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政治的意図による地名命名の研究 : その背景と影響について

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(1)研究題目. 政治的意図による地名命名の研究 一その背景と影響について一. 兵庫教育大学大学院 教科一領域教育. M93526D. 学校教育研究科 社会系コース 室谷. 茂.

(2) 目次 ページ. 序章. 1. 1、研究の視点 2、研究の目的と方法 3、既往の研究. 第1章政治と国名 第■節 国名変更からみる国家の 政治的背:景 1、国名変更について 皿、国際問題が絡んだ国名変更 1、タイ(シャム). 1. 2 6. 9. 10 10 11. 11. 2、イラン(ペルシア). 14. 3、カンボジア(クメール、カンプチア). 16. 皿、国内問題を中心とした国名変更. 19. 1、スリランカ(セイqン). 20. 2、ザイール(コンゴ). 23. 3、アルゼンチン(ラプラタ). 28. W、政権交代のための国名変更. 30. 1、ロシア(ロシア、ソ連). 31. 2、ベニン(ダオメー). 34. 3、ブルキナファソ(オートボルタ). 36. V、国家の合邦、吸収合併、分覆. 38. 1、ユーゴスラビア(セルビア人=クロアチア人=スロベニア人). 39. 2、マレーシア(マラヤ). 44. 3、タンザニア(タンガニーカとザンジバル). 47. 4、コロンビア(グランコロンビア、ヌエバグラナダ、グラナダ). 50. W、独立後の合邦とその後の分蔭. 53. 1、アラブ連合(エジプトとシリア). 53. 2、セネガンビア(セネガルとガンビア). 57. 顎、国名変更による政治的特色. 59.

(3) 第2節 独立時における国名変更 1,国家創造. 63 64. 1、イスラエル(パレスチナ). 64. 2、リベリア(穀物海岸). 68. 73. ll造語地名の活用. 1、インドネシア(蘭領東インド). 74. 2、パキスタン(インド). 77. 皿、国際関係を重視した国名の命名. 82. 1、ガーナ(ゴールドコースト). 82. 2、中央アフリカ(ウバンギ・シャリ). 85 88. W、独立国家の復活 1、ベトナム(仏領インドシナ). 88. 2、大韓民国(朝鮮). 91. 93. V、三王国名の活用 1、ルーマニア(モルドバ、ワラキア). 93 96. 2、マリ(仏領スー一一.ダン). 99. VI、首都名の活用. 1、ジブチ(アファール・イッサ). 100. 2,ベリーズ(英領ホンジュラス). 104. 105. vr、白人政権からの門門. 105. 1、ジンバブエ(南ローデシア) 2,ザンビア(北ロ■一一.デシア). 110. 3、マラウイ(ニアサランド). 112 114. 預、独立時における改名の特色. 第2章. 政権交代と地名. 第■節 ソ連とソ連崩壊後の地名. 119. 119. 1、ソ連時代の地名. 119. 1、全般的特色. 119. 2、社会主義化のための地名(政治用語の地名化). 120. (1)、「赤」を地名化した名称. 120. (2)、「10月革命」を地名化した名称. 123. (3)、「メーデー」を地名化した名称. 124. (4)、「共産主義青年同盟」を地名化した名称. 124. (5)、「第3インターナショナル」を地名化した名称. 125. ii.

(4) (6)、社会主義化のために命名された代表的地名例 3、社会主義化における人名(権力象徴)の地名化 (1)、レーニンの地名とスターリンの地名. 125 127 127. ①、レーニンの地名. 128. ②、スターリンの地名. 130. (2)、レーニン、スターリン以外の人名. 134. ①、1930年代以前の個人地名. 134. ②、1930年代以降の個人地名. 135. (3)、外国人(ソ連以外)の地名化. 138. 4、権力闘争と地名. 139. 5、ソ連時代の地名の特色. 141. (1)、社会主義化のための地名の特色. 141. (2)、個人名の地名化の特色. 143 145. 皿、ソ連崩壊後の地名変更. 1、全般的特色. 145. 2、社会主義放棄のための改名. 145. (1)、個人地名の再改名. 145. (2)、個人地名の再改名が行われた主要都市の例. 146. (3)、社会主義にかかわる名称の改名. 151. 3、民族独立(自立)志向のため改名. 152. (1)、ロシア東部の国家の動き. 152. (2)、中央アジア5力国の名称. 153. (3)、ロシア内にある自治共和国の共和国昇格と改名. 156 158. 4、ソ連崩壊後の地名の特色 (1)、個人地名改名の特色. 158. (2)、社会主義的表現の改名の特色. 160. (3)、民族独立のための改名の特色. 161. 第2節 日本の政治改革と地名 1、律令政治と地名. 165 165. 1、律令以前の政治と地名との関わり. 165. 2、中央集権国家の推進と地方の均一化のための地名作成. 166. 3、律令制実施による地名の発生. 169. 4、各国に対する支配強化と確実な税収確保のための五畿七道. 172. 5、政治的意図による地名の二字化、好字化. 176. 6、律令時代の地名の特色. 179. 撮.

