独立には消極的態度をとり、フランスの海外県のままでいることを望ん だ。隣国の双方が、ともに事あらば併合しようという野心を抱いていた からである。この隣国の野心が、小国の独立を中止させたといえる。さ らに1967年の住民投票でも、同様の理由でフランス領のままでいること を選択してから、それまで植民地内の政治力は、イッサ族中心であった ものが、アファール族の発言権が増すようになった。そのため同年に植 民地名称もソマリ系イッサ族中心の名称「フランス領ソマリ海岸」から、
「アファール・イッサAfars et Issas」に改名したのである。名称は当 然 アファール族とイッサ族からなる地域 という意味である(D。こ の名称だと、ソマリ人中心の国ではないことを表明し、ソマリアの合併 願望(要求)を間接的にも拒否する事にもつながるからであった。さら にアファール族の名称が前につけられたということは、どちらかという と、その時点でアファール族の力のほうが優位に立ったことを示すもの
といえた。
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住者が増大する中、再度独立を目指し、今度はイッサ族中心の独立運動 では、分裂や内線に発展する危険性があることを悟り『、両部族のそれぞ れの勢力が結成していた5政党が大同団結して連合政府を樹立すること を基本におき、両隣国の影響を排除する事を最重要事項としながら、独 立運動をすすめていった。フランスも隣国に吸収されるような事態に陥 るより、単独で独立させた方が何かと影響力を残せると考え、さらにア フリカ統一機構(OAU)など外部からの圧力もこれに加わった結果、
独立させたのであった。
独立に当たって、植民地名称を一己すると共に、大同団結の連立政府 を指向していたことから、両部族対立の原因となる要因はできるだけ避 け、しかも隣国の干渉を受けるような名称も避けねばならなかったこと から、首都名を国名に活用して「ジブチ共和国」としたのである。ジブ チ市は国内人口の約半数を占め、経済の大半を占める大都市であった。
ただジブチの人口の大半はイッサ族であり、部族のづランスの上に成り 立うている状況からみて、問題が全く無いとは言えなかった。
「ジブチDjibuti」という名称について述べると、定説1まなく、現段 階ではイッサ語で ダウ船の停泊地 という意味のdji et boutのアラ
ビア急なまりではないかという説がみられる(5)。これが正しいとすれ ば、この港に当時出入りしていた船は、ほとんどがアラブ人のダウ船(現 在も使用されている帆船)であったため、この名称になったのではない かと推測される。ただ、この都市に関する開発資料は、あまり残ってい ないため断定はしにくいが、フランスの政治経済的開発が目的であった ことから考えて、フランス語源に関係する言語である可能性も否定でき ないように思われる。
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2.ベリーズ(英領ホンジュラス)
次に簡単にベリーズについて触れておくと、改名の理由はジブチの場 合とほとんど同じであった。地名の由来について述べると、もともとこ の地はグアテマラに一部であったが、17世紀からスペインの影響力の少 ない地域に、イギリス人が定住し、1862年からはイギリスの支配下にあっ たジャマイカの属領に入れ、さらに1884年にはイギリスの直轄植民地に 変更し、名称も正式に英領ホンジュラスと命名した。この名称自体は、
コロンブスが第4回の航海でこの海岸に来たとき、海岸が深くて航行が 安全であったことから命名したものといわれている(D。西インド諸島
は一般にサンゴ礁が多くく航海時代は船の座礁に悩まされ、航海上の関 門といわれていた。「ホンジュラスHonduras」とはスペイン語のオンド ウラスHondurasを英語風に発音しただけで、 深み を意味する D。
をれが後に地域名として用いられるようになった。この地域名をグァテ マラとは別の領域であることを印象づけるため・イギリスが活用し#の である。
燃 漁煎識1●
t.E )C
グアテマラ
,ベリーズ
園・ヌエバェスパーニア野崎領・
幽グアテマラ繍領
チ
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ヌエバグラナダ副王領 瀞.
