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み出そうとしたのである。文化的には共通性は見当たらないが、幸いな ことに、自然的には唯一共通性があった。それは国土の大部分がザイー ル(コンゴ)川流域にあるということであった。

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    1964反乱勢力     の最大範囲

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エリザベートビル(女王エリザベスの名から(D)をルブンバシ(キバン バ語で 陶土用の粘土のとれる土地 の意味(5))などに改名し、さらに 地方を21州から8州に統合すると共に、例えば州民もカタンガ(先住民

の言葉で 壁 の意味(3))州をシャバ(スワヒリ語で 銅 の意味q6))

州にと、都市名同様に改名している。さらに1971年には、ヨーロッパ名 を持つ街路や公共場所に至る地名まで改名する声明を出し、大統領個人 名自体も、ジョセブ・モブツというヨーロッパ名からモブツ・セセ・セ コと現地名に改名した。またアルバート(英国アルバート侯の名)湖は モブツ・出歯・セコ(大統領の名)湖と自然名称の一部も改名している。

そしてこれら一連の改革の最後の総まとめとして行ったのが、唯一の共 通性をフルに活用した1971年の国名変更を含む「ザイール化」だったの である。すなわち「ザイール」という名称によって国内を包み込み、政 治、文化》経済、社会など全てにわたる「大文化革命」を行い、外国勢 力の排除と部族中心的考えや、部族間の対立の払拭を行おうとしたので

ある。

 「ザイールZaire」は、バンツー語のヌザディNzadiまtgはザディZade i を語源とし、単に 川   大河 を意味し、中流から上流にかけての部 族の普通名詞であった{1)e国名の変更や決定においては、国家の最高 権力者の意見も大きく左右する要素の一つであり、モブツ大統領自身は、

赤道州リサラの出身なので、地名的にはこの辺りの河川名と一致する。

ただモブツ大統領自身は、部族中心主義を払拭するため努力していたこ とから、出身部族の名称を優先したというより、あくまでもナショナリ ズムの形成がその狙いだったことを付け加えておかねばならない。

 この新たなシンボル的名称は、国名や河川名だけにとどまらず、通貨 単位(ザイール)にも用いられた。他に「ザイール」という名称につい

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ては、いずれも準国営の独占企業であるが、航空会社には「エールザイ ール」、たばこ会社が「タバザイール」で、そのタバコ名が「ザイール」

、石油会社が「ペトロザイール」であり、さらに街角で売られているニュ ース雑誌も「ザイール」という名がつけられているものがある(18)。政 府はこの「ザイール」という名称をさらに増加させ、多種多様な部族を

「ザイール」という名称の中に包み込むことで、外国勢力の影響を全て 排除し、「脱植民地、脱部族主義、そして国内統一」を創り出そうとし たのであるσ

 しかしこの一連の政策は、その後充分効果を上げないうちに政策の変 更をせまられたが、多様性の統一、文化革命という点では、その努力の 痕跡が明確に残されたといえる。このような国内問題はザイールだけの 特殊事情とは言えず、すぐ後に同じような問題でナイジ.エリアが内戦と

なったように、多くのアフリカ諸国に当てはまることなあであり、世界 の各国にみられる主要政治課題の一つといえるのである。

3、アルゼンチン(ラプラタ)

 スペインの探検家ディアスは、1516年に広い入り江を発見し、それが 海ではなく河川であることを知り、「マル・ダルチx Mar Dulce」  淡

水の海 フ;意味と名付けた(9)が、1526年、同じ入り江にセバスチャン・

ガボットが着き、先住民の身につけている銀の装飾品から、上流には銀 が産出するのではないかと思い、この大河を「リオ・デ・ラ・プラタLio

de la plata) 銀の川 の意味と名付けたといわれている(1)。この名 称から同河川一帯は、ラ・プラタ地方と呼ばれるようになった。そして 1573年までには、領土は完全にスペインの支配するところζなり、ラ・

プラタ副王領がおかれた。1810年に本国スペインが、ナポレオンの占領 下におかれたとき、この植民地にもフランスの手がのび、これを排除し たクリオーリョ(植民地生まれの白人)が、今度はこの機会に乗じてス ペインからの独立運動をおこし、副王を退位させて独立を宣言した。ラ・

プラタ地方以外でも独立戦争が続けられ、スペインの支配を脱した各地 方は、1816年7月9日にツクマン市に代表者が集まり、「リオ・デ・ラ・

プラタ合衆国」という新国名を採択して、正式に独立国家となったので

ある。

 スペインからの独立は達成したものの、中央集権的国家体制樹立を志 向するブエノスアイレス(ラ・プラタ地方を含む)と、連邦制国家を志 向する他地域との意見の相違から、政治システムは決まらず、対立となっ て無秩序な時代が続いたが、ブエノスアイレスがラプラタ地方から分離 することで、各地方が納得し、1826年中央集権的方針に一応決着して、

国土全体に及ぶ新憲法が制定された。これを記念して国名も「アルヘン チーナArgentina」共和国に改名された。改名理由として、第一にブエ

ノスアイレス(ラプラタ地方)の主張が一応通ったこと。第二に国内の 諸地域に配慮し、同名の国名を変更することで、感情的にもラプラタ地 方の優越感を取り除くのに役立つこと。第三に植民地時代のイメージか ら脱皮できること。第四に憲法制定した新国家の門出に相応しいこと。

第五に以前の名称rリオ・デ・ラ・プラタ」合衆国の意味を引き継いで いることなどがあり、考慮の末政治的配慮から改名したものである。

 なお「アルヘンチーナArgentina」とは 銀 を意味するラテン名ア ルゼンタムArgentumを語源とするが、これから、スペイン語でも 銀の

(国) という意味になる。さらにこの名のアルゲントargento 銀 はプラタPlataの学術用語でもあることから、この名称が採択された(D。

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このアルヘンチーナArgentinaを英語読みし、さらにそれを日本語読み してアルゼンチンとい.う。

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