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5、政治的意図による地名の二字

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 律令もある程度軌道に乗ると、政策の一手段として、国名から末端の 郷に至るまで、地名の二字化と好字化を推進している。これに関しては

r続日本紀』記載の和銅6年の詔に「畿内七道諸国二郷の名、著好字・・

・・vと記述され、またr延喜式』の民部式にも「凡諸国部内郡里等名、

心用二字、面取嘉名・…」とあり、機会あるごとに改名の指示を行った。

この二つは共に中国の地名命名方式を真似たものであることは事実であ るし、他に自然災害や疫病の排除、国家、社会の安定と繁栄などの祈願 も含まれていたこともその大きな理由であったろうが、地名の二字化と 好字化は、これとはまた別の目的で意義があったのではないかとも考え

られる。つまり当時の日本は、地名表記を中国より伝わった漢字を用い て表したもので、その発音から万葉仮名風に表したり、訓読地名であっ たり、音読地名であったり、音訓混合地名であったり・統一がなされて いなかったようである。すなわち当時は現在のように発音も文字も1つ に統一するという発想はなく、地域の実情や状況に応じて使い分けをし ており、住民の呼び方、政府の出す名称、文学に於ける地名表現、他地 域からの呼称など、それぞれ使用する人、場所などによって、異なる地 名表記や地名の呼び方があったのではないかと考えられる。

 このことを「大和国」を事例にあげてみると、「やまと」という名称 でも「夜麻登」、「夜高上」、「夜魔等」、「夜葬苔」、「夜品等」、

「誌上登」、「法面等」、「耶三等」、「椰魔等」、「椰磨等」「椰二 等」、「也麻等」、「野麻登」、「野歴等」、「野麻騰」、「野磨等」、

「野馬台」、「八間跡」、「山門」、「山常」、「山跡」、「日本」、

「大日本」、「大国」、「大養徳」、「東」、「倭」、「大倭」「和」、

「大和」など数え切れないほどの漢字で表現された。日本の中心地であ る「やまと」の表記でもこの有り様であり、このような地名表記の不統 一は、利用者(特に中央政府官僚)にとっては極めて不便であり、しか、

も漢字の母国である中国ではスマートに地名の二字化(簡素化も含む)、

好字化が流行していた。朝廷もこれを利用することで、地名漢字の統一 化、すなわち一地域一名称化を進めれば、中央集権化にも役立ち、また 改名強要に対する地方豪族の不信感や反発の払拭も可能であ,ること、こ れを機会に、地域再編成も行いやすいという理由から、機会あるごとに 国策として遂行されたではなかろうかと推察する。当時はおそらく、中 央政府において、各地の地名が名乗られても、同じ地名があったり、何 通りもの地名表記があったりして、何処の地名か、区別できなかったこ とも多かったのではなかったかと想像される。二二に挙げた「やまと」

の場合は、天平勝宝4年(752)の好字化政策により、「大和」の文字 に統一している。

 地名の二字化、好字化は、当時は国家命令であり、法の発布は最もカ を入れた時期に行われたものといえる。その結果、例えば国名を例に取 ると、一字の国名であった名称で、古来樹木の産地 として知られた

「木」国は「紀伊」国に(27)、また 清水の湧き出る井戸 が存在する ことよりでた「泉」は「和泉」に(27)と、無理に二字化に書き改められ た所もみられた。逆に三文字であった「上毛野bbつりぬ」、「下毛野しもつt)nj、

「元邪論むざし」、「凡川内、大河内。肌かふち」などはそれぞれ「上野.うずけ」、「下

野しもつv」、「武蔵むさし」、「河内かb5」と書き改あられた。しかしこれなどは、

縮小したために、本来の意味を解りにくくさせた地名となった。

 国の名称の場合は、特別な指令を出さなくとも、実例をあげたように

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改名は可能だったが、郡名や郷名はそう簡単にはいかなかったのであろ う。いくら律令体制が進んできたとはいえ、各地にはまだ少なからず豪 族支配に因む地名も数多く残っていた。例えば「私丸きさきのさと」という地 名があったが、これは明らかに豪族個人の支配地域名称であった。こ()

ような地名の所では、やはり個人(豪族)の力が絶大に残っていたので あろう。

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 このような権力や影響力を払拭し、律令社会をより完成度の高いのも のにするためと、地域性を明確に把握するために、地名の二字化、好字

化が格好の材料であったように思えてならない。何かにつけ豪族の影響 を受けている郡・郷を、豪族から断ち切ることが律令政治には不可欠の 政策だったのである。特に郡・郷は中央政府の影響力が薄いだけに、ど

うしても郡・郷の改名に関する命令を出し、影響力を時間とともに自然 に薄めていかざるを得なかったものと思われる。

 国名の場合は数々の史料に旧名称が記述されているので、基礎となっ た地名を知ることが可能だが、このような改名によって、郡名や郷名の 場合は由来の分からなくなった地名も少なからずあったといわれている。

