かろうか︒従って宣長の文学誌には文学における車修のなんたるかは隠織されてはいなかったように思われる︒そのこと
は︑茸長の詠歌の実作面に見られる惨譜たる結果からも逆証できるであろう︒
以上の如く︑宜長学的一示している様々な問題は一貫した思惟体系のゆに包括されるものであった︒それ故︑たとえば︑
@ 村岡典嗣氏が指摘されている﹁宜畏学の中古主義と上古主義の混在﹂は︑宣長学の統一されない矛盾ではなかった︒又︑漢
畠患の排除︑もののあわれ論︑産巣霊的神への絶対信仰︑そこから導かれる天皇への帰位︑等々は一貫した思惟に支えられ
ていたのである︒即ち︑それらの一つ
一 つ
は︑人間町内奥の心情を﹁ツタナクハカナクシドケナイ﹂という実存的把握に
方向づけられるものであった︒そのような人聞の本性の把握を通して︑そこから更に︑植はこの世の妙理を詔織したので
ある
︒植はこのような思惟の様を次の文章で具体的に物語っているので︑少し︿長くなるが引用してみよう︒
凡て
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は︑
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己が
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︑私
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後世
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中略
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かに
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こと
あた
はず
是を
もて
︑人
の相
官は
限り
あり
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く・
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ざの
︑隈
なく
妙な
る物
なる
事を
もさ
とる
べし
(﹃
︿ず
花
﹂上
) ここにおいて︑室長は神代の事実性を恒じようとしない人々を説得する手段として︑この現実の世のあらゆることの不 確実性を草したのである︒この世に今存在している人聞の嘗みの一つ一
つを
とりあげてみても︑どれ一つ確かにとらえら
れるものはないのではないか︒人間の個々の肉体に付属する眠︑耳鼻︑手足︑心︑いずれも不思謹ならざるものは何一
つない︒すでに人間の存在自体が不思議ではないのか︑と問いつめるのである︒即ち︑我々人聞の存在は人間自身による
伺ものでもない︒それにもかかわらず何ものも我々のものではない︒我々人聞は単に移り行く物でしかない︒それは﹁物
に行く遭﹂でしかあり得ない︒いわば︑家の問︑存在する我々の葺は様々な何かの意志によって光が投影されているにす
ぎず︑真の生命は常に我々の背後にあり︑未知なる過去と来知なる未来のただ中に隔操世しているというのである︒かかる
認伸院からむ詞事への学的体系は確立されていくのであ
る ︒
以上によって宣畏が漢意の理による人聞のさかしらを排除し︑生まれついたままの莫むを置の究極においたあの図式が
理解できたであろう︒
① 注
﹃文
学﹂
昭和
国
三年
一 二
月
@ @
前掲
禽困
衝反
論文
書看
︒
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宜長 ﹄
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六
従来宜長の古直置は︑政治歯としての立場から提えられ︑その結果︑政治の文学化あるいは︑文学の政治化という様患
において把握理解されて来た︒が︑以上の考察によると︑宜畏﹁道﹂の思想は︑その本質的領域において︑政治的発想や
樟睦は認められない︒
もち
ろん
︑
﹃王くしげ﹄や﹃秘本玉︿しげ﹂において示した政措への関心は否定出来ないが︑それす
ら﹁神の意志のまにまに﹂という彼の基本的姿勢は貫かれて居り︑王政櫨古や笹川封建政治的否定や補強に聞しては積極
的には何ら主張されてはいなのである︒むしろ自然神に対する宗教的感情をともなった世界観としての形態を示していた︒
そして︑それは︑どこまでも思弁的な理による世界観の傭築ではなく︑﹃古家記﹄の中に配されている稚拙な神々の行為的
事実性を証明するために︑室長の生きた現実の中に神代との同一性を指摘するという形璽をと旬︑その方法によって現実 的存在としての人聞の偲としての﹁真む﹂を尭見
L
︑その﹁真む﹂の姑原に神を認議するという︑まことにオプティミステイ
yクな方法に
よっ
て︑
自ら
の
﹂﹁ 遣 ﹂の世界を構築したのである︒それ故︑あらゆる政治的イデオロギーは︑盤町﹁道
の論の中には古まれてはいないはずである︒先にも述べた如︿宣長の思惟の核は人聞の本性を﹁ハカナクツタナクシドケ
ナイ
﹂
もの
とす
る
いわば︑人間性における女性的なものの強調にあった︒だから賀茂真淵のきわめて政治的色彩の撞い
﹁道
﹂を
めぐ
って
﹁道
﹂を
め
ぐ っ
て
思惟の筏になっている男性的﹁ますらをぷ句﹂との接触の後も︑自らの﹁たをやめぷり﹂に基づく思惟はどこまでも過け
なか
ったのである︒
その
一勝をとらえてみて也茸畏学の特置が努辺にあるか容晶に理解出来るであろう.
@ 尚︑更に付加すれば︑宜長学という思惟の形成において母︑勝の臨響は多大であった︒それは︑宜量の﹁道﹂の思想
にと
って舞視出来ぬ意味を示している・置がこの世のあらゆるものの根元として把握した産巣白神は︑その母なるものを
通して理解した︑生産者としての自然神であったのである︒私はこのことと︑先に考察した療柄とを過してそこに︑宜
長学の思惟構造町特置として女性的なるもの︑あるいは︑母性的原理なるものに基づく凹型の思惟形態を見るのである︒
ところで舛来の思想である︑偶数思想においては︑自然一の也置は大きく後過し︑それにとってかわるかの如く人聞の
さかしら(理)が前面に押し出されることとなった︒その結果自然を支配しようという形で蛇立する文なる王の思想︑即
ち男性的原理に基づく政治を司る者の思想が大きく艇を落とすこととなったのである︒それにともなって︑土着町農緋主
化の核としての﹁遭﹂の思想は大きく後過していった︒ここに宣畏学は︑その復像という意味において確立されたのであ
る・かく考えれば︑宣長学にみられる︑不思議な神々の大系(傍点筆者)︑
及
び︑それに連なる天皇の問題は政拾を超えた@ 別の視
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から考聾さ
れる
べきであろ
う. 申 ① 注
村岡
奥向
剛氏
著﹃
本居
室長
﹄(
岩孟
)書 留
・
江蔭
淳氏
著﹃
成験
左聾
失
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﹄に示
唆を
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同}
( 五 )
みやび