• 検索結果がありません。

政権交代のための国名変更

。馳           ミ 、

IV、 政権交代のための国名変更

このアルヘンチーナArgentinaを英語読みし、さらにそれを日本語読み してアルゼンチンとい.う。

キト畳t鋼

ヌエパ・グラナダ別三劉

    ●

gう 2    ぺ■ ズエラ嵩望a  q

チコ,一 湘「7, 11

8

7鋼   ll

@ l≦

閨・  ,ユ チ,ルカス

@  長7罰

「1   セシ,二 Q8 7¢7

1

ナ,尋7勘 8

う7う,ポユ,レ5 ・1

ン 8

チリ鷹望摘 う ラ?}、

「閣

C

@

胴・ヲ・ジ・川。

,ン 鞠症顎 〜ルデシーり.ユ

蚤悌こよる分n嬉

♪」

n桝騎

ω皇

37

o

   ト   9

グランリ

  !廿。r鴇繍.

 奉 ◎・ミ ベルー  ミ  1曜リ  ポリビ7、

  OS2S

蒼鍾ギアナ

■ラング笥ギア7  猛 nηア

プラ

沚ラ

:〈

       チ翔多       、1.1り響;

      1馴●旧

コ ヨエ のゆむね

…rt x .一 p7の薦鋭         t  Oits}

 国名の改名において、ヨーロッパの大国であるロシアが、「ソユーズ・

ソビエト・ソチアリスティチェスキー・レスプブリクSoyuz Sovotskikh Sotsialisticheskikh Respublik」 (ソビエト社会面i義共和国連邦)と.

改.心した時ほど、世界中に強烈なインパクトを与えたものはないであろ う。それとともに、これからの社会変化に対する期待感と不安感をも同 時に全世界に与えた。おそらくこれらを体験した世界の人々は、世界史 の大きな流れというものを肌で感じ取ったはずである。

 「ソビエトSoviet」という名称はロシア語で 会議 評議会 脇協 議会躍.を意味する普通名詞(1)であり、1905年労働者の代表からなる第 一ロシア革命の時に初めて用いられたものといわれている。その後1917 年2月革命においても、この名称で組織が結成され、労働者階級が政権

を取ると、そのまま国名として使用された。すなわちソビエトという名 称は「国名」を筆頭として、大きなものは「共和国名」、小さなものは

「市町村名」に至るまでの各種段階の名称に用いられ、全国には4万7千程 の組織名として活用された。この名称の意味するものは、これまでの皇 帝による専制君主政治を否定し、民族主義を否定し、宗教そのものを根 こそぎ否定し、労働者を中心とする平等主義を前面に押し出して、産業 の共有(国有)化による社会主義国家の建設を進めるということを宣言 したものであった。名称の語尾にOO社会主義共和国などと付け足して、

社会主義国家であると宣言するより、主要名称を取り替える方(ロシア

→ソビエトへ)が、はるかに大きな印象を与えることができるからであ る。国名としては、あまり例のない由来といえるが、そういう目的では 最も的確な国名表現であった。もっともそれまでロシアと呼んでいた名 称をすべて葬り去った訳ではなく、民族による各共和国名として残し、

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とか、ウクライナ・ソビエト社会

一31一

主義共和国とか、白ロシア・ソビエト社会主義共和国とか命名しながら、

社会主義化を表す名称にすり替えていった。

表1−1、地名からみたソ連の主な政治的動き(1991、12現在)

19且7、2  :二月革命

    iべト0グラード労働者、兵土代表ソビエト     i成r

  .10i+Pta

    :

    iソビエト政権樹立

IYI8、3 i首昼ペトログラードからモスクワに遷昼   、7 iロシア、ソビエト連邦社会主義共和国窓法     i制z

  sltiエストニア、ソビエト社会主義共和国成立

  .12i卦ピア 』・

    i白。シア     

1922」2=第1回全連邦ソビエF大会、「ソビエト社会     ;主義共和国遠邦」成立

腰24J iレーニン死夫、「ペトログラード」を「レニン     :グラード」に改名

童936b8 i第亘次モスクワ帯鋼(tt粛清開謎;)

