• 検索結果がありません。

.一

VI、 首都名の活用

 首都名ないしは主要都市名を活用した国名は、世界にはかなり多く見 られるが、これを分析してみると、次のようになる。その国内にあって、

a,クウェート、アルジェリア、チュニジア、ルクセンブルク、グアテマ ラ、パナマ、メキシコのように人口数、経済力、政治的重要性、歴史過 程などで、その地域の主座都市が独立にあたって国名に活用されたもの。

b,モロッ・コ(マラケシ)や、ポル,トガル(オポルト)のように主座都市 ではないが、歴史的、政治的過程から国名に活用されたもの。c,ジブチ、

ベリーズのように、隣国の吸収併合等の動きにたいする政治問題を避け るため、都市名を活用して地域名(国名)を変更したものとに区分する ことができる。ここでは、c,について扱うが、参考までに逆の場合、す

一99一

なわち小国が大国との合併に積極的な場合は、セネガンビアやタンザニ アの様に、比較的すんなりと統一国家になる場合が多い。

■、ジブチ(アファールーイッサ)

 国名(地名)の命名は、一言で述べるなら、宗主国の植民地政策と燐 国間の紛争や内紛に連動して、その都度変更した名称といえる。

 古くはイギリスとフランスの紅海における覇権争いが原因となり、ス エズ運河の開削(1859・1869)開始と同時に、インド行路の中継地として

この地域が注目された。フランスは既にスエズ運河開削時(1859)に、ダ ジュラ湾北岸のオボク港の賃借権をダナキル族(アファール族はこの一 派)から獲得し、3年後にはここを買い取っでしまった。つまりフラン スは、アジアへの海外航路の重要拠点である紅海の両出入り口を確保し たのである。

 これに対し、やはりアジア航路の重要牲を把握していたイギリスは、

エジプトに影響力を持ち、もう一方の中継地をアデンに置いて両出入り 口を確保しようとした。そしてこの航路をフランスと同じように、どう しても押さえなければならない重要な地点と見ていたのである。そのフ ランスとは紅海を挟んだ対岸にあった。

 両国の動きとは別に、当時イタリアは紅海内陸の独立国エチオピアと 条約を結び、これを保護国にしょうとしたことから、エチオピアが猛反 発し、これを機にエチオピアはフランスに近づき、紅海からアジスアベ バに至る鉄道敷設の権利を与えたのである。

 フランスは通商活動の足掛かりとして、1881年に『フランス・エチオ ピア通商会社』をつくり、オボクに本社を設置してから、この地の重要

性が増して来たのである。この動きに対して、イギリスは自らは直接関 与せず、イタリアを対抗させて、この地域のフランス進出を押さえよう

と考えていた。

 フランスは、1888年に内陸支配にもっと便利なダジュラ湾南岸に着目 し、新港を築き、主都もここに移し、その地形的条件からここをアジス アベバへの鉄道の拠点に選んだのである。港の名は「ジブチ」と呼ばれ

た。

 フランスは、1896年目でにはダジュラ湾全域を植民地としていた。ジ ブチ港周辺を中心に、海岸沿いは主にソマリ系部族(イッサ族)の居住 地であった事から「フランス領ソマリ海岸C6te franCaise des Somalis」

と命名した(1)。ソマリという名称については、隣国ソマリア(現地では ソマリSomaliという)と同じで、部族名からとったものである。ここで その語源について記述してやくと、ソマリとはヌビア語のソマリSomal

黒 からでたのではないかという説(8)や、アムハラ語のゾマZomma 家畜をもつ人々 からでたのではないかという説(8)、などがあって明 確にはなっていない。ヌビア語のソマルは住民の皮膚の色から呼ばれる ようにな?た名称であるし、アムハラ語のゾマは遊牧民であることから 呼ばれるようになったもので、どちらも他部族から呼ばれた名称である。

内部から命名された名称の由来もあるらしいが、記述されていない。こ の2説は他説より有力と考えられる。

 この地域も、1960年の「アフリカの年」には、各国の独立に刺激され、

独立の動きを起こしたが、これには隣国ソマリアの「大ソマリア構想」

の影響が強く、吸収されそうな状況も考えられたことから、イッサ族中 心の独立運動に対し、人口の約半数を占めていたエチオピア系のアファ ール族が、バックにいる同族のエチオピアの野心と後押しも加わって、

一IOI一

独立には消極的態度をとり、フランスの海外県のままでいることを望ん だ。隣国の双方が、ともに事あらば併合しようという野心を抱いていた からである。この隣国の野心が、小国の独立を中止させたといえる。さ らに1967年の住民投票でも、同様の理由でフランス領のままでいること を選択してから、それまで植民地内の政治力は、イッサ族中心であった ものが、アファール族の発言権が増すようになった。そのため同年に植 民地名称もソマリ系イッサ族中心の名称「フランス領ソマリ海岸」から、

「アファール・イッサAfars et Issas」に改名したのである。名称は当 然 アファール族とイッサ族からなる地域 という意味である(D。こ の名称だと、ソマリ人中心の国ではないことを表明し、ソマリアの合併 願望(要求)を間接的にも拒否する事にもつながるからであった。さら にアファール族の名称が前につけられたということは、どちらかという と、その時点でアファール族の力のほうが優位に立ったことを示すもの

といえた。

瓠勢奮難馳

。隔.・

 ロノホテしゲ 傘 婆.・・