 証 の か は り は あ れ 共 、 感 ず る 心 は 自 徐 と 、 し の ぴ ぬ と こ ろ よ り い づ る 物なれば、わがむながらわがむにもまかせぬ物にて悪しく郷なる穆にでも感ずる事ある也赴は悪し会事な れば感ずまじとは恩ひても自然としのびぬ所より感ずる也、

(12)

ここには、宜 長 の い う 、 ﹁ もののあはれ ﹂ の本質は、より明白に説明されているであろう。感ずる心は、全く自律的なの で あ る 。 即ち 、 ﹁ し の び ぬ 所 よ り い づ る物 ﹂ ﹁わが心ながらわが心にもまかせぬ物﹂として把握されている 。 この自律的に感 ずる心が、宜畏のいう﹁もののあはれ﹂である。故に、植が文学の中核に﹁もののあはれ﹂の障土を量定したという複は、 一 面からいえば、主学の自律性の主張であると拡張解釈することも併されるであろう 。 即ち、挫の文学詰は、その前提に 深い人間心情の調察が働いてい る 。 そ し て、その人閉じ惰の洞察を通して、人間性情が把鍵されているのである。その人 間性情の把握の上にた っ て 、 慣 の 文 学 論 は展開されているのである 。 即 ち 、 ﹁ もののあはれ﹂歯は格造的に 二 つの型機を持 っ ているのである 。 人間描的﹁もののあはれ ﹂ 歯と文学 治 的 ﹁ もののあはれ﹂酋と、この両者がからみあ っ て展開されて いるのである 。 以上、論 じ てきたごとく、宜長の文学観、﹁もののあはれ﹂諭町線底には、人間性情が、﹁すべて人の情の自扶のまこと 情 の 主 有 義 の の ま

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﹁ も の の あ は れ ﹂ 鈴 の 源 流 に つ い て は 四 世 そ の の 筒 著 で

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は の さて、更に、このような‘﹁不壷曾﹄にあらわれた、景山町物町見方、考え方町淵源を、村岡奥嗣氏は﹃本居宜長﹄、津 田左右官民は ﹃ 文学に現はれたる我が国民思想の研究﹄の平民文学町下、丸山真男氏は﹃日本政治思想史研究 ﹄ に お い て 、 祖徐との間違を強画されているが、果して、証生担保の古文辞学だけの器響によるものであろうか。 特に‘丸山真男氏の﹃日本政治思想吏研究﹄における、第 一 車﹁近世情教の尭展における担保学的障材質並に国学との関 連﹂、第四節、﹁国学特に宜畏学との間連﹂における蛤を中心にみてみると、 本 膳 寛 E R は 直 線 級 障 と 人 的 安 柳 は な い が 、 彼 が 京 税 進 学 の 際 師 事 し 後 の 儒 教 驚 警 の 大 節 分 を 負 ふ て ゐ る 樋 景 山 は 鳳 景 山 の 名 に よ っ て 留 保 集 の ・ ・ 簡 の 中 に 畳 喝 し て 来 る 人 物 で あ る ・ 策 山 は も と 朱 子 学 援 の 入 で あ る が 、 彼 様 と の 文 通 に よ っ て 修 響 さ れ た の か 、 そ れ と も ゐ 元

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と し て 、 ﹃ 不壷冒﹄の鍵泊所かを引き、﹁特に置要なのは﹂として、景山の人情主義的文学観を指繍して、 芸 術 の 働 理 よ " の M m 敏 を 支 復 す る 態 度 を と っ て ゐ る こ と で 、 そ の 立 債 の 仕 方 か ら 表 現 ま で 畑 山 徳 学 の 彫 響 な し に は 考 へ ら れ な い . 重 長 へ が

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無山←宜長の系列は、今では、樺々な 文献上旬処理によって 、 国学研究者の聞では定説になってはいる 。だが、今少しく、 異なった観市にたってみた州場合、ま た、通つれ,主刊を把握することができるのである。 そして、む しろ、その系列の方が宜長町文学詰の本置を把 握する 上 で 、 より正当であるとさえ t y r えられるのである。川以下このことについて述ぺてみよう。 註 申 ③ @ ① ﹃ 日 本 経 荷 態 ・ 宮 ﹄ 第 -一 巻 、 三 二 王 頁 . 河 野 省 三 氏 ﹃ 留 学 の 研 究 ﹄ ﹁ 窓 居 貨 長 と 網 島 双 山 ﹂ に 鉾 省 が あ る ・ 玄

景山は京都という王朝千年の文化と伝統を跨る、置維なる舗に佳み、宜長はそこに青春時代町世年かを過ごした@そ して、この京都における人間空毘というものは、恒に江戸を権力的主提の結合、大匝を軽涜的結合とするならば、 此 処に ① おいては、文化的人間 評価の 上に成立するといってよかろう 。

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、京都 は 学 聞の府としても、日本においては最も長い歴 ﹁ も の の あ は れ ﹂ 省 の 海 認 に つ い て

(15)

