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独立時における国名変更

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第2節 独立時における国名変更

 鼠毛にあたって、まず始めに内外に対して行わなければならないのは、

新国名の表明である。どのような由来を持つ国名に変更したのかを検討 すると、.独立までの過程なり、国内事情なり、独立後の政策なりがある 程度は読み取れるし、国の進むべき方向も、ある程度推測できると言っ ても過言ではない。国名を命名するに当たって、独立前の植民地名称自 体が、現地名称を活用したものであったのか、宗主国に都合の良い名称 であったのかによって、事情もかなり異なってくる。たとえば「フィリ ピン」や「ローデシア」という名称などは、宗主国が領有権を宣言する ために勝手に命名した地名であるし、「エジプト」や「インド」などの 植民地名は、宗主国の歴史よりはるかに古い歴史をもった地名である。

それゆえ「エジプト」や「インド」などは、植民地以前も植民地中も独 立後も同じ名称が活用されている。

 この項ではたとえば「ゴールドコースト」や「ローデシア」など、宗 主国が支配しやすいよづに命名した植民地名を、独立時に現地語名に切

り替えた国名と、古くからの現地地名であっても、独立にあたり全く新 しい名称に変更した国名を主な考察の対象とする。独立時における名称 の変更は、それまでの支配権を払拭できるし、独立した実感も味わうこ とができる。さらにこれからの政治的自立を、国民や世界にアピールで きる大きな機会ともなる。このような時、どのような由来をもつ地名で あったものを、どのような由来の名称に改名し、どのような国造りを行 おうとしていたのか、その裏に潜むさまざまな政治的背景と、人々への 影響、その問題点などに注目しながら考察していきたいと思う。

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■s 国家:倉U造

 国家創造といえば、アメリカ合衆国やオーストラリアなどのように、

移民が入植して、本国から独立を達成し、新国家を形成していくパター ンは、新大陸を中心に多く見られた。また西インド諸島のハイチように、

奴隷としてアフリカから連れて来られ、労働者として住み着き、後にそ の地域が独立国家となったところも国家創造といえる。このような国家 形成の中で、独立時に国名を変更し、しかもその国家形成過程が特異な ケースであったイスラエルと、正確には独立時の名称変更に該当しない が、それに近いりベリアのケースについてみていくことにする。

■、イスラエル(パレスチナ)

 独立以前の植民地名は「パレスチナPalesutina」と呼ばれた。この名 称は前12世紀頃、地中海方面から侵入して来てこの地に定住し、一時期 イスラエル人(トブライ人)までも、その支配下に置いたペリ・シチPel−

ishti人に因んだもので ペリシチ人の土地 を意味した(1)。更にそれ 以前の名称は「カナンCanaan」といわれたが、この名称はイスラエルの 先祖が、この地に入植するまえから居住していたカナン人の名称に由来 するものである。世界的にはこの地域を、一般に「パレスチナ」という 名称で呼んでいるが、ユダヤ人は「カナンCanaan」( 紫 を意味し、染 料の産地であったことに由来(t3))と呼ぶ。

 聖書によると、前(20・18)世紀頃、民族の祖がカナン地方に入り、さ らに前17世紀頃になって、ヤコブ(イスラエル)の一族がエジプトに移 住し、後には奴隷にされたが、前13世紀頃、モーセに率いられてエジプ

トを脱出したと伝えられ、これ以降はカナンの地に居住し、独自の宗教 観や文化を形成したのだと伝えられている。前11世紀頃からは、ダビデ、

ソロモンなどによる最も繁栄した王政時代が続き、「エルサレムJerus−

ale皿」を支配下に置くとともに、首都として再建し、一神教を確立した。

前6世紀から補囚時代と属国時代が続き、前63年にはローマの支配下に 置かれ、135年ローマに最後の抵抗をしたが、エルサレムは寵落し、首 都エルサレムへのユダヤ人入居は禁じられ、「放浪の民」となって世界 各地に離散(それ以前から世界各地で商人などとして活躍)していった。

以後、今世紀イスラエル成立まで、一度もこの地で建国したことはなく、

「放浪の民」と呼ばれて世界各地に活動した。しかしその活躍の大きさ に比例して迫害も行われ、また人種的には混血してしまったにもかかわ

らず、大部分のユダヤ人は、宗教的や文化的には同族意識(民族性)を 失うことはなかった。

 19世紀後半、世界各地における迫害から、最終的に民族発祥地におけ る国家建設(祖国復帰運動=シオニズム)が叫ばれるようになり、英国 の植民地政策もこれに加担し、今世紀に入って世界各地からユダヤ人が 建国の目的で入植し始めるようになった。入植が行われる前の1882年の パレスチナに於けるユダヤ人の人口は、僅か24000人で、パレスチナの 人口の4%そこそこでしかなく、共に平和に暮らしていたのだが、これ が建国時(1948)には65万人に増加し、しかもその大部分はヨーロッパ からの移民で占められ、土地の支配権をはじめ、さまざまな問題で争い が生ずるようになった。そして1990年現在ではイスラエルの人口465.9 万人のうち、実に83%をユダヤ人が占めるまでに増加している。

一すなわちイスラエルの建国という行為は、客観的にはヨーロッパの強、

国が、世界各地のユダヤ人問題を、ユダヤ人の要求に答える形で、ここ・

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に押し付けたとみることができるし、ユダヤ人からみれば、血や財産と 引き換えに、無から領土(国土)を造り、移民によって国民を造り、聖書 から言語(国語)を造り、ユダヤ人であれば誰でも入国できる社会を造っ たといえる。すなわち「国家創造」であった。そしてこの一連の国造り が進めば進むほど、パレスチナ人の人権を無視し、難民を数多く作り出 していったのである。古代ローマ帝国によって放浪の民にさせられ、ユ ダヤ人が世界で迫害されたと同じことを、今はユダヤ人がパレスチナで、

パレスチナ人やアラブ人に対し行っているのである。アラブ人は、その 非人道的な行動を、国連を初め世界各地に訴え、第1次(1948)から第4 次(1973)にわたる中東戦争など実力行動でも対抗したが・失地回復はい まだにできないでいる。

 イスラエル国やユダヤ人は、この国に生命を賭け、もはやここしか安 住の地はないと考えている。理論的に矛盾しても、国際的非難をいくら 浴びても、どんな犠牲を払ってでも、国民と国家を守ることに全力を注 ぐと明言し、世にこれ以上大切で守るべきことは、他に何も存在しなY・

とも主張している。パレスチナ人やアラブ人の生活や権利が犠牲になっ てもである。ユダヤ人に言わせると、我々はほんの少しの土地を求めて、

アラブ人居住地域に割り込んだ。ユダヤ人にはここ以外に国土はないが、

それに比べ、アラブ人には、西アジアから北アフリカー帯にかけていく らでも土地があるではないかとも主張している。

 移民の国はアメリカ合衆国を始め、世界には数多く存在するが、この ように頑なで、同一宗教者が、同一の過去の栄光を夢見て、しかも旧王 国跡に国造りをしたのは、これまでに例がない。全く新しいタイプの国 家形成といえる。そしてこれは現在においてもぢお未解決の問題となっ て残されており、世界の難問の一つとなっている。

       〆1≡ヨ!1969抑イス三山領地

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