学位請求論文(課程内)審査報告要旨
審査員
早稲田大学教授 石堂常世 早稲田大学准教授 佐藤隆之 早稲田大学名誉教授 市村尚久 早稲田大学教授 (主査)藤井千春
論文題名
デューイの<教材>開発論とその思想
―子どもと教科の二元論を超えて―
論文提出者 山上裕子
本論文の課題
本論文では、アメリカのプラグマティズムの哲学者・教育学者ジョン・デュ ー イ(Dewey,John, 1859-1952)の 著 作 に お け る < 教 材 > (subject-matter, subject matter, subjectmatter)に関する論述が取り上げられ、その概念と教 育学的な意義を究明することが課題とされている。
このために、本論文では、デューイの教育学における<教材>の概念が、デ ューイの探究の論理におけるsubject-matterを手がかりにして分析され、さら に、<教材>が学習活動において現実的に果たしている機能、特に子どもの経 験の連続的再構成(「成長」)という側面において果たしている機能に注目して、
学習活動における<教材>の役割について検討・考察が深められている。その ように<教材>の概念と役割とについて明確して、デューイの<教材>論を、
子どもと教科との二元論を克服することをめざした<教材>開発論として意義 付けて再構成することが試みられている。
本論文の特色
デューイは、その長い生涯における膨大な教育学関係の著作において、随所 で<教材>について言及している。しかし、デューイ自身は、この用語につい て、必ずしも統一性のある意味において使用してはいない。このため、従来の デューイ研究において、<教材>という用語が、何を指示対象とするのか、す なわち、教具なのか、学習活動で使用する事物なのか、教科内容なのか、学習 の主題なのかについては、デューイ研究者の間でも明確な共通理解に到達して はいない。また、わが国のデューイ研究においても、“subject-matter“は、「教 材」のほかに、「学習素材」「探究の題材」などとも訳されている。このように、
先行研究において、デューイのいう<教材>は、デューイの教育学をどのよう に特色付ける概念であり、また、学習活動においてどのような役割を果たすの かについて、研究者の間で合意できるような学説が得られるに至ってはいない。
本論文では、デューイの探究の論理におけるsubject-matterを手がかりにし て<教材>の概念が分析され、また、デューイ教育学の中心的なテーマである 子どもと教科という「二元論の克服」という観点から、学習活動において<教 材>の果たす役割について検討・考察されている。それらの作業を通じて、デ ューイの<教材>論が、教師と子どもとの face-to-face の協同的なかかわりに おいて、探究的に展開される動的な学習活動を導くための<教材>開発論であ ったと論じられている。この点で、本論文では、デューイの著作における<教 材>に焦点が当てられてはいるものの、<教材>については、カリキュラム上 の問題としてではなく、デューイの哲学的なテーマや考察を観点として、いわ ばデューイの思想上の問題として取り扱われている。
デューイの教育学における「二元論の克服」というテーマについては、先行 研究においても、子どもと教科との「二元論の克服」として特色付けられてい る。先行研究には、デューイがカリキュラムにおいて「二元論の克服」をどの ように試みたのかについて論じたものが多い。それに対して本論文は、<教材
>について、子どもが教科の内容を自己の経験に取り込み、経験の連続的再構 成を遂げるような学習活動を導くための、子どもと教科とを相互関連的に捉え る学習活動の構成原理として、また、そのような学習活動を生み出すための教 師と子どもとの相互関連的な関係のあり方として究明されている。このことに よって、学習活動の指導における教科や教師の指導性などの位置や役割が明ら かにされ、従来の「社会的遺産を与えない」「教師の指導性・方向付けの後退」
など、デューイの教育学に対する批判が誤りであることが論証されている。
本論文の構成と概要
本論文は二部から構成されている。第Ⅰ部では、デューイの<教材>の概念 について明確化され、第Ⅱ部では、<教材>の教育的意味について検討・考察 がなされている。
序 章
第一節 本研究の目的 第二節 本研究の方法
第三節 先行研究とその課題 第四節 本論の構成とその概要
第Ⅰ部 デューイの<教材>概念