﹃ も の の あ は れ ﹂ 箇 の 源 流 に つ い て 史と伝統をもっている。故に、そこには、それぞれの学派の別こそあれ、都雅という共通した基盤の上に組織づけされ、 つの調和した学 問的風潮が自ずから醜しだされていたであろうことを、我々は推測できるであろう 。 それは、環境が人を 作り、人が環境をつくるという、いわば相即の聞係によって、持罰されて来たはずである。だから、京都にあっては、古 学であれ、朱子学であれ、その他いかなる学問流派であろうと、 れを、稚とか京都的人情、情緒、と呼んでおこう。 かく考えると、宣長の文学観の形成の過程をみようとする場合、わざわざ、祖僚の地縁的興質性を導入する必要はない よワに 思われる 。当時の京都にあっては、江戸の 祖僚の古文辞学派に先駆けて、伊藤仁 斎 を祖とする古毅輩の学派が盛行 一 つの共通した色彩で塗りつぶされるところがある 。 そ していたのである。だとすると、先学が祖徐←景山←室長町系列を論証するに、あまりに急であり、文献上の結合のみで 処理しようとされることが、かえって宜長の文学齢﹁もののあはれ﹂人情説の本質をとらえてはいないという壁土も生 じ て くるということになる 。 同時に、文献上での関係のみがどうして、その本質まで同じであると姐定し得ょうか。私は 宜百医学の形成の要素としてその既説の考え方は容認するけれども祖徐←景山

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室長の系列のみが正当感化の過程で あるとみる見解には満足できない 。 即ち、抵は祖徳

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景山 ﹄ 宣長の系列に対して、仁貰 ; 東涯 ← 景山 ← 宜長の系刑の過程 を考えてみたいのである 。 仁扇町 長男である、伊藤東証の著した ﹃ 説 詩 要閣 ﹄ をみると、そこには景山宣亘にみられた文学観と同趣町文学観 を我々は窺うことができる。 情 三 百 。 二 回 以 抗

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中 略 ー そ の こ と さ ま さ ま な 句 と い へ ど も ・ い づ れ も こ 、 ろ に お も ふ ニ と を あ 句 ⑨ 一 省 以 厳 レ 之 。 目 恩 鑑 ﹁ 邪 と の た ま ふ な り ・ ゃ う に 飼 に の ぺ た る ゆ へ に .

(16)

と、この ﹁ 思 録 ﹁ 邪 ﹂ の解釈の仕方は、景山の ﹃ 不壷 z 一 宮 ﹄にみられるところと同 一 である 。 ちなみに引用してみると、 聖人人ニ人情ノ色々橡々ナルヲ知ラサンゐメニ、曾ヲ集メ書トンテ続セラルルニ付テ恩無レ都ノ 一 宮 ヲ 惜 7 テ、元来ノ跨ト -Z モ ノ ノ -e E z -白 e φ 本 義 ヲ 解 釈 ナ サ レ 、 三 百 梅 ア ル 脇 町 ハ 只 此 -曾 デ以テ、務ノ集ハ此内ニ蔽組トノ王ヒシコトナルベン @ と、表現こそ異なっているが、把握の仕方は両者、同 一 であろう 。 きて、更にもう少し ﹃ 続詩要領 ﹄ の内容をみておこう 。 荘 子 に 五 経 の w ゆ を 鋭 て 。 際 以 送 T 一人情とあり 。 綿 子 法 宵 祭 見 篇 に 豆 一 玄 @ 観 レ 窓 者 莫 レ 鱗 二 乎 跨 一 あ り 。 い づ れ も 向 き わ け に て 。 爵 と 去 も の は 。 面 面 の 志 を の ぺ @ 人 情 念 つ く し た る 賓 と い ふ こ と なり。中略

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と同じ文学思潮に属しているとみてきしっかえないであろう 。 なお付加するな らば、宜長の ﹁ 索士要額﹄は.この東涯の ﹃ 読誇要領 ﹄ に啓聾されて舎かれているもののごと︿であるが、詳細について は、他穏に線ることにする 。 では次に、東睡と島県山との問には人的関係が成立し得るであろうか。この疑問に害えるべき、格好の資料が次の 一 主で あ る 。 京政五十緒氏の﹁松峡松童照級年 譜 ﹂ に 、 掲 議 さ れ て い る 、 ﹃ 後室配絞日記 ﹄ である 。 享 保 十 二 年 丁 朱 、 関 正 月 二 十 七 日 ﹁ も の の あ は れ ﹂ 省 の 源 涯 に つ い て

(17)

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よ 謂 つ 次 て、景山が、東涯の思想を耳にし、あるいは又、直接.東涯その人とも学問について瞳じあったであろう事を我々は、容 品に推測することができるであろう。更に遡って、東涯の文、伊藤仁粛の士学 観に ついては、中村幸彦氏の﹁文学は﹁人 情を道ふ﹄町鋭﹂の諭文によって、現々は、その大要を知ることができる。中村氏は、様々の文献を照合されて蹟じられ た後、仁買の文学制を要約して、次の微に述べられている. 仁粛の鎗を要約すればー-に崎広︿文学 は人情を遭ふものである ・ = に 従 っ て 、 文 学 は勧懲の具 ではな︿、道徳的なふるひを-度か けた後に人生に役立つといふものでな︿、直按にあらはれた人情に共感することによって、人摘が完成されてゆ︿ものである・主に 和 漢 睡 偲 俗 の 別 な ︿ 、 人 情 を 云 ふ の 点 で . 本 質 は -で あ る ・ 四 に か へ っ て 、 雑 ‘ 古 典 的 貴 族的な表現を待つ作品よりも、世俗的な限前 あ り の ま ま σ3 穆 実

