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       〆1≡ヨ!1969抑イス三山領地

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称が用いられるようになった。つまり、独立に当たってイスラエルとい う名称を用いたのは、族祖発祥の根源まで逆上った最も古い名称だった からである。

 これに対し、「ユダヤ」という名称は、ずっと後のバビロン補囚後の 前538年てこの地に帰国したユダ族の名称に由来し、  ユダの人々 の 意味でユダヤと呼ばれるようにならたもの(1)であり、イスラエルと比 べると、はるかに新しい名称なのである。今は我々がユダヤ教と呼んで いる一神教も、さちに古い時代にその原型が形成されていたものである。

ユダ族はヤコブの第4子の名を起源とし、語源的にはヘブライ語のイブ ダーゴhuda 賛美 の意味に由来するもの(3.)といわれている。ユダ族 は捕囚からの帰郷後、イスラエル人(12支族)の中でも最も有力な部族 となったことから、これ以降は部族名として、イスラエルに変わりユダ ヤの名称が多用されるようになった。そしてこの民の信仰する宗教も、

ユダヤ教と呼ばれるようになったのである。

 このような理由から今世紀に建国された国名は、「ユダヤ国」ではな く「イスラエル国」でなければならなかったのである。ユダヤという名 称はあくまでもイスラエルの中の一名称にすぎないのである。

2、リベリア(穀物海岸)

 リベリア(現地ではうイベリア)は、独立以前からこの名称を使用し ていたので、厳密にはこの項「独立時における国名変更」の条件から外 れるが、穀物海岸という地:域名称からの独立という点や、植民地ではな

く、組織「アメリカ植民協会」からの独立国家形成という珍しいケース でもあり、全く的外れとも言いがたい一面も含んでいるので、政治的意

図による国家形成の要素が極めて大きいこともあり、この項で扱う対象 に選んだ。

 この地域の海岸沿いは、古くはヨーロッパ人からは「胡椒海岸Pepper Coast」という名称で呼ばれた。最も高価な商品作物の胡椒(実際は胡 椒に似た香辛料の種子でマラゲッタ胡椒である)が取引されたからであ る。その後胡椒は 楽園の穀物 と呼ばれたことから、いつしか「穀物 海岸Grain Coast」とも呼ばれるようになった(1)。

 17〜8世紀を最盛期として、ギニア湾からも多くの黒人が奴隷として南 北アメリカ大陸に送られたが、アメリカの黒人奴隷の中には、逃亡して 自由の身となった者や、白人から解放された者がおり、さらに一部の心 ある白人の中には、非人道的な奴隷制度を非難し、これらの黒人を元の 古里にあたるアフリカに移住させようという運動が起こり、アメリカ植 民地協会が組織された。1816年のことである。植民地協会は、穀物海岸 の一部に土地を購入し、1819年にはモンロー大統領によって、アフリカ に開拓地設定の宣言が行われ、翌年には早速88人の解放奴隷が、3人の白 人に率いられて、初めてメスラド岬(現在のモンロビア市)に到着した。

正規の植民が始まったのは1822年からである。この新天地は、1824年に ガーリー神父によって「リベリアLiberia」と名付けられた。リベリア とは米国の建国精神であるLiberty 自由 に因み、ラテン語のりベルRi ber 自由な と、 地域 を意味する地名接尾語イアiaを付け加えたも ので 自由な地域(国) というこの地域の目標にぴったりの理想的名 称であった(1)。そして入植が増加することに、新しい土地が購入され、

1836年にはバラバラであった各地が統合された。1847年、移住者たちは 独立を宣言し、バージニア出身の混血人ロバーツが初代大統領となり、

憲法は米国のものをモデルに起草され、三権分立をうたい、大統領制を

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とる共和制の民主的理想国家となったのである。また首都は、1922年の 開拓時に建設され、当初は「クリストポリスChristpolis」  キリスト の都市 と呼ばれていたのだがk 1824年にアフリカ植民に協力した米国 の大統領ジェームズ・モンローに因んで「モンロビアMonrovia」と改名

されたH)。

 アフリカにおける黒人国家中、最古の独立国家であり、アフリカ最古 の共和国であり、アフリカ全体でもエチオピアに次ぐ独立国家であり、

世界的にみても黒人国家としては、ハイチに次ぐ独立国家であるという 輝かしい経歴を持った国家として誕生したのであった。

 またこれとは別に、1833年からパルマス岬(現在のりベリア東南端地 域)付近に、「メリーランド独立アフリカ国」という名称の植民(入植 地)地も同様な目的で造られていたが、この地域は1857年にリベiJアが 話し合いで吸収併合し、この地域の精神をも引き継いだ形をとった。