(5) 皿、明治新政権の確立と地名. 182. 1、全般的特色. 182. 2、、府県名の改正について. 183. (1)、明治元年前後における直結府県の地名. 183. (2)、版籍奉還と地名の変更について. 18β. (3)、廃藩置県と地名変更について. ①、府の設置. 188. 188. ②、旧名を用いたもの. 189. ③、一時的に藩名(町名)を用いすぐに町名郷名に切り替えた県191. ④、最初から郡名を用いた県. 192. ⑤、城下町名を使わず政府直属の主要港名を用いた県. 194. ⑥、地方の町村名を県名に. 195. (4)、廃藩置県一段落後の県名. 196. 199. 3、府県三三命名過程と由来 (1)、北海道地方. 199. (2)、東北地方. 199. (3)、関東地方. 202. (4)、中部地方. 205. (5)、近畿地方. 208. (6)、中国地方. 211. (7)、四国地方. 213. (8)、九州地方. 214. 4、地方改革(郡区市町村編成)と地名 (1)、明治4年の「大区小区制」と地名. 218 218. ①、「大区小区制」の例. 219. ②、「大区小区制」の中での町村改革. 222. (2)、「郡区町村編成法」と地名. 226. ①、全国の郡名から. 227. ②、「区」名の場合から. 231. (3)、 「市制・町村制」施行における地名. 232. 5、主要地方町名(都市名)の改名. 239. (1)、新首都「東京」の改名. 239. (2)、旧首都「京都」の地名. 240. (3)、「府中」「三内」からの改名の例. 241. (4)、同名回避のための改名. 242. (5)、好字化のための文字の改名. 243. ir.

(6) 244. (6)、その他の改名. 245. 6、明治における地名の特色 (1)、府県名の命名とその特色. 245. (2)、地方改革における地名の特色. 247. (3)、主要地方町名における改名の特色. 第3章 植民地と地名 第■節 大航海時代以前の植民地名 1、古代の植民地政策と地名. ・ 249. 252. 253 253 253. 1、フェニキア人の活動と地名 (1)、フェニキア植民支配と政治的意図が含まれる地名. 255. (2)、その他のフェニキア語源の地名. 256. (3)、フェニキア語による地名の特色. 258 260. 2、ギリシア人の活動と地名 (1)、ギリシア神話に由来する地名. 262. (2)、ギリシア語由来のその他の地名. 263. (3)、ギリシア語による地名の特色. 266. 3、アレクサンダー大王の東方遠征と植民地名. 267. 4、ローマ帝国と地名. 270. (1)、植民地に関する都市名、地域名. 271. (2),支配者または支配者に関係する人物名. 274. (3),地域の特性を表した地名. 277. (4)・,先住民語源名との合成地名や先住民名を含む地名. 278. (5)ラテン語による地名の特色. 281. 284. 皿、中世の植民地政策と地名. 284. 1、アラブ人の植民地政策と地名 (1)、植民都市、首都に関する地名. 286. (2),イスラム教に関する地名. 290. (3),地域の特性を表した地名. 291. (4),アラブ人の活動による地名の特色. 293. 第2節 大航海時代以後の植民地名. 297. 1、ポルトガルの植民地政策と地名. 297. 1、アフリカにおける地名命名. 330. (1)、エンリケ航海王までの地名. v. 330.