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(18)

工埋め﹁文学は人備を道 ふ ﹂ の 障は、それぞれの所 感でもって、文学を理量的に整合したものであり、全面的な人 間性 の肯定を示しているのである。そしてそれは、 -冗 篠 ヒ ュ ーマニズ ムを契後として、生まれた漢鰐、 和歌、連歌 ‘ 俳 昔 、

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小説に至る.あらゆる文学の底涜をなす士学思潮 かくみてくると、宜量的思能、更に遡って景山、東証、仁斎など、 町 一 湖涜でもあったことは前掲、中村氏の治文の説く所である。 t主 ① 石 印 一 良 氏 ﹃ 伊 康 仁 鳶 ﹄ { 日 本 文 化 傾 究 第 五 巻 の

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﹃ 日 本 舗 林 史 書 ﹄ M m 俊郵第-玄貰 . ﹃ 日 本 包 廃 虚 開 銀 ・ ﹄ 第 一 -巻 、 三 二 四 賀 。 申 ﹃ 日 本 矯 林 策 帯 ﹄ 鱗段飾第て九買 .

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﹃ 型 合 大 学 仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 ﹂ 第 三 集 、 五 三 賀 @ 後 ‘ ﹃ 日 本 近 世 支 苑 の 研 究 ﹂ { 未 来 性 ) 所 収 . ① ﹃ 悶 錨 図 文 ﹄ 第 二 O 老 e m =特七買.﹃近世文芸思潮致 ﹄ ( 通 } 所 収 ・ S G 3 B } ﹃ も の の あ は れ ﹄ 蹟 の 源 浪 に つ い て

(19)

﹁ も の の あ は れ ﹂ 衝 の 機 逃 序 説

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論の構造序説

宜長 町文学歯の主体である﹁もののあはれ﹂詰は、その前提に深い人間心情の洞察が働いていた 。その人 間心情的洞察 を通して、人間性情が把掴されており、その人間性情の把姻舗の上に立って、植の文学歯は展開されてい

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そして更に、 かくの如き主情主義的文学論削、当時の文学思潮のいずれに連なるかという問題をめ﹁って、 一 眠障を捷出しておいた 。 そ ① の轄梨従来いわれて来た所の温徳学の単なる継承ではな︿、﹁もののあはれ﹂誼の質的意味においても、文、風土的社 ② 会的側面からみても、更には 、人 的関係を揮ってみても、京都仁於ける、伊藤仁貰の﹁文学 は人 怖を置ふ﹂の 考 え方によ り近いものではないかということを提示した e そこで、先的世債の 視 占に立ちながらも、今二度、この試障を原査に匪し て考えるという意味から、 こ こ では、耳長町人 間衝と文 学蹟について 、再検酎してみようと思う 。その ことは、宜葺 母会 体を考えるよに、互近世士学思潮の淀れを解明する上からも.重要な意味をもっと思うからである . 近世文学思潮町主潮流ともいうべき、主情主義的文学誌の展開には、当然的こ主として、主情的人間観が、その前提と なっている。その主倒的人 間観 は、その理想像として、主情的人間 像を想定 する。そ こ で 、彼 等の意図した、主情的人間 憎の理想型とは、 し、 か な る 人 間 一 像 宵 で に あ

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(20)

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の ﹁ もの町あはれ﹂歯の果贈をも明らかにしたい 。 注 由 画 像 学 の 宣 長 学 へ の 彫 響 に つ い て は 、 村 岡 典 嗣 氏 の ﹃ 本厳官畏﹂にがいて鎗嫡されたのが軍初であるがしかし村附氏はあく ま で -つ の 傍 成 妻 家 と 考 え て 怠 ら れ る ・ むしろ積観的にこの考えを押曲されるのは梅田左右吉氏の﹁文学に演はれたる我が悶良 思 想 の 研 究 ﹄ ﹁ 平 良 文 学 の 時 代 ﹄ 中に鈴いてであり更には、丸山真男氏の﹃日本政治思懇史研究 ﹂ ﹁ 近 世 儒 教 の 発 展 に お け る 錦 徐 学 の 特 質 並 に そ の 図 学 と の 関 連 ﹂ ﹁ 国 学 と く に 室 長 学 と の 関 連 ﹂ に 弘 前 い て で あ る @ -m a 末 、 宣 車 震 学 研 究 者 の 聞 で は 定 説 と さ れ て い る @ 申 中 村 幸 彦 氏 は ﹁ 文 学 は ﹃ 人 情 を 遭 ふ ﹄ の 脱 ﹂ の 歯 文 に 鈴 い て 、 伊 藤 仁 斎 の 文 学 " に つ い て 鉾 鎗 さ れ て い る ・ { ﹃ 図 面 闘 文 ﹄ 第