このような改名(好字化)の極端な例を幾つかあげると、播磨国に「死 野し。の」という地名があったが、字が不吉なため逆の「生野い《の」に改め

られた(28)し、静岡県の「芦原あ.。ら」という地名の 芦 は 悪し に聞こ えるので逆の 良し の意味にして「吉原よし防」と改めた(25)し、単純な 改名の例だが、京都の「大原棚ら」は、もと「小原お。ら」であったが、

これも正反対に改名している(25)。これらは正反対に書かれたため、本 来の地名の意味が、全く失われてしまった例である。このように政治の 都合で正反対とまではいかなくても、地名を変更した例が数多くおこな

われた。

6、律令時代の地名の特色

 律令の政治は、巨大国から小国までバラバラであった地方行政区分を 可能な範囲で均一化すると共に、名称の共通化を進め、130以‡あった 国造の支配を、半分以下に統合したもので》中央集権政治が行いやすい ように、地方行政の基本を編成し直したものといえる。それでもなおこ れらの国々はその規模、開発程度、位置的重要性などにより、まだ力の

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差があって「大国」、「上国」、「中国」、「下国」にランク付けされ て統治された。

 このように時代的にみると、新地名は9世紀始め頃までに地域の支配 状況や開発状況を考慮して、命名したものであるということができるが、

中でも新しい国の区分や命名が盛んに行われたのは、7世紀後半から8 世紀始め(天武、持統、文武天皇)の頃であった。すなわち地名命名か

らみると・最も律令体制造りが進んだ時期が・新しい区分地名命名も多 かったといえる。

 そして国の数は、大宝元年(701)には58国3島、弘仁4年(813)には、66 国(2島)に増え、これが明治維新まで続いた。郡の数は8世紀には全国 で555あり、幕末までに631に増加していた。なお郷の数は9世紀末には 約4000を数えた。これが日本の基礎的地域区分となり、後々まで大きく 影響を与えたのである。

 ただ、律令政治(改革)は、国造(地方豪族)の財産を没収するとい う、あまりにも大胆な改革(地方政策)であったことから、地方豪族の 反発が強く、数年のうちに完成する程簡単なものではなく、大化の改新 後、何人もの天皇が、幾度となく努力し、壬申の乱など豪族の没落とい う幸運も加わ って、何とか成し遂げられたものであった。そのため政治 的意図による地名改革でも、それまでの地名(旧名)を完全に無視し、

強引に新地名に改名できるだけの権力(支配力)も旧名に匹敵する適当 な地名も、政治的ゆとりも、まだ備わっていなかったから、旧国名や国 造の居住地域名称等を、再度新国名に活用したり、それを基に造語して いったのである。つまり明治維新のように、新地名を短期間のうちに命 名して、大胆にイメージチェンジをはかることは、地名命名状況から考 えて、当時はまだ不可能だったといえる。

 ζのようなことから、地名政策においては、常識的には中国文化を見 習って地名の二字化、好字化を推進したというのが、正当な歴史的見方 となっているが、私の考えでは、各地の地名は、まず様々な表記があっ て不便であったこと、豪族の権力を排除して、中央政府の命令が全国に 行き渡るようにする為に便利であったこと、国家(社会)の変動を豪族 にも、住民にも明確に示せること、国家の安泰(好字化)等を願ったこ となどが大きな目的であったといえるので1さなかろうか。そして、この 政策に、高度な中国文化の威光を借用したというのが本音だったのだろ う。日本では律令時代だけに止まらず、この好字化や二字化の思想は、

現在まで生き続け、特に好字化は、いつの時代でも、絶えず何処かで行 われてきたし、特に明治初期の大改名に至っては大いに活用された。

 地名学者は律令政治時代における改名(二字化、好字化)は歴史的過 程や自然条件、本来の発音、地名の由来など、あらゆる点で日本の古代 の様子をわからなくさせた悪改名の一つといっている。地名研究という 立場からは、全く其の通りだが、当時の政権担当者の立場で考えるなら、

文化財としての地名の重要性を理解するはずもなく、むしろ改名するこ とが、社会改革につながり、明日への希望に輝くというような思いであっ て、地名改革は、当時本当に行いたかった、又は行わなければならない

と考えていたことだったのではないだろうか。

 そして政治的立場から見ると、この地名政策が古代の中央集権化に大 いに役立ったと言えるのである。

 我々も、改名されてしまった地名を嘆くだけでなく、今度はそうせざ るを得なかっだ社会状況や、政治形態を学ぶ良い資料と考えなければな          軍

らないだろう。地名的には大きな問題を残すが、好字化は漢字文化圏の 宿命なのである。

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