• 検索結果がありません。

  響

    麟

≡ヨハネスペルグ段一一

  X−A・

h

ベイラ

ローレン h・

マルケス

      

南アフリカ鞠邦

\\\\、

 ケーノ5Lウン

◎銅鎖匡

[…ヨ南ア刀蘇蕪領

 図1−31、北ローデシア、南。・u一ヂン 一・

     二_Tア・1ナラ ン トit 自民;irUI

「世界政治地圏)干簗秀雄著 清和魯店 1939より

         一109一

 しかしムガベ首相は、白人抜きでは経済政策は困難であることを熟知 し、闇雲に白人の入植地を没収する政策はとらなかった。むしろ白人も 含めたすべての国民は、平等な権利を有するという政治理念をとったた

め、それが逆に白人入植地の返還計画を予定より更に遅れさせ、また政 治的には1院制への移行したことへの反発も加わって、逆に現在では黒 人(特にンテベレ族中心に)の不満の方が噴出してきている。

 この忌め名称は「ローデシア」と「ジンバブエ」の2つの名称が基本 となっているが、何らかの事件や政変の度に少しずつ名称が変更され、

イギリス人が入植してから独立まで、すなわち「マタベレラン. h、マショ ナランド」といわれた時から数えて「ジンバブエ」まで8回も名称を変 更している。具体的に変更名称を上げると「マタベレランド、マショナ

ランド」→「ローデシア」→「南ローデシア」→「ローデシア・ニアサ ランド連邦」→「ローデシア」→「甲一デシア共和甲」→「ジンバブエ・

ローデシア」→「ジンバブア共和国」である。つまり政権交代との関係 がそのまま地名変更となって表れた典型的な国家なのである。

2.ザンビア(北ローデシア)

 ローデシアの説明で全体的な動きを述べたので、ザンビアについては 簡単に触れるにとどめる。この地に白人が来る前は、バンツー系諸族が

それぞれ王国をつくっていた。1889年セシル・ローズのイギリス南アブ リカ会社が、ここめ鉱山資源に目をつけ、抗争を発生させて支配下に入 れ、南部(現在のジンバブエ)と一体化させ「ローデシア」として支配 するようになった。・目的は鉱山資源の獲得のみであった。・しかしローズ のイギリス「南アフリカ会社」は採算が合わず、統治権を放棄してから

イギリスに支配権が移り、正式に「北ローデシア」という名称が用いら れるようになった。1910年頃から考えられていた連邦構想が、1953年に なってイギリス領中央アフリカ3植民地統一の動きとなって本格化し、

「ローデシア・ニアサランド連邦」として植民地のまま統一された。実 権は南ローデシアの白人が握ったため、北ローデシアとニアサランドの 先住民1ま、この統合により、元の保護領時代に認められていた権利を、

植民地内の白人に奪われ、先住民の土地が取り上げられるのではないか という心配から、終始連邦案には反対であった。本来、連邦の主目的は、

「南アフリカ連邦」からの政治的経済的支配からの自立にあり、そのた めには英領中央アフリカの3植民地を統合し、農鉱資源の総合依存と、

労働力の確保を図るのを狙いとしていたのであった。

 結局、イギリス系白人の少ない北ローデシアと三アサランドは、白人 支配の不安が拭い切れず、それが分離運動や民族運動に発展し、その結 果、1963年連邦が解体され、翌年「ザンビア共和国」として独立したの である。南ローデシアより早く独立が達成されたのは、少数白人が政権 を握っているのではなく、黒人が多数派となって政権の座についたこと がスムーズに独立できた最大の理由となった。

 国名は典型的植民地名称であり、個人名を用いた「ローデシア」を捨 て、植民地や個人の影響力に関係のない名称を考え、さらに地域性を考 慮して「ザンビア」という名称を選んだ。「ザンビアZambia」は凹ザン ベジZambeji川の国 という意味である。ザンベジは、バンツー語のアン ベイAmbeiの変形で 大河 を意味する〔1)。河川名にラテン語の国を表 すイアiaを付け現地語をヨーロッパ的表現にした名称といえる。アフリ カや世界に向かって誇れ、しかも最も知名度の高いアフリカ有数の大河 を、国名に選んだものであった。ザンベジ川は、世界的観光地ビクトリ

一一@111一

ア滝も含み、国家開発の運命をかけた生命線ともなっている大河川なの

である。

3、マラウイ(ニアサランド)

 この地域は他の2地域に比べ、ジンバブエの4分の1、ザンビアの8分 の1程の面積程だが、植民地時代の人口は、表2−1の如く最も多く、人口 密度もアフリカ有数の高い地域であった。この地に1700年以降、アラブ 人が奴隷を求あて入植し、続いて・ポルトガル人が探検に入り、その後1859 年忌、イギリス人探検家リビングストンがマラウイ湖までたどり着いた。