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巻 第 二 尋 露 間 収 て ﹃ 近 世 文 芸 思 潮 致 ﹄ ( 岩 最 ) に 所 収 。 周知の血︿、宜長町描いた人間像は、﹁もののあはれ﹂を中桜とした主情主義的人間像であり、あらゆる規範を拒絶した 位置に酷いて描かれた . そして、かくの掴き人間像は、当時に倹ける他の多くの思想がそワである如く﹃調氏物路﹄﹃新 古今和歌集﹄という‘限定された時代への回顧をともなっていれ f も即ち、宜長町描いた主情主義的人間像は平安朝的人間 人{象 聞 へ 捻 の の 憧 探 慨 究 で と あ い り う こ そ と こ で に は な 櫨 〈

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う 新 こ た と な であり、その否定を通しての文学歯の擁立ということであった。宜長は、京都道学中に著した処女作﹃あしわけをぷね﹄の ﹁ も の の あ は れ ﹂ 鎗 の 檎 透 序 誕

(21)

﹁ も の の あ は れ ﹂ 諭 の 暢 造 W 作 製 冒血において 歌ノ本体政治ヲタスクルタメニモアラズ身ヲオサムルおニモアラズ、夕、心ニ思フ移ヲイフヨリ、外ナシ、英内ニ政ノタスケト ナル歓モアルペン、身ノイマンメトナル敏モアルペン、主自家ノ笹トモナルベシ、身ノワサハイトモナルペシ、ミナ英人ノ七ニヨリ 出来ル歌ニヨルベン悪夢一-モ用ヒラレ、撃事ニモ周ヒラレ、興ニモ 4 恋ニモ恩ニモ響ニモ悠ニモ、何本ニモ用ラル也其七ノアラハ ル、所ニシテ、ヵッーノ罰幽玄ナレハ鬼神モコレニ感スル也、 と述べ、士学に対する、あらゆる規範を退け、心の動静にすべてを求めている。そして、そこに結架された内容の善悪は 問囲ではないとする 。こうした士学の自立とい うことは、宜長の出現を待つまでもな︿、当時すでに多くの人の口によ っ ていた。だから、宜畏のこうした考え方を、先学は祖徳学の継承量展という方向で理解されたのである。だが、架してそ れは妥当なのであろうか。 たとえば、丸山真男氏は ﹃ 日本政治思想史研究﹄の第二軍﹁近世儒教の尭展における祖徳学の特質並にその国学との関 連﹂、第四節﹁国学特に宜長山手との関連﹂に於いて、

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っ て ゐ た こ と で あ る 。 そ の 分 裂 を 飯 高 度 に 押 進 め 、 規 範 を 純 政 治 的 な も の に 迄 高 め て 一 切 の リ ゴ リ ズ ム を 排 除 し た 極 秘 怖 学 に お い て も 、 聖 人 の 遥 の 本 質 は 公 的 な 側 面 に あ っ た @ し か る に い ま 貧 疫 が 復 練 学 的 な 遭 を も な ほ え 斥 ら け れ

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(22)

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g p e しなべてかの漢意にのみうつりで、真レをばうしなひはでたれば、今は学問せざれば道をえしらざるにこそあれ﹄{向上 } で 漢 書 思 に 蔽はれるところから所翻﹁こちたきさかしらむ﹄が生れるにすぎぬ 。 こ の ﹁ 生 れ な が ら の 真 心 ﹂ を 本 然 の 伎 に 、 ﹁ 漢 意 ﹂ を気質の性 に置さ代へて見るがよい。それはそのまま朱子学の人性誌になる。﹁天理﹂の自然性に道を見た朱子学のオプテイミズムは但徳学に b o いて気質不変化といふペシミズムに逆転し 三 転して﹁入欲﹂の自険性に避を見出す玄疫学仁到遺したのである 。 か く て 室 長 は い ふ 、 ﹁ 遣 に そ む け る J % を人欲といひてにくむもこ こ ろ え ず 人 欲

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即 ち 天 理 な ら ず や ﹂ { 毘 隻 ) 道学的なオプティミズムの否定の ① 否定としていま や 漸 ︿本来の既往的なオプティミズムが庭生したのである 。 と述べ、更に、 、 、 . 、 、 、 、 、 、 ‘ 反 リ ゴリズムにおける但徐学と宜畏学との 関 謹 か ら 自 鮎 快 駅 に 恩 ひ 刻 る の は 、 文 芸 観 の そ れ で あ る 。さうしてこの白において宜畏学は組 徳学的思惟の終受からその漸次的克服への発展会示してゐる @ 室 長め初期の文学翁仁は文学の倫理及政治からの解放といふ薗が色歳 、‘、、、‘‘、、、‘、、‘‘‘、、、、.、‘、、‘ . . . 、 ‘ ‘ 、 . 、 、 ‘ ‘ 、 、 、 、 ② くあらはれてゐる 。 ここに詩文の遊学的解釈を斥けつつ是を私的領域に帰属せしめた倒徳学との著しい類似が生ずる。(傍自筆者 } と、丸山氏融自の方法の頗理的 -貫性ど藍序性とで、祖徳学と宜長学との関連を指摘されている。けれども、丸山氏が用 いる正直音という弁直接的理論による思想の 一 一 冗的な 把握 は、あたかも思想それ自体が弁証桂的に進化するかの如き感を 殺々に抱かせる 。 もちろん、祖練学と宜長学との否定的関連という把握の方法は、それまで常に縦にしかたどれなかった 国学の系譜に対して、横町思想、即ち 、 全く相対立 す ると考えられて来た儒学との聞係に於いてとらえるという方法を示 したもので、学派の相互の聞係が構造的に明確化されたという大きな意義はある。しかし、我々が宜畏学を考える場合、単 に績の関係に於いて、あるいは曜の聞係に除いて解釈するこ'とだけに満足してはならぬであろう。常に縦と検の関係が、い 尚 か 更 か に か い わ い り 語 あ え い

