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称であったこと、それに何よりもスロベニアから起こった名称であり.、

セルビア中心の国家というイメージを除くことができることなどが大き な要因であった。

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図1−9、ユーゴスラビアの民族構成図

「政治地理」 木内信藪著P!68、

朝愈欝店 1968より

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何事も起こらなかったが、チトー後の集団体制下ではこれに十分対処で きず、更に東欧における社会主義政権の崩壊という事態の波及仁至って、

経済問題までがこれにからみ、国家維持という最低限の事さえできなく なり、近年の共和国分立と紛争となって表れたのである。

 なお、その他の共和国を構成する名称について簡単に触れておくが、

「マケドニアMacedonija」の語源については、ギリシア神話のマケドー ンの名称に由来するという説(7)や古代ギリシア語で 長身の人 に由 来するという説q)などがある。マケドニアも1991年9月、スロベニアや クロアチアの独立に伴ってユーゴスラビアからの独立を宣言したが、こ の国名に対し、現在ギリシアがクレームをつけ、古代に栄えた由緒ある ギリシアの「マケドニア」王国の名称を、スラブの一国家が使用するの は許しがたいと強く抗議したため、特にEU(EC)内では足並みが乱 れ、国家認証が遅れている状態となっている。ただ、これは表向きで、

本心は、ギリシア、ブルガリアの3国にまたがる地域が、古くから「マ ケドニア」と呼ばれ、この地域を含む「大マケドニア」の独立運動となっ て、国際紛争や内乱に発展することを恐れての警告的な抗議であると考 えられる。

 また「モンテネグロ」はラテン語のモンテmonte 山 にネグロnegro 黒い を合わせたもので 黒い山 の意味である(1)。ただ正式名称 は現地語では「ツルナ・ゴーラCrna Gora」というが、これも 黒い山

を意味するqω。うっそうと繁る森林地帯が地名となった。住民はア ルバニア人が大部分を占めており、将来はアルバニア共和国との問題が 噴出しないとも限らない。モンテネグロは、セルビアとの関係を緊密に

し、現在も両国で「新ユーゴスラビア連邦共和国」を形成している。

 共和国の中でただ1つ住民名称を共和国名称としなかった「ボスニア

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=ヘルツェゴビナ」も独立を宣言したが、1994年現在、内戦の真っ只中 にある。北部の「ボスニアBosnia」は、ここを流れるボスナ 澄んだ と いう意味の河川名に由来し、 ボスナ川の地域 という意味から命名さ れたもの(3)であり、南部の「ヘルツェゴビナHerzegovina」は 公爵領

を意味する名称で、1448年ビザンチンの支配から脱したスーパン・ブ グチチが、自ら公爵(ヘルツェグ)と名乗ったことに由来する名称であ る(1)。この双方の名称を合わせ、ボスニア・ヘルツェゴビナという。

ここだけは住民構成がイスラム教徒のムスリム人、セルビア正教徒のセ ルビア人、カトリック教徒のクロアチア人の3民族の割合が、ほぼ3分 の1つっ混住しているため、民族名称を用いることはできなかった。こ の民族構成が災いし、その住民支配権を巡り、解決の見通しの立たない まま、内戦状態が続いている。

2、マレーシア(マラヤ)

 マレーシアの場合は他の植民地とは異なり、分散的植民地が再編成さ れ、集合的な形で独立したという経歴をもっている。特にイギリスの植 民地は できるだけ分散して支配せよ というのが原則であったことか

ら考えても、特異なケースの一つであった。

 ここは、イギリスが18世紀以降インドを経て中国に至る中継地として 支配下においた地域であった。第二次大戦終結時のイギリスの支配状況 をあげると次のようであった。

a、三つの海峡直轄植民地(シンガポール、ペナン、マラッカ)。

b、マレー半島部の九つの保護領(州)のうち、四つはマレー連合州(ペ ラ、セランゴー、ヌグリスンビラン、パハン)、五つはマレー非連合州

(ケダー、プルリス、クランタン、トレンガヌ、ジョホール)。

c、英領北ボルネオ(サバ、サラワク)。

d、英保護領ブルネイ。

このように支配形態は大きく見ても4種類から成り、極めて複雑であっ た。この事は、東南アジアの諸島部とその付近は、極めて多様性に富み、

まとまりに欠ける地域といえ、統治にあたっては、逆に統一性を必要と する地域であった。そのため英国は、マラヤ連合構想を立て、貿易上重 要なシンガポールを除く海峡植民地と半島部9州を、イギリス人総督の 下に単一の植民地として統合することに方向転換させ、同時に住民には

これまでの出生地主義(マレー人優先)から、部族を問わず住民に平等 な権利を与える考え方に変更した。しかしこれには中心部族のマレー人 が強力に反対したため、結局マレー人の特権を認める内容の連邦協定を 結んだ。このことが、後には華人(華僑)を中心としたゲリラ戦などの 内紛となって表れることになったが、1957年8月31日に、華人の多いシン ガポールを除く海峡植民地と半島部9州は、「マラヤ連邦」という名称 でなんとかまとまり、イギリス連邦内の独立国として誕生したのである。

つまり、併合に最大のネックとなったのは政治形態や宗主国の利害では なく、部族(人) の数の問題であり、マレー人が植民地の中で優位に立 てるかどうかということであった。国名にマラヤの名称を選んだのも、

マレー人の優位だけは譲れないという表れからであった。.