後ここにリビングストンの要請で宣教師が入植して、伝道、教育、保健 の面で活躍し、それを理由にイギリスは支配権を主張し、ポルトガルも イギリスに支配権を譲って、1891年にイギリスの保護領が確定し、「ニ アサランド」と呼ばれるようになった。ニアサNyasaはバンツー語で 湖 を意味し、これに 地方 を表す英語のランドLandをつけ植民地名

としたのである(D。また1893年から1907年までの一時期「英領中央ア フリカ」と改名させられた。おそらく英領東アフリカ、英領南アフリカ、

英領西アフリカなどの名称と対比させ、英国植民地であることを明確に 内外に表明するのが最大の目的であったものと思われる。しかし支配形 態も安定すると、元の呼び慣れた名称に戻しニアサランドに戻した。

 この地は他の2地域より、はるかに白人の数が少なく、僅か5600人ほ どで0.2%にすぎなく、農業中心の植民地であった。しかし人口だけは 最大であったため、これに目をつけた南ローデシアのイギリス人は3地 域の統一を目指し、本国に働きかけ、「ローデシア・ニアサランド連邦」

を形成した。この連邦はニアサランドにとっては、単に鉱山労働者とし

て使用されるのみであった。例えば連邦内の議会の議席数を比較しても、

南ローデシアは17議席、北ローデシアが11議席であるのに対し、人口の 最も多いニアサランドは7議席でしがなかった。そしてこの7議席の内、

白人が5議席で、先住民は僅か2議席のみであった。議会の中では全く 意見が通らず、しかも責任のみが付きまとった。さらに当時南ローデシ アでは、最良の土地の50%は白人専用地となって支配されていたが、ニ アサランドの87%は、まだアフリカ人の手に残り、この土地が南ローデ シアのように白人に取られるのではないかという不安が絶えず付きまと い、1859年には暴動を起こし、さらに分離独立運動となって発展し、1963 年にはとうとう連邦離脱をイギリスに承認させ、翌年イギリス連邦内で の独立を達成し、国名を「マラウイ」と改名したのであった。

表1。4、中央アフリカ連邦の面積と人口

 「西南アジア・アフリカ総覧」 P755、国際日本協会より(1955 .6 ・£苞)

国名 面積(万煽 ヨーOッパ人1アフリカ人 人ロ合計 南ローデシア 39.1 166000   2220000 2398700 北ローデシア 75.3 62DDO   2060000 212830D ニアサランド 11.8 5600   2530000 2544600 連邦 126.2 233600   6810000 7070000

 「マラウイMalawijとは15〜6世紀頃この地方におこり、17世紀頃最 も栄えていたバンツー系の「マラビMalavi王国」の名に由来する。マラ ビとはニンジャン語で 炎 を意味田し、湖から立ち込める詣からとっ た名称であるといわれている,,植民地時代の名称を払拭すると共に、他 の2地域からの離別も含めて、古代の名誉ある名称を借用して、国名と

したものである。

 「北ローデシア」は大自然の名称を国名に選び、「南ローデシア」は

一一@l13 一

大文化遺跡を国名に選び、「ニアサランド」は栄光の三王国名を国名に

選んだ。

V皿、独立時における改名の特色

 独立時における名称変更も、政治的背景では独立国家の国名改名とほ ぼ同じようなことがいえた。当然植民地時代の名称は、支配国家の都合 のよい名称である場合が多く、独立に当たっては、これを払拭すること

も、必要な政治行動の一つであった。しかしその中でも、植民地時代の 何を払拭し、どんな目標で国造りを始めるのか、それによって改名する 名称も変わってくる。ここでは独立するに当たって、国家の中で最重要 であった事柄を中心に、改名の条件をまとめてみる。

 全く新しい地域に移住し、国造りを始めたのが、イスラエルとリベリ アであった。ユダヤ人は、歴史的痕跡のあるパレスチナに来て、その合 理性を立証するかのように、民族の根源まで逆上れるイスラエルという 名称を国名に選んだ。確かにユダヤ人の希望通り国家は建設されたが、

それはアラブ人の難民、アラブ諸国との対立を生み、国連をはじめ、世 界に大きな問題を残しての国家建設であった。リベリアの場合は、アメ

リカ社会での黒人解放奴隷や、その他の条件で自由の身となった黒人に、

同情の意味も込めて、白人が中心となって、穀物海岸と呼ばれた地域を 買い取り、国造りを始めたものであった。国名もその歴史的背景が示す ごとく、リベリアと命名された。すべてお膳立てをしてもらっての建国 であったため、結局国造りに励む意欲も十分沸かないままに独立し、ア メリカ帰りのプライドと、権利主張が優先し、先住の黒人を劣等視し、

協調できないまま現在に至っている。