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﹁ も の の あ は れ ﹂ 鎗 の 構 造 序 鋭 否定的関連のみならず.当持の思想界にあって、祖徳学に先駆けて、也徐錐

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﹄同じ.あるいは、ぞれ以上の力をもった、仁 斎学との間連もクローズアップして考えねばならぬということである.そしてむしろ‘宜長学は、桂者仁斎学との聞遣の 方が、歴史的地緯的観自に立つ時、現実味を帯びている。丸山古典男氏の論考には祖徐学の過大評価と、仁粛学の過小野 備という欠陥がある。そのことは‘

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、江戸的な学聞の志向と、上方的学聞の志向とを同一揖され、両者の学聞の量的相 違が奈辺にあるかを見極められなかった結果ではなかろうか。 犯は以上町観占にたって、ここでは巨視的に、次の考えを一示しておこうと思う。 宣畏学は、単に但徳学を否定的媒介として成立したものではな︿、上方の学聞の伝統の中で生まれ来たったものである. 先 学 が 、 祖 他 係 学 と 宜 畏 学 と の 健 常 高 円

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し て 把 櫨 さ れ て い る 、 室 長 京 都 進 学 の 際 の 師 帰 郷 景 山 は 、 祖 徐 と 確 か に 空 際 は あ っ

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、 主学阻も両者通ずるものがあることも事実である。しかし、この事は堀家町家学を考える時、当然的帰結であるといわね ばならぬ。伺故なら、婚杏濯に姑まる匁家の学には、その極以来、朱子学と同時に和学的伝輯もあり、和歌にも親しむ家 系であった。塀家が朱子学を奉ずる家系でありつつもなお日本の伝統的和歌主に々を染めている務実は.景山の﹃不鑑三富﹄ が何よりも明白に物語旬、

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、第家の系暗にあらわれている人々の著述を一瞥しただけでも、それは知りうる。しかも景 山は、植に宜長学の基盤となる契沖の学聞を非常に前尊敬

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、契沖の門弟である桶口宗置と共に、担沖の ③ ﹃ 百 人 一 首改観抄﹄の刊行各えしたのであった。それ程までに、景山という人は偶者でありながら和学に側、心が深かったの である。か︿みてくると.景 山町﹃不量 冒﹄にあら われた斬新なものの考え方は、単に担保学の酷響とのみは解せぬ要 曹 をもっている。むしろ、景山と祖徐との聞係は‘領が掴をよんで共鳴しあったというものであって、祖際のものの考え方 が策山を示睦したという知書聞係ではなかったのである@上方の学聞のあ句かたは.堀家町家学のゆにも色揖くあらわれ

(24)

生 ど ている知︿儒学者といえども和学を箪ぷ風習が伝統的に存在していたのである。それ故、祖徳の﹁此方之和歌亦も問趣 @ に候得失、何となく只風俗之女らしく候は、聖人なき国散と彼 レ 存候 ・ ﹂という如き和歌を蔑祖するような見解が生まれる に 闘 能 障 で あ っ

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そして、今 一 つ、景山について補足するならば、景山は祖徐との香簡による吏障のみならず、当時京 都にあ っ て 一 努力をもち、担徐学の先駆けとなった‘伊藤仁斎を祖とする古穫量学慌の人々との夜空もあ っ たのである 。 即 ち‘景山は古袋草学派の松重鈴幌、朝枝玖珂、芥 川 丹郎等町人々と共に賛柴山の僧大通和尚に事音を習 っ ていたといヲ事 ⑤ ⑥ 実のあることである。この事は、仁斎やその子東躍の﹁文学は人情を道ふ﹂ものであるという宜学観と考えあわせるとき 、 景山と仁粛学との関係も軽担できない意味をもち、ひいては、宣長学と仁粛学左の関連も追求されねばならないというこ とになる 。 且上の釦き思想のデルタ的存在である掘.黒山の下に、若き宜長は学んだのである 。 そして.宣長学のゆ轄である﹁もの のあはれ ﹂ 歯は、ニの策山の下において尭隊していったの で ある ・ 注 ① -六 九 買 3 -七 O 買 ・ @ 一 七 -買 ・ @ ﹃ 近 世 勝 人 伝 ﹄ 巻 之 Z 一 -す 京 鱒 惜 に む 樋 へ 口

