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図1−5、スリランカの国内対立

「.地歴と地図資料」帝国誉院P且、1 tJ 94・1より

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 このように、スリランカという名称は由緒ある地名である事は理解で きるが、1972年当時、セイロンという名称を忌避しなければならない程 の格別な理由が存在した訳ではなく、改名することで、この国はシンハ リ民族独裁の国家になることへの意思表示をしたものにほかならなかっ.

た。本音は、社会主義路線を隠れ蓑にした民族主義以外の何物でもない と思われる。なぜなら、どうしても忌避しなければならない理由がある

のなら「セイロン」という名称は、全て抹消されてもよいはずだが、中 央銀行や多くの研究機関、貿易関係の名称、島山など、当時の政治や政 策にそれほど関係しない多くの分野では、いまだに「セイロン」の名が、

そのまま何の抵抗もなく使用されているからである。

 このような一方的決定に対し、タミル人は居住地域での自治を要求す るようになり、シンハリ人との対立も激化し、それが全土に広がり、後 には分離独立(イーラム国)の要求へと発展し、混乱状態に陥った。特 に北部、東部はタミル人がシンハリ人を上回り、インド政府介入の事態 にまで陥った。両国間の危機的状況は何とか回避したものの、今なお平 和への見通しが立っていなく、いつまた紛争が発生してもおかしくない 状態が続いている。

 すなわち「スリランカ」への改名は、シンハリ人には好意的に受け入 れられたが、タミル人をはじめとする少数民族には受け入れ難い「好ま ざる国名」で、国内の民族的対立と将来の遺恨、国際間の紛争を残した だけであったといえる。現在世界には多くの難問が山積みされているが、

最も多いのは、領土問題とこの手の民族問題である。いくら小集団とい えど、民族尊重の原則を間違えると、このような遺恨を残し、抜き差し ならない問題になる。スリランカはその好例であろう。

2、ザイール(コンゴ)

 アフリカ第3画面積(234.5k㎡)をもっこの国は、1960年「コンゴ共 和国」という名称で独立した。ヨーロッパ人(ポルトガル)がこの地に 来たときには、海岸沿いの熱帯雨林地域を中心に、既に「コンゴ王国」

という黒人国家が存在し、この名称を植民地名に活用し、ベルギーから

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の独立時にも新国家名として用いたものであった。ただ西隣のフランス 領コンゴも、同年同名のコンゴ共和国として独立したため、区別する必 要から、一般に首都名を付け、コンゴ・レオポルドビル(ベルギーより独 立)、隣国はコンゴ・ブラザビル(フランスより独立)と呼ばれた。

 「コンゴCongo」(またはコングCong)という国名は、原住民の言葉

(バンツー系の放言)で凹山   山国 という意味であろうといわれて いる(D。別説では 矢 を意味するという説(3)もある。ここは口承文 化(無文字文化)地域であったことから、明確な語源説は記録になく、

部族言語より推定するため、このような不明確な由来説となるのである。

黒人アフリカ文化地域では、このような地域が多いため、地名研究のネッ クになっている場合が多い。

 この国は、歴史的には一国としてまとまった経験もなく、200以上の 異なった種族がおり、そあ中の4つの主要部族抱けを合計してみても、全 人口の45%を占めるに過ぎないほど多様性に富み、しかもその部族間に

も不信感があって、全くの不統一な国内状態であった。部族間の事情を 考慮した場合は、むしろ複数の独立国家となったほうが、より自然な状 態であった。しかし植民地化は、民族や部族といった基本区分に関係な くその領域が決定され、それが一国として独立するため、独立後は、多 くの困難な部族問題に対処していかなければならないのである。

 一例をあげれば、独立とほぼ同時に5年間も続いたコンゴ動乱は、部 族間の協調(統一)性の無さと利害関係が絡み、さらに常に各国を巻き込 む米ソの対立や、宗主国ベルギーの利害関係などもこれに加わって、鉱 山資源の豊かなシャバ州や、カサイ州の独立運動にまで発展した内戦と なった。これなどは統一性の無さの好例といえる事件であろう。すなわ ち多種多様な種族のたあ、生活様式も、社会組織も、言語も、伝統も二

なっていて、文化的には共通性は何一つなかったのである。

    アフリカの部族領域(G。P.マードックによる)

図1−6、アフリカの部族領域とザイール領内の部族領域 今西錦司以下3名、「民族地理」下巻、P165朝倉書店1965より

 そんな状態であっても、独立後は一国家として政治体制や経済組織を 整えていかなければならなく、当時の国家指導者の最重要課題は、この 国家を、如何にして一つにまとめあげるかということであった。その結 果考え出されたのが、内乱続きのこの国において、部族の枠を超えた全 国民に当てはまる国民文化の何かのシンボル(たとえば国家祝日、国民 的英雄、国家目標、国名変更など)の形成であった。そしてそれを基に 住民の関心を集中させ、国民として、国家としての体裁と意識高揚を生

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み出そうとしたのである。文化的には共通性は見当たらないが、幸いな ことに、自然的には唯一共通性があった。それは国土の大部分がザイー ル(コンゴ)川流域にあるということであった。

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    1964反乱勢力     の最大範囲

6  国連軍の基地    1961ベルギー

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