第一章 論理学におけるsubject-matter 第一節 subject-matterの源泉
第二節 subject-matterの位置 第三節 subject-matterの条件 第四節 subject-matterの複雑化 第二章 教育におけるsubject-matter
第一節 <教材>の位置 第二節 <教材>の設定
第三節 デューイの教育思想における<教材>の位置 第四節 デューイによる<教材>の模索
第Ⅱ部 デューイのいう<教材>の意味世界 第三章 子どもと<教材>
第一節 <教材>への興味 第二節 <教材>への態度 第三節 <教材>と知識 第四節 <教材>にみる成長
第四章 教師と<教材>
第一節 <教材>と教科
第二節 <教材>と教育の方法 第三節 <教材>の組織
第四節 <教材>にみる教師の専門性
第五章 <教材>の検討
第一節 <教材>にみる社会的制約
第二節 <教材>にみるデューイの教育関係 第三節 <教材>の独自性
第四節 <教材>の問題点
第六章 ラボラトリー・スクールの再検討―<教材>の視点から―
第一節 再考の観点
第二節 応用心理学の実験室としての学校 第三節 実験の問題
第四節 <教材>からみたワーク・レポート 第五節 <教材>とオキュペーションの位置関係
終 章 ―理論から開発へ―
「第一章 論理学におけるsubject-matter」では、デューイの『論理学理論 の研究』(共著、1903 年)の論述に基づいて、subject-matterの概念が分析さ れている。
そして、デューイにとってsubject-matterとは、探究の題材を意味し、それ は、ⅰ先験的な世界にあるのではなく、人間が生活する現実の世界における状 況を源泉として発生した問題であり、ⅱ主体が問題であると受け取られること によって、主体の問題として位置づけられるものであり、ⅲ現実の世界におい て実験的な操作が可能であるとともに他者とコミュニケーションによって共有 することが可能なものであり、ⅳ時間的な経過の中で、カオス的な状況からま とまりを持った状況へと転化していくものであること―が明らかにされている。
本論文では、subject-matterの概念についてのこのような捉え方が枠組みと して採用されて、第二章以降の考察が進められている。
デューイの探究論については、一般的には、『思考の方法』(1933年)、『論理
学』(1938年)など、後期の著作に基づいて研究されている。しかし、本論文で
は、デューイの教育学の中心的な著作の一つである『学校と社会』(1899年)と 近い時期に書かれた、探究についての著作が取り上げられて分析され、デュー イがこの時期からsubject-matterを、先のⅰⅱⅲⅳのような意味を有する、探 究の題材という概念としてすでに論じていたことを明らかにしている。一般的 には、デューイは中期までの教育学研究の後、後期から教育学の基礎理論を求 めて哲学研究へと移行したと評価されている。しかし、本論文では、デューイ の教育学の特色について、subject-matter概念の分析によって、教育学が展開
されたのと同時期の哲学研究における論点と刷り合わせる形で明らかにされて いる。
「第二章 教育における subject-matter」では、第一章で明らかにした
subject-matter概念について、教育においては、子どもの行う探究に教師の教
育 的 意 図 が 関 与 す る と い う 観 点 か ら 検 討 が 加 え ら れ 、 教 育 に お け る
subject-matterの概念について考察が行われている。
一般的に教材は、教える者としての教師と教えられる者としての子どもとを 媒介するものとして位置づけられている。デューイの時代においても、子ども に受け取らせる内容という教科の意味で広く使用されていた。しかし、本論文 では、デューイが、教育を、教師と子どもとがface to faceで協同するコミュ ニケーションとして捉えていたことに基づき、デューイの教育学においては、
subject-matterがそのような状況において発生するものとして理解できると論
じられている。そして、デューイの教育学において、<教材>は、教師が文化 遺産と子どもの興味関心や欲求を調停するという観点から、また、子どもの経 験の内側から子どもの経験そのものを生成することを目的として、子どもの生 活経験に求められるものであるという特色が明らかにされている。また、この ような点で、デューイの教育学において、子どもと教科との「二元論の克服」