1939、g i第2次世界大戦勃発

1040.6 iルーマニアがベッサラビア、北ブゴビナを     iソ漣に割譲

  、7  iラトビア.エストニア、リトアニアをソ漣に     i併合

鱒翻満 i独ソ引目姶

1952、IOi党名を「ソ連共産党」に改称 ltj53、3 =スターリン死目

1056、2 =20回党大会でフルシチlt 7がスターリン批  ..  =判

ltJ61 .10:22回党大会でフルシチetフが第2次スター     :リン批鍔

1964Jo i7ルシチitフ解任 19Sl.11:ブレジネフ死目

1 ti S4 . tt 三アンドロポプ死ジ…

1985、3 iチ、zルネンコ死夫     iコルバチilフ遇出

1986・6i「べVXト。イカ」「snt:転換

1987.lliゴルバチ即フ、革命70周年演説「スター     iリン時代の行二布、指令的指導方式の欠     :陥、政治弾圧に関する批判」を確認 1088.10 iエストニア「人昆戦線結成」.以後ラト     iビ7、リトアニアにも岡操の繕織が形成     iされ、民族運劫が活発化

199臥2   .3

  .5 1991.2

.3

.6

s7

.8

.,J

.t2

i一覚独餓ゐ族棄

iりトアニ7、エストニアが独立宣言、これ iを無効とする連邦政府声明

:大軍領割を取りλれ.ゴルバチョフ就任

:ラトビアが独立宣言

=新連邦条約の草案te ge本承認

:「唱名から「祉会主義」が削除。「主横平等国

=家連邦」とする、

:連邦雑持への十界を問う全国民投誤

:ワルシャワ条杓壌携(箪事)解体 iロシア共和国大冊領にエリツィン.が就任

;コメコン解散

iワルシャワ.条約聖賎携(政治)解体 、 iヤナーエフ副大統頻らの保守派クーデタ i一は3日で失欺

iゴルバチftフ大竃領共産党書記艮を辞任 iして共産党解散

=バルト3回目独立を承謬

=ゴルパチftフ大繭循辞任し「ソビエト連

:rs,1が消滅

:グルジアを除く1且下国が「独立国家共同

:体」(CIS)を劃設

:国名を「ロシア連邦』と改名

       著者作成

  しかし1991年社会主i義政権崩壊と連邦の崩壊ともに、ソビエトという 名称を放棄し、再び元のロシアに戻してしまった。同じ社会主義国家で

あった東『?[ロッパの国々は、どこも「社会主義」という表現は取p下 げたが、主要名称までは変更していない。「ソビエト」という名の本来

の意味は 会議   評議会   協議会 を意味するものであり、社会主 義とか・共産主義とか・連邦制とかいう意味は含まれていなv}ので・そ のまま残しても、理論的には矛盾するものとはいえないが、政治的、歴 史的過程からみて社会主義の シンボル 的名称であり、残すわけには いかなかったのである。

 なお復活した「ロシアRossiya」という国名は、古称ルーシRusiに由 来し、これにラテン名イアiaを付け加えたものである。この語源にはノ ルマン説とスラブ説がある。だいたいどの著書もソルマン説が有力で、

ノルマン説では、ノルマン人(バイキング)の一派が内陸方面に放浪し て行き、この人々を指してフィン語でローツィRotsi( 漕ぎ手 を語 源)と呼び、これがルスRus 航海のうまい人 を意味する名称(Dに変 わったのだという。この人々が、東スラブのキエフを中心とする支配者 に迎えられたときに、国名として用いたのが「ロシア」の名称の起こり であるといわれている。またスラブ説をあげると、このなかでも幾つか の説に分かれるが、その一つにドニエプル川の支流のロスRos川の名に 由来するという説(7)がある。

 なおソ連は、1991年に15の国家に分裂したが、その中でソ連時代と多 少なりとも名称を変更させた共和国名をあげると、「Pザフスタン」、

「ウズベキスタン」、「トルクメニスタン」、「キルギスタン」、「タジ キスタン」の中央アジア5力国と「モルドバ」、「ベラルーシ」がある。

中央アジア5力国は、語尾にペルシア語系の 国 を意味するスタンst anをつけたものであるし、fモルドバ」、「ベラルーシ」の場合は、意味

は以前と同じだが、共に現地発音名に変えた名称である。

一33一

2、ベニン(ダオメー)

 1960年8月1日過独立時は「ダオメー」という国名であった。この名称 は、フランス植民地名をそのまま受け継いだもので、植民地名はこの地 域に栄えていたダオメー王国(17〜19世紀半ば)の名称を用いたものであっ た。ダオメー王国は、18世紀前半にはアラダ王国を征服するとともに、