 このrkうなことから、この国の最大の特徴は、米国帰りの黒人による

「国家創造」であった。

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リベリア

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1875年

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リベリア 1847年共和国 として独立

2Poo)」),L

1914年

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図1−18、蚕食されたアフリカ

 「政治地理」第3集 P150、日本政治地理学会古今書院 1968より

 しかし同じように無から「国家創造」を成し遂げたイスラエルとの違 いをみると、住民自身の強い熱意と行動によって、国家形成が達成され たというより、それは支配者であった白人の黒人返還思想と、一部の人 々の同情と援助により、殆ど全てお膳立てがなされて形成されたもので あった。リベリアには、南北戦争までに25000人血の黒人が送り込まれた といわれている。しかし米国における奴隷解放後は、リベリアへの移住 は殆ど止まり、1990年におけるリベリア総人口260万人のうち、アメリコ・

ライベリアン(アメリカ系黒人の子孫)は僅か5%程度を占めるにすぎず、

しかもその少ない住民のほとんどは、首都モンロビアに集中して居住し ている。これがこの国の特徴の一つであった。もう一つの特徴は、同じ 黒人でありながらアメリカ帰りの文明人というような自尊心が強く、先 住部族を劣等愉し、なかなか融合しなかった点であった。その上、その 後の米国からの移民も少なくなったことから、もはや現在では、移民に よる国家とは言い切れない性格のものとなってしまっている。つまり全 人口の95%は先住民族であり、これは、あの南アフリカ共和国(全人口 のたった14%しか占めない白人が国を支配し、アパルトヘイトを行った と非難された)の白人人口と比べても、その半分にも満たない比率なの である。

 同じく国家建設を達成したイスラエルの場合は、パレスチナ人を無理 やり追い出してまでも国家造りに励み、移民も多く、人口も増加し、全 人口の83%はユダヤ人によって占められるまでになっているが、リベリ アのアメリコ・ライベリアンは、単なる支配的特権を維持するだけで、

イスラエルのように国土開発(国造り)のため、各地に入植して国造り に励むという精神が、当初からまるでなかったのである。

 入槙から建国までの国名を含む歴史過程が、世界の各国の建国とは、

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あまりにも大きく違っていたため、極めて印象的となり、忘れ難いもの となったが、それが後の行動にまで影響し、当時の特権を盾に、あくま でも政権にしがみつき、しかも外国資本との結び付きも加わり、人口の 大部分を占める先住部族民を、まるで植民地の住民のように扱い、それ が元で国内対立となり、1980年にはアメリコ・ライベリアン系の閣僚一 掃というクーデターまで発生して、とうとう政権から追い出されてしまっ た。そしてこのクーデターが引き金となり、現在は三つ巴の内戦に突入

して、解決の見通しなど全く立たない状態に陥っている。すなわちリベ リアという理想的国名が、国造りには結果的に災いとなったといえる。

本来なら、ブラックアフリカ独立国のモデルとなる立場であるといって もよい歴史を持った国家だが、現在の状況では、その精神は過去の独立 物語となってしまった。独立当時のアメリカ系黒人の描いた夢や、国家 建設に努力してくれた米国白人の熱意に対して、現状をどう説明しよう

とも、顔向けのできない国家になつりさがってしまっている。

 「国家創造」を行った両国とも、今まさに国内民族問題に苦しんでい る。イスラエルはアラブ人(パレスチナ人)と生きるための戦いをして いるが、リベリアの場合は、同じ黒人内での単なる権力争いの域を出ず、

しかもその根源はアメリコ・ライベリアンの行動にあったといえる。

 またりベリアと同じ「穀物海岸」で、同じように黒人奴隷の入植地と なった「シエラレオネSierra Leone」(ポルトガル人がこの地に来たとき、

後背地の山に雷鳴が発生したことから「セラ・レオァSerra Lyoa」  ラ イオンの山 の意味と命名した(t>)との比較も交えてみると、ここはイ ギリスの奴隷廃止運動家グランビル・シャープが、1787年約400名の奴隷 を引き連れて移住し、「グランビルタウンGranvilltown」  グランビル の町 を建設したのが始まりとなった。町は先住民から焼き払われて、