が試みられていたと論じられている。
このように、本章では、子どもと教科との「二元論の克服」という観点から、
ま た 、 教 育 に お け る 探 究 の 特 質 に 基 づ い て 、 デ ュ ー イ の 教 育 学 に お け る
subject-matterの概念について分析がなされ、その概念が哲学との関連の上で、
さらには教育学としての特殊性の加味の上で明らかにされている。
「 第 三 章 子 ど も と < 教 材 > 」 で は 、 第 一 章 、 第 二 章 で 明 ら か に し た
subject-matter概念について、デューイの教育学で論じられている、「興味」「態
度」「知識」「成長」を観点として、子どもの側からその意味について検討が加 えられている。
そして、<教材>は、ⅰ子どもの経験の世界を拡大していく探究へと導くよ うに、子どもに事物についての興味を喚起するだけの新奇さを求める好奇心を 引き起こすものであること、ⅱ素材にひた向きにかかわる態度が要求される、
あるいは、他者と相互扶助や共同するなどの社会的関係への参加を通じて道徳 的態度が要求される機会を与えるものであること、ⅲ自己の持つ知識に他者か ら伝えられた知識を組み込むことを可能にするものであること、ⅳ子どもの経 験の生成を促進し、子どもの経験の再構成による成長を遂げさせるものである こと―など、経験の再構成、あるいは成長のために<教材>が有するべき条件 について、子どもの側から明らかにされている。
本章では、デューイのいう「興味」「態度」「知識」「成長」の意味についての 検討に留まらず、それらを観点として、第一章、第二章で明らかにされた
subject-matter概念について検討が加えられ、デューイの教育学において、<
教材>がどのような条件を持たなければならないのかについて、子どもの側か ら明らかにされている。
「 第 四 章 教 師 と < 教 材 > 」 で は 、 第 一 章 、 第 二 章 で 明 ら か に し た
subject-matter概念について、デューイの教育学で論じられている、教科、方
法、<教材>の組織化、教師の専門性を観点として、教師の側からその意味に ついて検討が加えられている。
そして、<教材>とは、ⅰ教科を観点として、教科について熟知した教師に よって、子どもの生活経験の中から探究を受けるにふさわしいと判断されたも のであり、ⅱ子どもの探究を導くことに即して、教師が子どもたちに素材や方 法を提供しつつ作り上げられていくものであり、ⅲ偶然性を孕みつつも、知的 な自由のもと、教師の知性の行使によって組織化されるものであり、ⅳそのよ うにして、教師に子どもの探究を導く専門性を発揮させるものである―など、
<教材>が有すべき条件について、教師の側から明らかにされている。
デューイの教育学については、従来、第三章と同様の子どもと教科との「二 元論の克服」という視点からの研究は比較的多数見られるものの、教師と教科 との「二元論の克服」という視点からの研究、さらにはそのような考察に基づ いて教師の専門性を明らかにした研究は少ない。本章では、デューイのいう<
教材>が、子どもたちの探究の導き手としての教師として、教師の専門性にお いてどのような意味を有するのかについて明らかにされている。
「第五章 <教材>の検討」では、<教材>について、残されたいくつかの 観点から検討が加えられている。
そして、<教材>は、ⅰ衝動を知性の働きへと変容させるための抵抗である というデューイの論述に基づいて、<教材>は知的活動の自由を保証する一方 で、子どもを欲望のまま暴走させずに、現実とかかわらせて探究へと導いてい く制約のあるものであこと、ⅱ教師と子どもとの間に教育内容授受の関係に留 まらない、face to faceのコミュニケーションに開かれた関係を結ぶものである こと、ⅲ生の素材から探究活動における子どもたち自身による実験的操作によ って作り上げられるものであること―など、いくつかの観点からデューイの<
教材>の有する意味が明らかにされている。
本章のⅰについては、いわゆる「這い回る経験主義」として批判されたデュ ーイの教育学に対する反論として論じられたものである。ⅱは、デューイの教 育関係に関する考え方について、<教材>を観点として考察がなされており、