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﹁ も の の あ は れ ﹂ 諭 の 傷 遜 序 鋭 @ 一 の 捻 奇 に 同 じ ・ きて、室長に自責されていた醒題は‘文学の自立性を後得するということであっ

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そして、更に重要なことは、単に 自 立 世 を 草 宮 す る だ け で は な ︿ 、 文 学 そ れ 自 体 に 内 在 す る 価 直 面 隊 理 を 怯 確 定しようとしたことである@ 此 道 、 警 護 教 被 ヲ 以 チ 一 旨 ト セ ス ‘ サ レ ハ 恋 ノ 歌 ノ 多 キ 何 ソ ア プ カ ラ ン ‘ 只 心 一 一 マ カ セ テ 廟 ル 物 也

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ヒ ヤ ウ ニ ヨ リ テ 、 磐 悪 係 正 ア リ 、 只 J 、 此 道 ハ 風 雅 ヲ ム キ ト ン 、 秀 造 ヲ ヨ ミ 出 ン 事 ヲ 願 7 ヘ ン 、 理 券 律 省 ニ ナ y ム ヘ カ ラ ス 、 { あ し わ け を ぷ ね ﹄ ) 文学は遭曹的あるいは政治的、﹁普﹂﹁悪﹂﹃教﹂﹁成﹄﹁綿﹂﹁正﹂などと判別される ζ とを恐れてはならない.すぺ て心のよって︿るままにまかせ、その上で、﹁風雅﹂や﹁秀逸﹂というニとだけが文学にとって本質的な問聞になってくる だけなのだというのである。即ち、﹁風雅﹂や﹁禿逸﹂という事を、政治遭曹といったものとはかかわりのない、別のカ テゴリーをもっ価値として圭聾するのであり、それが文学というものである、と曹っているのである。そして、﹁人情﹂は、 そ の m m 雅秀逸を定着させるモメントであるのである。こ ニ に我々は、宣長のいう ﹁ も の の あ は れ ﹂ が 単 な る 主 情 主 義 的 調 理 歯としてのみでは把握でき由意味を見い出す。そこには、主知的理歯が脈うっている。かくして、人間的自律的世情は単 に外的現範の排除というだけではなく、文学的価値原理を基寵づける重要な意味が課せられているのである・そして、文 学的価値面理を基礎づける、人聞の自律的性情は、ニこに除いて、人間諭的﹁もののあはれ﹂撞として畳幼するのである・ が、もちろん、この人間障としての﹁もののあは れ ﹂訟は、あくまで、文学槍としての﹁もののあはれ﹂詰の前橿である。 いかなるものであるか、ということがまず問われ 換言すれば、文学の創造及ぴ享畳の主体である人閉それ自身の存在が、 な け れ ば な ら ぬ と い う こ と で あ る 。

(26)

では宜畏は人聞の存在をいかに理解したか。 サテ人情ト一玄モノハ、ハカナク児女子ノヤウナルカタナルモノ也スペテ男ランク正シクキ 7 トンタル事ハ‘ミナ人情ノウチニハナ キモノ也、正ンクキヌトンタル事ハ.ミナ世間ノ風ニナラヒ戎ハ書物ニ化セラレ、人ノツキアヒ世ノマジハリナドニツキテヲノ y カ ラ 出 来 、 文 ハ b ヲ制ンテコソラヘタルツケ物也、モトノアリティノ人情ト云モノハ至極マソスグニハカナクツタナクンドケナ キモノ也、サレハ暢人児童ハ心ヲ制スル ニ ツ タ キ モ ノ ナ レ ハ ( 中 略 て 本情ヲアラハンヤスキ也、男子ハ心ニハアクマテ悲ンクアハ レニ思フ事アリテモ、人ノ見聞ヲオモンハカリ、心ヲ制シ、形ヲ y ク ロ ヒ テ 、 本 権 問 ヲ カ ク シ y クロフニタクミナルヤウ也、コレ又近 世武士ノ気象、唐人鎗盆ノカタギ也、 { ﹃ あ し わ け を ぷ ね ﹄

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武士はいかにも男韮に、国家君主の為には自己の 一 命を落とすことを、すこしも惜しまずしていさぎよく肘死にしようと するかのようである 。 だがしかし、その本備はどうか。 コレ死スル時三アタツテ、散第 ニ ノコンヲキタル妻ヤ子ヲハ、カナンク思ハザランャ、老タル観ニハ今 一 タピモ、進ミタクハ思ハザ ランヤ、今ハノ時ニ歪リチ、イカナル鬼ノヤウナル荒男タリトモ、物ガナシク恩ヲ事ノナドカナカラぷヤ、此時 ニ アタツテ親兄第 饗子ヲ思ヒ、何トナクカナンク裏ヲモヨホン、ナケカハンク恩フ、(﹃あしわけをぷね ﹄ } これこそ人聞の究極の姿なのだと彼は見る。しかも、かくの如き人聞の笹を、櫨は、 千人万人人情ノ本然聖人凡人カハル事ナシ、(﹃あ し わ け を ぷ ね と として、普遍的に把催しようとする 。 このような、後町人聞の存在それ自身に闘する見解は、拙円著書町随所に見得る所 であるが、その 一 聞として﹃王勝間﹂ 四の巻の﹁うはべをつくる世のならひ ﹂ と題する所を引用しておこう。 ﹁ もののあはれ﹂債の偽造序鋭

