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国家の合邦、吸収合併、分離

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V、 国家の合邦、吸収合併、分離

 小国が団結して新国名を作成し、新たな国家形成を行った例としてユ ーゴスラビアがある。また植民地の諸地域が合併し、さらに他の植民地 域をも愚慮合併して国家名称を改名した例としてマレーシアがある。さ

らに独立国家が合併して国名を変更した例にはタンザニアがある。この 3国はどのような背景の下で併合に踏み切ったのかを考察する。さらに ユーゴスラビアは社会主義政策を放棄したとたん、ソ連と同じような民 族分裂の状態にあるが、このようなユーゴスラビアの現状にも触れなが

らその背景をみていくことにする。

■、ユーゴスラビア(セルビア人==

   クロアチア人rスロベニア人)

 7世紀始め頃、この地に南下して来たスラブ人の中で、国家建設の中 心となったのが、セルビアとクロアチアであった。セルビアは、1168年

ビザンチンの支配から脱して独立王国を建設し、14世紀には現在のボス ニアあたりからエーゲ海に至る「大セルビア王国」を形成したが、14世 紀の終わり頃、南から侵入して来たオスマントルコに敗北し、以後5世紀

間その支配下におかれることになった。しかし長い支配の中でも民族の 独自性を保ち続け、オスマントルコの支配が弱まる中で、1815年には議 会開設権を獲得し、1830年には完全な自治を承認させた。そして1877年 の露土戦争の結果、その翌年のベルリン条約で「セルビア」と「モンテ ネグロ」は王国として正式に独立できたのである。

 一方、クロアチアは925年アドリア海沿岸を拠点にクロアチア王国を建 設し、以後200年にわたって繁栄し続けたが、1278年以降には、オースト リア=ハンガリー帝国の支配下に置かれ、全ての面でその影響を受ける

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こととなり、セルビアとは違った道を歩んだ。

 20世紀に入り、ボスニア=セルツェゴビナの支配権をめぐり、セルビ アとオーストリアとの対立が激化し、両国の衝突があの第1次世界大戦 を起こた。そして思いもよらぬオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊に より、その支配下にあったスラブ系民族のクロアチアやスロベニアが、

自由の身(領域)となり、1918年には、スラブ系の「セルビア人=クロ アチア人==スロベニア人王国」が誕生したのである。ただこのスラブ系 国家の統一は、セルビア王国の軍事力によって成し遂げられたものでは

なく、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊により、偶然にも転がり込 んだものといえたが、セルビアは自国の活動による成果を強調し、中央 集権の国家を形成しようとした。これに対し、クロアチアはそれぞれが 独自性をもつ連邦性国家の形成を指向した。この新生国家は、このよう

に既に統一独立国家誕生当時から、内部対立をはらんでいたのである。

また同一民族であったといっても、長年異民族の支配下におかれていた ため、習慣や考え方、生活.レベル、社会システム、宗教に至るまで大き な違いが生じていた。ただ長年のスラブ系小民族による合併独立の夢は、

ナポレオンの支配以降、クロアチアやスロベニアを中心に、南スラブの 統一を目指す『イリリア運動』という形で盛り上がり、これがセルビア、

クロアチア両中心国の対立を上回った形となった。

 結果的には、セルビアのアレクサンドル公を中心とするセルビア人中 心の中央集権的な国家が形成され、更に1929年には、セルビアのアレク サンドル公が国王に就任するや、独裁制を敷いたため、クロアチア人を 中心に反セルビア、反中央政府の考えが更に強く固まっていったのであ る。国名もこのとき「ユーゴスラビア」王国と改名したが、この国名に 関しては、クロアチアやスロベニアの思想を入れて妥協したが、政治に

関しては「大セルビア主義」の考えを貫いたものであった。

 地名の由来から国家状況を説明すると、統一当初は「セルビア人=ク ロアチア人=スロベニア人」王国という国名のように、スラブ系の代表 的住民名をそのまま国名に活用した。この中の「セルビアSerbia」とい

う名称は、ラテン語のセルブserb 奴隷 従属 の意味を語源とし、

これたイアia 国、地方 を付け加えたもので、その起こりは他民族に 長い間従属していたことにから呼ばれた名称であるといわれているく9)。

セルビア人は、自称「スルビン」といい、名称と ヘ裏腹に独立心の強い 行動を取ってきた。また「クロアチアCroatia」は、スラブ語のクラワト Chrawat 丘に住む人 の意味にイアiaを付け加えた名称で、 山岳住 民の地域 を示したもの(3)であった。「スロベニアSlobenia」は ス

ラブ人の地方(国) を意味し、自称は「スロベナッッ」で、同様の意 味である。なお、スラブSlab(民族)の語源についても触れておくと、

この語源には諸説があって明確ではないが、有力なものでは、スラブ語 のスロボSlobo 言葉 に由来し、理解しあえる言葉を話す仲間という 意味で自称したのが起こりではないかという説(9)。同じスラブ三二で

もスラバSlava 栄光 を語源とする名称ではないかという説く9》。その 他ラテン語のセルブserb 奴隷 を語源とする説(9)などがみられる。

 独立当初の国名は、この3民族名しか含まれず、他のスラブ系住民を も含む連合国家としては不十分であり、セルビア出身のアレクサンドル 公が、独裁的中央集権王国を完成させたのを機に、国名を以前からの唱 えられていた「ユーゴスラビアYugoslavia.jスラブ語で 南スラブ(民 族)の国 の名称に改名して、正式名称としたのである(1)。改名理由は、

他の構成住民であるマケドニア人やモンテネグロ人、などに対しても平 等となること、支配権が南スラブ系全領域に及ぶこと、念願の理想的名

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称であったこと、それに何よりもスロベニアから起こった名称であり.、

セルビア中心の国家というイメージを除くことができることなどが大き な要因であった。

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図1−9、ユーゴスラビアの民族構成図

「政治地理」 木内信藪著P!68、

朝愈欝店 1968より

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