きわめて独自性の高い論点が提起されている。ⅲではフレーベル主義教授法や モンテッソーリー法などとの比較により、それらとの相違、およびデューイの
<教材>の概念の独自性が明確にされている。
「第六章 ラボラトリー・スクールの再検討―<教材>の視点から―」では、
本章までに明らかにしたデューイの<教材>の概念を観点にして、デューイの シカゴ大学附属実験学校での教育実践について、教師たちが残したワーク・レ ポートの分析に基づいて検討されている。
そして、ラボラトリーの意味について、ライアン、タナー、ジャクソンらの 先行研究を検討し、そこが心理学の原理に照らして教育上の原理や方法を解明 しようとする「実験室」であると捉えられている。そのような観点から、ラボ ラトリー・スクールにおいて<教材>は、固定されたものとしてではなく、理 論と実践とを関連付ける実践上の問題を解決する過程で開発されていくものと して位置づけられていたと論じられている。ラボラトリー・スクールの教師た ちに記録されて残されているワーク・レポートは、そのような実験的な<教材
>開発に関する教師たちの反省的な記録であったと論じられている。
近年、デューイの実験学校の教師たちによって残されたワーク・レポートの 分析に基づく研究が、特に若手のデューイ研究者によって盛んに進められてい る。そのような中にあって本論文は、教師たちによるワーク・レポートについ て、それを<教材>開発についての反省的な記録として位置づけ、ラボラトリ ーを、本論文で明らかにしてきたデューイの<教材>の概念に基づいて、<教 材>開発の実験室という意味で明らかにした点に独自性を見ることができる。
本論文の評価と課題
以上のように、本論文は、伝統的な教育における「教材」に対して、さらに は従来のデューイ研究における「教材」についての理解に対して、デューイの 教育学において、<教材>をどのような概念において捉えることができるのか を明らかにし、さらに、その概念と学習活動における役割、およびその意義な どを明らかにすることを試みた研究である。
本論文を次の点で評価することができる。
第一に、本論文では、デューイは、教育学において、伝統的な子どもと教科 との二元論をどのように克服しようとしたのかについて、デューイの<教材>
に関する論述を分析することによって考察されている。デューイにとって、伝 統的な教育学においては、子どもと教科と教師という三項目が、それぞれ学習 活動に先立って独立的に存在しており、学習活動に対する指導とは、子どもの
外部にある教科を教師の働きかけによって子どもの内部へと転記していく行為 と考えられてきた。このため学習活動に対する指導の諸側面は、子ども対教科、
教師対教科、子ども対教師というように、二元的な対立関係を枠組みとして捉 えられてきた。そして、これまでのデューイ研究では、デューイがどのように して「二元論を克服」しようとしたのかについては、主にデューイの教育学の 特色である「オキュペーション」などを手がかりとして、子どもが自らの興味 に基づいて精神的に集中して取り組んでいる活動という、子どもと教科とが一 体となることのできる学習活動を連続的に配列していくという、カリキュラム 編成上の問題として考察されてきた。それに対して本研究は、デューイのいう
<教材>に焦点が当てられ、その概念と学習活動における役割について、デュ ーイの哲学におけるテーマと考察を観点として、すなわち、探究の構造を一元 的な枠組みにおいて解明することをめざしたデューイの思想上の問題として考 察がなされている。そして、学習活動の構造が、子どもと教師とによって展開 される協同的なコミュニケーションに基づく探究として分析され、<教材>が その過程で子どもと教師とによって協同的に生成されていく題材として解明さ れている。つまり、本論文では、<教材>について、学習活動における子ども と教師と教科との相互作用を通じて、子どもの内部で子どもの経験の再構成を 促進する要素として生み出され、そのように機能していく役割を担うものとし て特色付けられている。このような<教材>についての概念の明確化に基づい て、本論文では、デューイの<教材>論が、<教材>開発論であるとして論じ られている。このような点は、本論文の最大の独自性として高く評価すること ができる。