(著者作成)
図1−30・グアテマラ総督領と
現在のベリーズ領
ここは元はグアテマラ総督領であったことから、グアテマラが領土吸 収的考えを持っているが、独立時にこれを回避するため、首都名を活用
して「ベリーズBelize」と変更し、間接的に拒否の姿勢を表明したので あった。一般に英領植民地は、他の植民地より早く独立する傾向にある が、独立が遅れたのもこのためであった。現在も完全に問題は解決して おらず、、これが国境問題として表面化しているため、独立はしたものの、
米州機構への加盟はまだ認められていない状態が続いている。
国名の「ベリーズBelize」は、スペイン語バリザルBarrizal ぬかる み に由来し、この名称自体は、マヤ語の 泥水 の発音より出たもの とする説(8)。スペイン語のバリザBalizaに由来し 箋火 のろし という意味であるという説(9)などがあって、どれが正しいかは不明であ る。ただ古くから海上交通のため、ここに狼煙台が建設されたことは確 かである。
V[II、白人政権からの離脱
英国系白人支配の植民地が、さらに南のアフリカーンズ(ボーア)系 白人の政権「南アフリカ連邦」の支配下に入る不安から、「イギリス領 中央アフリカ連邦」構想が起こり、それが経済目的優先の「ローデシア・
ニアサランド連邦」となって実現した。しかしその複雑な政治経済的背 景から、北ローデシアやニアサランドでは、反対が根強く、連邦制は長 続きせず、結局単独でそれぞれが独立するようになった。この3っの牲 格の異なる植民地の独立名称を、その政治的経済的背景からみていく。
■、ジンバブエ(南ローデシア)
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この地にはショナ族が9世紀ごろから居住し、14世紀以降「モノモパタ 王国」を建て、ついでロズウェ族が「ロズウェ王国」を建てた。19世紀 頃には、ンデベレ族がこの地に侵入し、ロズウェ王国を滅ぼした。ンデ ベレ族の王は、1888年イギリスのセシル・ジョン・ローズCecil John Rhodesとの間に、鉱山採掘権の協定を結んだが、これが結果的にはイギ
リスの傘下に引き入れられることになったのである。ここは当時として は、アフリカに残された数少ない非植民地地域であった。ローズは、rイ ギリス南アフリカ会社』を起こし、ここを会社の統治下に置いたが、1896
〜7にかけて、ンテベレ族とショナ族が、この支配に対して共に反乱を起 こしたのである。これを鎮圧したのを機会に、北ローデシアを含めた不 明確な国境を確定すると共に、「マタベレランドMatabeleland」( ンテ ベレ族の居住地域 の意味(D)と呼ばれた南西部と、「マショナランド Mashonaland」( ショナ族の居住地域 の意味(D)と呼ばれた北東部 を併合し、さらにザンベジ川以北の現在のザンビアの領地も含めて支配 下に置き、ローズは自らの名に因み「ローデシアRhodesia」 ローズの 国(土地) と勝手に命名したのである(D。個人名の命名は、植民地にお ける地名の中でも最も典型的な支配名称で、個人の所有地を意味するも のである。南アフリカで、ダイヤモンドや金等の鉱山資源で巨万の富を 得ていたローズは、この地も同じように資源が産出されるものと考えて 支配下に置いた。そしてここに多額の投資をしてきたのだが、1922年に は経営の行き詰まりから、会社はこの地域の統治権を放棄したため・変 わってイギリスがこれを引き継ぐことになった。
イギリスは南アフリカへの併合を考えたが、既にこの地に入植してい た英国系白人が、ボーア系白人が権力を握る南アフリカへの併合に反対
したため、1923年には自治植民地とし、ローズのこれまでの功績に報い るため、この地を正式に「南ローデシア」と命名したのである。翌年に はザンベジ以北も「北ローデシア」と命名(Dし、直轄植民地とした。
南アフリカのアフリカーンズまたはボーア( オランダ語で 農夫 の意味(1))人とよばれる白人は、イギリスの支配がケープ州から内陸に 及ぶにしたがって、黒人と争いながら内陸へと移動していったが、この 行動に不安を抱いた南ローデシアの英国系白人は、これに対抗する政治 的手段として、更に北ローデシアの銅を中心とする鉱山資源や、ニアサ ランドの労働力確保という経済的要因にも着目して、イギリスに働きか けて、英国領の3地域を、植民地のまま「ローデシア・ニアサランド連 邦」として統一したのである。実際は南ローデシアの白人を中心に統一
(支配)され、目覚ましく経済発展はしたが、北ローデシアには土地の 支配権の問題がからんで、民族運動が活発となり、ニアサランドは単な
る労働力の供給地という不満と、やはり土地問題(耕作地)から、いち 早く白人支配に反対し、暴動を起こした。そのため、イギリス政府はも
との政治形態の方が合理的と判断し、結局11年後に連邦を解消させたの である。
この連邦分離に際し、また他のアフリカ諸国の独立や、翌年の北ロー デシア、ニアサランドの独立にも刺激され、少数の白人が中心(スミス 政権)となって、イギリスからの独立を要求した。、イギリスは交換条件
に少数白人支配政権から、多数派支配への漸次移行と人種差別撤廃を要 求したため、白人政権はこれを拒否し、1965年lI月、一方的に独立を宣 言したのである。国名は白人支配の政権を持続させる意思表示として、
植民地の代名詞的名称である「ローデシア」をそのまま国名とした。イ ギリスの非承認や経済制裁のも拘わらず、スミス政権は一層白人支配を
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