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そのまま彼の﹁もののあはれ﹂撞の質的な限界を示すものではない︒﹁

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ののあはれ﹂という感性的な曹棄で律せられる世

界観はだから︑宜長のあらゆる﹁学﹂の体系化の際に常に自徐的に置畳しているのである︒そのことは︑宜長と﹁もの

のあはれ﹂詰との畳遁が極めて主体的資質的であった事を物語る︒かかる思惟の体系を樹立せしめたものこそ︑植の全生

命であり︑同時に生活の場をおいている町人としての時代的環境に外ならない︒かくして︑宜長は︑その現実起織に基づ

いて︑世の鹿偽をあばいて見せる︒それがまず人情の実患の暴露として顕現される︒その人情の実控把握にともなって﹁漢

意排除﹂の意訟がすでに想定されているのである︒既に第一章口﹁﹃もののあはれ﹄論の携造序説﹂等で繰り返し見て来た

如く︑宜長は人間の人情の本土をより女性的なる方向に於いて把握

L︑男性の﹁正ンクキヌトンタル﹂睦度は車偽とし

て﹁近世武士ノ気象︑唐人撞誼の気質﹂として批判的に把握していた︒即ち宣長においては﹁メメンクハカナクンドケナ

イ﹂女性的性情の笑睦に人聞の普遍的な本性が求められていたのである︒この人聞の本性はそのまま﹁莫レ﹂として﹁ま ことの遭﹂に連続させられていくのである︒そのことは︑とりも直きず﹁日の神﹂の絶対性と連続するものでもある︒

ところで︑人聞の本性を﹁ハカナクyタナイ﹂ものとして捉え︑それを輔擾的に前面に押し出すというような思惟のあ

り方は閉じ国学の陣営にある真淵や秋成町思惟の中にはなく︑むしろ能等のそれは﹁おおしく武︿直き﹂あるいは﹁お

とめさび﹂たことが人聞の臭いとして担えられているのである︒ここに︑近世に於ける人間自覚のあり方が︑国学という

同じ範障に属しつつもなお呉置であるという︑真に微妙にしてかつ重要な問題が示されているのである︒

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の重々しきは上古の天子中古の大将軍与などの御様子よ句もまきりて︑万事重々しき也それに准じて中下の人々もみな同じ事にて

たとへば今ノ世に千石もとる武

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しほどの人に同じ︑か︿の釦くよ中下おしなべて︑身持殊の外に麗々しき故にそれに準じて分際不相応に4

符も 象々 しさ 身分 の

やうにてむかしは大名の自身にせしほどの働さをも︑今は百玄+石︿らゐ取ほどの人也みな︑Fなる者に云つけ働かせて︑自身

はせぬ事のやうになれり︑重る町人などは猫更の事也︑然れどもこれ天下一同の事なる故に︑各分際に過たりといふことをみづから

も賞えずもとよりかやうに有べきはづの物とのみ七得倍る也︑身分を重々しくするは︑警とは別の背中のやヲなれ共これ郡大なる

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秋成﹁自の神話争﹂とのかかわりを過して

秋成﹁自の神蛤争﹂とのかかわりを過して

と︒こニには︑当時︑各々の人間心情が﹁分﹂を縫えて様々な私情を募らせて行くあり樟がリアルに捉えられている︒上

は﹁大名﹂に於いて︑下は﹁百姓町人﹂まで等しくそうであった︒それ故仁社会秩序の混乱と不安は日相しに酷化していっ

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百姓町人大努徒党して︑強僻虚位することは︑管は拾平の世にはをさ/¥うけ給はり及ぱぬこと也︑近世になりても先年はいと

稀なる取なりしに︑近年は年々所々にこれ有て︑めづらしからぬ事になれ旬︑これ武士にあづからず︑畢鷺百姓町人のことなれば︑

何ほどの事にもあらず︑小事なるには似たれ央︑小事にあらず善大切の移也いづれも闘病にせま句て︑せん方なさよりおこると

はいへども訟ずる所kを恐れざるより起れり下民のよをおそれざるは︑乱の本にて.甚容易ならざる事にて(﹃笹本玉︿しげ﹂

という如き有線で︑動揺は採剖を極めていたようである︒あるいは︑宣畏の眼には︑このままの状態であるならば笹川

幕藩体制の崩壊もすでに秒読みの段陪に入っていると映っていたやも知れないのである︒しかし︑だからといって︑宜長

は新しい政治障を展開し新しく政策の転換を要求しようとしたのではない︒

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ここに︑あるいは︑人は体制を後謹する保守者としての宜長を見るかも知れない︒事実宜長は︑人聞の智曜の限界を指摘

することによって新法を立てるなと古い︑更に先現によって政リ吟仰せよそうすれば大きな誤まりはないとまで断定してい る︒確かにこれら一連の雷述は保守以外の何ものでもない︒しかし何故にかくも蝿守に徹せよと雷うのか︑むしろこのよ

うな思惟の尭想のあり方が問題であろう︒即ち宜長は言う︒﹁何事も久しく馴来りたる事は︑少々あしき所ありても世人の 安んずるもの也﹂の

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にあるのであるから改めないことが肝要だとする︒践に不思騒な尭盟のあり方である

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の思惟を支える決定的な言葉は﹁これ即まことの置にかなへる子細あり﹂である︒保守即﹁まことの道﹂といエ且長の鈴 理の展開は実に決定的であり一貫しているのである︒では﹁まことの遭﹂とは何か︑それは上古に酷いて王皇が﹁ただ王

町大御神の大御心として︑万事神代に定まれる跡のま︑に行はせ給ひ﹂﹁御自分の御かしこだての御料簡をぱ悶ひたまはさ

りし﹂行いかたであった︒

かくして︑宜長において﹁ハカナクアタナクンドケナイ﹂ものとして毘融された人聞の本性は︑又︑その本性の故に野

放しにすれば宜長が﹃玉くしげ﹄あるいは﹃笹本玉︿しげ﹂に於いて指摘した如く︑その欲望にまかせて無阻に拡散して

しまうものであった

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から︑宣長はその無秩序を防く為に︑現実的世界を超鐘した絶対的世界を想定したのである︒そ れは︑王照大御神を頂点に置く垂直型の秩序であった︒

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厚く世まうかといえば︑それは﹁王町大御神の御はからひ﹂によって﹁朝廷の御桂によりて﹂﹁東照神御祖命より御つぎ

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︑ 大将軍家の天下の御政をぱ敷行はせ給ふ﹂からであり︑ぞれ散に﹁国も民も私﹂のものではないという理由にあ

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以上の舶き宣長の思惟には︑弱者としての面々の不安定な存在の生活の保証は︑この絶対的秩序が全き整序を保つこと

に於いてのみ可能だという芭織がある︒ここには﹁ハカナクツタナキ﹂人聞にとっては生活の場町確保こそまず不可欠で あるとする︑現実的感覚に親敏な非権力者でありつつも︑なお富裕者である町人としての器勢が現われると早うので

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かくして︑ここに室長学の﹁私なる﹂ものの拒吾のありょうの意味が明白になったであろう︒即ち︑宜長の﹁私﹂童践の

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