第二に、本論文では、<教材>についての概念が、1903年の『論理学理論の 研究』におけるsubject‐matterの分析に基づいて、「研究の題材」として明ら かにされている。デューイについては、一般的には、教育学研究の後に、その ための基礎理論を求めて経験主義哲学を展開したといわれている。二元論の克 服を哲学において本格的に追究したのは、『哲学の改造』(1920 年)以降のこと であるといわれている。しかし、本論文では 1903 年の『論理学』が中心的に 取り上げられ、そこで論じられている探究について分析と考察が行われている。
そして、そこで論じられている探究の主体と探究の対象との一元的な捉え方に 依拠して、また「探究の題材」を枠組みとして使用して、<教材>の概念につ いて明確化されている。このことは、デューイが『学校と教育』(1899年)およ び『民主主義と教育』(1916年)など教育学における中心的な書を著した時期に、
デューイがすでに哲学研究と教育学研究との連動を試みていたことを論証する ものといえる。このような点は、デューイの思想的な発展を明らかにする上で、
新たな側面を論証した研究として高く評価することができる。
第三に、本論文では、<教材>が探究的な学習活動において、教師と子ども
とがface to face で関わることによって、協同的なコミュニケーションを通じ
て生成されていくものであることが明らかにされている。このことによって、
デューイの教育学では、<教材>は固定的に与えられるものとしてではなく、
そのような学習活動を通じて教師と子どもとによって協同的に「開発」されて いくものとして捉えられていること、また、それゆえに、子どもの学習経験を
「成長」として価値あるものへと導く上で、教師の指導性が必要となることが 明らかにされている。デューイの教育学に関しては、従来、「這い回る経験主義」
「社会的遺産の無視」「教師の指導性の後退」という批判が提起されてきた。そ れに対して、本論文では、第一に、動的で探究的に展開される学習活動の構造 が、子どもと教科との「二元論の克服」というデューイの思想上のテーマに即 して解明され、<教材>に関するデューイの論述が、そのような学習活動を導 くための<教材>開発論として再構成されている。つまり、デューイの教育学 において、教科がどのように位置づけられているのかについて明確にされてい る。デューイが教科を無視したのではないことが論証されている。第二に、本 論文では、デューイの教育学における教師に必要とされる指導性や教科の取り 扱い方などが明確されている。つまり、デューイは、教師の指導性を考慮しな かったのではなく、伝統的に考えられてきた教師の役割とは異なる新たな専門 的な指導性を教師に求めていたことが論証されている。このように従来のデュ ーイの教育学に対する批判への反論のための有効な論拠が提起されている。
なお本論文では、筆者は、次のような点を、デューイの<教材>開発論に関 する研究上の残された課題として挙げている。
① 初等教育だけではなく、中等・高等教育、生涯教育など、すべてに適用 することは可能であるのか。
② すべての教科においても適用することは可能であるのか。
③ 子どもと教師との関係性を構築する理論として提案することは可能であ るか。
しかし、これらの点は、本論文で研究されたデューイの教育学における<教 材>の概念、およびその機能や意義について明らかにされたからこそ、その延 長線上に見えてくる課題といえる。また、本論文で明らかにされたデューイの
<教材>開発論を手がかりに、シカゴ実験学校における教師たちのワーク・レ ポートを丹念に分析して、教師と子どもたちとの協同的なコミュニケーション の様相を解析することも、研究成果として今後に新たに開かれた課題といえよ う。さらにいえば、デューイの哲学における「二元論の克服」というテーマに
ついて、ヨーロッパ哲学の伝統の文脈から、いわば外在的な視点から検討する こと、デューイの教育的関係論について他の教育哲学者の説との対比において 明らかにすることなども、今後の研究に期待される。
しかし、このような今後の発展の課題が明確になることは、それだけ本論文 がデューイの教育学についての研究としてきわめて中心的で、しかも基本的な 研究として、価値ある研究であることの証明といえる。デューイ教育学の中心 的な論点に正面から取り組み、デューイの残した文献、および数多くの先行研 究を十分に解読することに基づいて、デューイ教育学についての発展性のある 論理を解明した研究として高く評価することができる。
結論
以上により、審査員一同は、本論文は学位請求論文(課程内)として適格で あると判断した。