(27)

﹁ も の の あ は れ ﹂ 論 の 傷 造 序 説 うまき物くはまほしく、よきき血きまはしく、よき家にすままほし︿たからえまほしく、人にたふとまれまほしくいのちなが、 ' v a -4

ら ま ほ し く す る は 、 み な 人 の 真 心 也 、 然 る に こ れ ら を 皆 よ か ら ぬ 事 に し 、 ね が は ざ る を い み し き こ と に し て 、 す べ て ほ し か ら ず 、 白 が は ぬ か ほ す る も の の 、 ょ に お ほ か る は 、 例 の う る さ さ い つ は り な り 、 文 ょ に 先 生 な ど あ ふ が る 、 物 し り 人 あ る は 上 人 な ど た ふ と に ま や る も l孟

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、名利を求め‘霊欲に走る如き、金 くの世俗的欲望の衝動に駆られる人聞を、人 聞の自然な性情とし て、すなおに器め得る人 間 でなければならない。そのよ うに、宣畏は主彊するのである。これらの、植の人聞に対する理解のあり方からすると世的思想はあたかも我々に匠 封建的近代意識にめざめているかの感をいだかせるが、しかし、これは、あくまで、世の理想とする‘平安朝時代的和歌、 物語の世界に於ける文学的人間像的真実性を裏付けようとするために、近世の﹁浮世﹂的現実町人聞の赤傑々な姿を暴露 したままであって、赤裸々な人間性の肯定のみが、そのすべてではないのである。だがしかし‘宜長臥前に主聾された人 間観士学観が著しく 、 数 学性を示していた占に於いては、

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糞淵にさえかかる傾向は存在している

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植が王朝的文学 的人間像と、現実の ﹁ 浮世﹂的人間像との間の共必頑として ﹁ まごころ﹂を求め、両者を逆接的な聞係に於いて把鑑主 張したことによって、ぞれまでの道学的人間像の虚偽性を鋭くっきくずすカをもっ事ができたのである。この事は換奮す

(28)

れば、匝学的伝統の中で、最も的確に、明僚に、国学町人間主義の慨念が提示されたとい う ことであり、文学描史のよか らも、又、思想史の上からも極めて意義のあることといわねばなるまい. かくして、宜長の士学 誼の前 鐙となる人間論は、以上の抑き、世の 曹 緯 併 を 引 き 出 す だ け で も 自 ず か ら 明 白 と な っ た で あ ろう・そこで、更にこの人間誼から尭想される文学治は、いかに展脱されているか、文字詰と人間論のかかわりをめぐっ て . 植 の 見 解 を 瞳 お う 。 回 とニろが宜長は、以上町担き、世俗的欲望にかられる﹁メメシキ﹂人聞の現実の聾は、人 聞 が人間である阻りに於い て 、 そ れを吾定することは出来ないのだが、しかし、だからとい っ て . そ れ の み に 終 わ っ て は人としての週ではないと考 える。即ら‘植はこのような世俗人聞を.そのままの状患で昇華させようとする。そして、その昇華させた時市に酷いて、 植は、盤町理想的人間像を措︿のである@この人間像が、いう所の﹁

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ののあはれ﹂的人間像なのである 。 こ の 人 間 観 は 、 世以前町朱子学的人間観とは相対立する ・ 即 ち 植は儒教や仏教で説く人間観に対して、次のように考え

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我固には.人 聞が生まれながらにしてそなえている﹁まごころ﹂を篠とする人間的自民七をもった和歌的人間像が存在

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もその和歓的 人間像こそ、世のいう﹁もののあはれ﹂を知ることの出来る人間であつれ

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そして﹁もののあはれ﹂を級も良く知り得た 人間が存在した時代は平安朝であったと考える 。 ここに、平安朝町世界がその理想的世界として畳渇するのである 。 こ の 世界では、和歌を依むことは目指高匝町事であり、それ故﹁もののあはれ﹂は、すべての人的解する所であった。何故な ら 、 和歌を紘もうとすれば自ら ﹁ もののあはれ﹂を解さなければならぬからである 。 で は 、 何 故にそのよ う に 、 ﹁ も の の あ はれ﹂を解する こ とが重要なことであるかといえば、﹁もののあはれ﹂を知る人聞は同時に、人としてのそラリティも備え ﹁ も の の あ は れ ﹄ 蛤 の 傷 退 序 鋭

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﹁ も の の あ は れ ﹂ 鎗 の 傷 造 序 誕 ているはずだ、と憧は見るからである。 い み じ く め で た き 桜 の 盛 に さ き た る を 見 て 、 め で た き 花 と 見 る は 紬 仰 の 心 を し る 也 、 め で た き 花 と い ふ 背 中 を わ き ま へ し り て 、 き て / 、 めでたき花かなと恩ふが感ずる也是即物の友也、然るにいかほどめでたき花を見ても、めでたき花と患はぬは物の心しらぬ也さ