奴隷貿易の支配権を握って繁栄し、1894年置ランスに敗北するまでは強 力な中央集権国家であった。「ダオメDa−home」という名称は ダ王の 腹の上に という意味で、これは1600年頃、部族内の対抗者が王位競争 に勝ち、ダ王を殺して死体を埋め、その上に王宮を建て1支配者となっ た。後にその地域を中心に集落が形成されたことから、このような名称 で呼ばれるようになったものといい伝えられている(3)。

 ダオメー国内は、15の部族から構成されるが、独立後もバリバ族出身 のマガ(初代大統領)、ヨルバ族出身のアピティ、フォン族出身のアホ マデグベらが、それぞれ領袖となり、国内三大政治勢力を形成して、政 権抗争を繰り返したため、極めて不安定な政治状態であった。この根底 に潜む主原因は、ギニア湾岸を支配下においたヨーロッパの宗主国が、

それぞれ勝手な勢力範囲を造り、民族分布など全く無視した国境を形成 したためであった。これにより、国内はもとより、周辺諸国をも巻き込 む紛争がだびたび発生した訳である。ダオメーでも1972年10月には5回 目のクーデターが発生し、.これによってケレク少佐(ソンバ族出身)が 政権を握った。

 彼は、このような過去の部族中心主義による政争に終止符を打つとと もに、主要産業を国有化して経済建設を図ることに努め、1974年11月か らは、外国資本も部族主義も否定するマルクス・レーニン主義に基づく

科学的社会主義国家の確立を宣言した。そして翌年、社会主義国家1周 年を祝い、国名もギニア湾に栄えた古王国ベナン(ベニン)にちなみ、

「ベナンBenin」人民共和国と改名したのである。改名は旧経済体制や 部族抗争からの決別一,社会主義体制遂行のさらなる決意、そして政治が 軌道に桑つたことを国民にも、周辺諸国にも、世界にも印象づけるため

に改名を決定したのであった。

表1−2、アフリカの一党制国家(1988、且2現在)

「アフリカ現代政治」 小田英郎著 東京大学出版会より

アルシ■tlア アンゴラ エテオビア カボヴ;Jiデ ガボン カメルーン ギニア・ビサウ ケニア

コートジヴオアール コンゴ

ザイール

サントメ・プリンシペ

ザンビ シエうレオネ ジブチ スワジランド 赤遁ギニア セイシ=ル ソマ:)7 タン亭ニア 中央7フ Jカ

トーコ フル?アt べニン マラウt

マり モ寧ンビーク ルワング コモロ サハラ・アラブ

アルジェリア民壌解放戦線 Fし〉;」

アンゴラ解放人艮運動一労働党(MPしA−PT}

二子オビア労脱養3こ口WPE;

カボヴェルデ控立7ワ8 力人覚 PAlVC}

ガボン民主党千DG;

カメルーン人民艮室奨含{RDPC,

ギニア・進塁ヴ tLデ独立7フリカへ党くPAiGC》

ケニア・7フ1=力艮族同盟(KANU)

コートジヴTフ 一ル民ヨ三覚でPDCI)

コンゴ労働党1.PCT}

革命人民運動ごMPR

サントメ・プリンンペ解放運動ごMLSTP)

統一民族歪虫i.y−rUNIP》

全人民会譲(APC}

進歩人民集台(RpP.

インボコドヴτ国艮運動(lNMI 赤道ギニア民三寛!PDGE}

セイシ三ル人民買上戦線(SPPF}

ソマリア撞会二三義箪命党聖SRSP=

革命覚(ぐCM}

申央7ブリヵ艮三会譲IRDC)

トー:ゴノ、民.Y…ぎ言!RPT}

民族進歩同蟹(L:PRONA  ベニン人民董命覚i:PRPB⊃

マラウィ会議互IMCP;

マリ人民民三商輩(UDPM

モザンビーク勇ぎ弦戦線くFREL置、MO}

開発国民藁命逗勤fNIRND、

進歩コモ9同蓋三じCP,

ポリサリオ穀塚IPF,

 国名の元になった古ベナン王国は、隣国のナイジェリアを中心に栄え、

一時期、この地域の海岸一帯をも支配下においた国で、1897年目ギリス に征服されるまでは、アフリカにおける最強国の一に数えられていた王

一35一