 「マラヤMalaya」とは、サンスクリット語で 山 を意味するといわ れている。起こりは、スマトラ島に移住してきたインド人が、スマトラ 島に古くから住んでいた山間部族に対して呼んだ名称であった。その後、

スマトラの山間部族が海を渡り、対岸の半島(現在のマレー半島)に移 住したため、その住民の住む地域も、マラヤと呼ぶようになったものと

一45一

いわれている(D。

 本来、マラヤ連邦はシンガポール(人口の大部分は華人)を含めた国 家となることが理想であったが、シンガポールを加えると、人口的に華 人がマレー人を上回り、マレー人が少数派に転落するという理由のため、

加えなかったのである。これだけではなく、シンガポールには、当時左 翼化の動きが著しく、他地域まで影響を与えかねないということも、大 きな理由であった。しかしこのまま放置すれば、シンガポールは間違い なく共産主義化し、マラヤにも飛び面するとの訴え(シンガポール側か ら)もあり、時の首相ラーマンは、シンガポールを直接支配下に置くほ うが共産化阻止に対応しやすいと思い、吸収合併に考えを変えるように なった。ただマ・レー人が少数派に転落するという基本的大問題に対して は、マレー人の多い英領ボルネオ三地域(サラワク、サバ、ブルネイ)

を吸収合併することで解消できるし、併せてこれら英領植民地全域の早 期独立をも達成できるという一石二鳥の思惑も絡み、1961年、マラヤ連 邦にシンガポール英自治領、英領のサラワク、サバ、英保護領ブルネイ を加え、「マレーシア」として統合する提案をおこなった。この結果、

サルタンや人民党の反対があった「ブルネイ」を除く各地域が賛成し、

1963年9月16日、独立連邦国「マレーシア」が成立したのであった。

 新国名は最も数の多いマレー人の名称を残し、これにラテン語のイア ia 国 の意味を付け加えて造語したもので、国家形成過程から考えて、

マレー系の人々の国 という意味になる(1)。部族(人)名にヨーロッ パ的語尾をミックスさせた名称であった。

 地名が示すように、新国家の政策でもマレー人優先政策は変わらず、

シンガポールは連邦議会の議席数や財政負担においても、不利な条件を 突き付けられ、抗議したが聞き入れられず、その反動で僅か2年後に連

邦に見切りをつけ、分離独立してしまった。原因は民族の平等主義的行 動や協調性の精神に欠けていたからである。

 なお「シンガポールSingapore」の語源は、サンスクリット語のシン ガプラSinghapuraで ライオンの町 を意味する(D。1025年にシュリ

ビジャや朝のラージェーンドラ・デーバ1世が支配者の力を代弁するた めに名付けたものといわれている。

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英領北ボルネオ

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図1−11、東南アジアにおける      英国植民地の種類

(著者作成)

3、タンザニア(タンガニーカとザ

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 「タンガニーカ」は、1884年以来ドイツの支配下に入り、「ドイツ領 東アフリカ」と呼ばれ、第一次大戦以後(委任統治領)と第二次大戦後

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(信託統治領)はともに英国の支配下に置かれ、この時からタンガニー カという名称で呼ばれた。「タンガニーカTanganyka」とは湖の名称か

ら取ったものである。この湖の名は、土語のタンガニヤtangnya 集まる とヌイカnyika(ヌサヤnsayaと同じ) 湖 からなる合成地名で 水 の合流(集まる)する所 というような意味であろうという説(3)。土 語のトンガtonga 湖 とヒーカhika 平野 の合成地名で、 平野のよ

うな湖 という意味ではないかという説(7)、他数種類の説があって明 確にはなっていない。

 19世紀にはオマーンのスルタンが支配し、1890年からはイギリスの保 護領となった「ザンジバル」には、バンツー系黒人の他に、移住して来 たアラブ人などが住み、古くから東アフリカの貿易の中心地域であった。

「ザンジバル」の名称のおこりは、少なくとも10世紀まで逆上ることが できるが、これはアラブ語が語源で 黒い土地(海岸地域) という意 味であり、ザンジZanji 黒 とバルbarr 土地(海岸地域) の合成語

といわれている(1)。スワ「 qリ語(バンツー系黒人)では、市域をウング やUnguja 住民密集地域 の意味(3)と呼んでいる。

 元来この両地域は海岸地域を中心として、欧州列強の植民地になる前 は、同一支配圏の地域であった。「タンガニーカ」は1961年信託統治領 からイギリス連邦内の自治国として独立し、翌年共和国となり、「ザン

ジバル」は1963年12月9日、英国保護領から立憲君主国として独立した。

しかし僅か1カ月後の1964年1月12日、ザンジバルにおいて、アフリカ系 住民によるクーデターが起き、スルタンの追放と共に、アラブ人の大量 虐殺がおこった。これはアラブ人の手から黒人の手に政権を取り戻し、

王国から入試共和国へ変更しN.さらに同年4月27日には、電撃的にタンガ ニーカと協定を結び、「タンガニーカ=ザンジバル連合共和国」として