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の 人 は 、 ま し て め で た 急 花 か な と 感 ず る 事 は な き 也 、 且 定 物 の 哀 し ら ぬ 也 、 文 人 の お も き う れ へ に あ ひ て 、 い た く か な し む を 見 聞 て 、 さ こ そ か な し か ら め と を し は か る は 、 か な し か る べ 一 会 事 を し る ゆ へ 也 是 事 の 心 を し る 也 、 そ の か な し か る べ き 事 々 の 心 を し り てさこそかなしからむとーわが心にもをしはかりて感ずるが物の表也そのかなしかるべきいはれをしるときは感ぜじと恩ひけ ち て も 白 然 と し の ぴ が た さ 心 あ り て 、 い や 共 感 ぜ ね ば な ら ぬ や う に な る ‘ 是 人 情 也 、 物 の 寝 し ら ぬ 人 は 何 尖 恩 は ず 、 英 か な し か る ぺ き 由 ゅ の 心 を わ 先 ま へ ぬ 故 に 、 い か ほ ど 人 の か な し 心 を 見 て も 関 て も 、 わ が 心 に は す ニ し も あ づ か ら ぬ 錐 に . さ こ そ と 感 ず る む な し 戸 務主要領 ﹄ よ } 宜長は﹁もののあはれ﹂を解することの出来る人聞は、同時に、人聞が人 間としてふみ行う べき亜をも自覚し得るらの と考えたのである。それ故、﹁也ののあはれ﹂を解

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得るか否かという事こそが重 要な問題とな ってくるのであって、儒教 でいう善悪邪正といった外的な視範によらな いでも、自扶に人間には、人間自らがふみ 行うべき置は指し示されている と考えたのであった・ここに、宜長は、儒教的倫理一回に対して、﹁もののあはれ﹂的倫理担を提示しているのである @ かくして.櫨の理想とする﹁・もののあはれ﹂的人間像を完成させるおにほ、現実の浮世にとどまっていては不可能なの である。現実の浮世は、そのまま、平安朝町雅 的世界に藍視されねばならぬのである 。 で は現実の浮世を、稚的世界に置 担させ得る量且の手段は何か . そ れこそ、士学的世界なのである ・即ち ‘﹃もののあはれ﹂を解する人間になる為には何よ りも、平安朝の人々が日常茶飯町事として営んだ、歌を依むという行為を、 現実の浮世に存在する人間も行為せねばな ら ぬのであるとする。草葺は、作歌生活こそ、﹁もののあはれ﹂人間像の理想に近づき得る唯 一 町道であると考えたのである 。

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五 以上の如き観点から宜 一 長は我が国の士学で、最もすぐれているものは歌では ﹃ 新 古 今 和歌集 ﹄ 、 物 語 で は ﹃ 腫氏物 語 ﹄ であるとした。だが、もちろん彼にも、 連歌跨諸謡浄瑠璃小歌童謡ノルイ・警曲ノルイハミナ和敬ノ内ニテ、(﹃あしわけをぷね ﹂) という担織はあっアもしかし 、これらも、﹃新古今和歌集 ﹄ や﹃滋氏物語﹄からみれば俗とされる。何故なら、 風雅ノ遣、ナンゾ雅ヲステテ俗ヲトラペ本ヲオイテ末ヲモトメンヤ( ﹃ あしわけをぷね ﹄ } であるからで ある 。 こ れ が 、 いう所の雅俗宜織である。叩ち、その基本的理論は次の抑くである。 和歌者流ノ婆トスル所、スグレテウルハシキ歌ヲヨミ山由ンゆヲ願ヒ求ルニアリ、サレパ秀逸ヲ詠出スルヲ以テ、第 一 義トスル也、ヨ E

-w A ノイハレイカントナレハ縄問モ嗣モ悉管古昔ニ立カヘリ、古人ニナリテ、ィニンヘノ風雅ノ境界ニナラン事ヲ求ル也、ノノ古ヲウラ ヲ ヤミマナ プ ハ イ カ ナ ル ワ ケゾト云 ニ マ ズ 古 ハ 詞 そ情モスナネニヤザシク雑ナリ、後世ニイタルホド観そ情モキタナクナリモ テユク色、サレハ和歌ハ、古ノ雅憲雅曾ヲウシナハス後世マテそ上代ニカハラヌ薗目也、 ﹃ あ し わ け を ぷ ね ﹂) 要するに、彼に於いては、文学とは雅の遭なのである。また‘稚に至る道程でもあるのである。では、このような、櫨 の意識に明確化されている文学の置はいかにして可能であるか。その方法について、彼は次のようにいう。 伊勢源氏従事紙狭衣ナント、其外アハレナル文トモツネニヨミナントスレハ、ヲノアカラむモエンニヤサンクナリユキテ、古人ノ むニナリユキ花鳥ニ 4 ヲト、メ、舟曾ニ固ヲヨロコパリノ四争オリ/、ノウツリカハルアリサマ、ソノ外ウキ世ノウレンキカナン ノ キ 徳 ニ 、 ツ 只 ヶ 性 テ 情 モ ヲ 、 ノ ヲ ヘ ノ テ ツ 恩 カ ヒラ ヲ

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参照

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