(7) (2)、ジョアン2世時代の地名. 301. 307. 2、ブラジルにおける地名命名. 308. (1)、宗教地名の命名. 310.. (2)、宗教以外の地名命名. 3、ポルトガル植民地名の特色. 311. ∬、スペインの植民地政策と地名. 314 315. 1、探検時代の地名 (1)、伝説的、理想的、空想的な地名. 316. (2)、本国地名の移転. 318. (3)、宗教的地名の命名. 321. (4)、人名の活用. 323. (5)、自然名称に由来する地名. 324 325. 2、開拓時代の地名 (1)、宗教に係わる地名. 325. (2)、本国地名の借用. 331. (3)、個人名の活用. 332. (4)、インディオ地名の活用. 333 335. 3、スペイン植民地名の特色 皿、イギリスの海外植民地政策と地名. 338 341. 1、英国人入植地の地名. 342. (1),アメリカ植民地の地名 ①,南部植民地め地名. 343. ②,北部(ニューイングランド)植民地の地名. 347. ③、大西洋岸中央部の地名. 348 350. (2),カナダの地名 ①、フランス人入植と地名. 350. ②、イギリス支配以降の地名. 353. (3),オーストラリア、ニュージーランドの地名. 355. (4),南アフリカの地名. 361. 365. 2、政治的経済的植民地 (1),植民地経営地域西インド諸島. 366. (2),経済支配中心の植民地地域. 370. ①、インド、東南アジアの地名. 370. ②,西アフリカ地名. 372. (3),軍事、商業のための寄港植民地. 373 377. 3、イギリス植民地名の特色 vi.

(8) 終章. 381. 参考文献. 396. 面.

(9) 図一覧 図、1−1タイ国国;境の変遷. 図、1−2第二次世界大戦中のタイ国の占領地 図、1。3 ロシアとイギリスの緩衝国ペルシア. 図、1−4周辺諸国の影響を受けるカンボジア 図、1−5 スリランカの国内対立. 図、1−6アフリカの部族領域とザイール領内の部族領域 図、1−7 :1ンゴ危機1960∼’65. 図、1−8 ラテンアメリカの政治区分の変遷. 図、1−9ユーゴスラビアの民族構成図 図、1−10ユーゴスラビアの領土変遷. 図、1−11東南アジアにおける英国植民地の種類 図、1−12タンザニアとザンジバル領肴権の変化 図、1−13南米大陸北部の領土領域’. 図、1。14アラブ諸国グループ 図、1−15アラブの連帯 図、1−16セネガルの合邦と分離. 図、1r17イスラエルの領土拡張 図、1−18蚕食されたアフリカ 図、1−19インドネシア19法域圏地図 図、1−20インドネシア領域の拡大 図、1−21インド・パキスタンの独立をめぐる諸対立. 図U−22古ガーナ王国とガーナの位置 図、1−23中央アフリカ構想と国旗 図、1−2419世紀以降の英仏勢力の拡張 図、1−25ベトナム民族の政治的発展 図、1−26朝鮮半島における国名の変遷 図、1−27ルーマニアの領土変遷 図、1。28領域変遷(古マリ帝国、仏領西アフリカ、マリ連邦構想、マリ共和国). 図、1−29各国の支配権とジブチの位置. 商.

(10) 図、1−30グアテマラ総督領と現在のベリーズ 図、1−31北ローデシア、南ローデシア、ニアサランド植民地 図、2−1「10月革命」を地名化した名称 図、2−2「レーニン」にちなむ主な地名. 図、2−31930年代中心の代表的個人地名の分布 図、2−4 ソ連崩壊と連動して改名された主要な個人地名 図、2−5 名称変更した共和国、自治共和国. 図、2−6律令における廃国と分国(新設国). 図、2−7五畿七道と交通路 図、2−8律令における好字化、2字化の影響を受けた国名(明確なもの) 図、2−9・奥羽越列藩同盟蘭係. 図、2−10廃藩置県による新府県(明治4年) 図、2−11府県藩数の変化 図、2−12明示初年の自然村 図、2−13播磨県における「大区小区」の区分領域について. 図、2−14全国郡役所の所在地とその後の消長について 図、2−15奈良県の市町村合併実施状況. 図、3−1フェニキア人とギリシア人の植民地活動 図、3−2現在における主要なギリシア語語源の分布 図、3−3アレクサンダー大王の東方遠征とアレクサンダー市の分布 図、3−4 ローマの植民地名、支配者名をもつ主要地名. 図、3−5地中海世界の大まかな語源分布 図、3−6アラブ帝国の拡大. 図、3−7植民地政策によるアラビア語語源地名のみられる地域 図、3−8アフリカ沿岸における主要なポルトガル語語源地名 図、3−9カリフォルニア半島とカリフォルニアの海岸部における「聖」 (サン、サンタ)の付く地名の分布. 図、3−10南北アメリカ大陸の植民地化 図》3−11北アメリカ東部の植民地と移住. 図、3−12イギリスのカナダ中央部領域の拡大 図、3−13オーストラリアの探検 ix.

(11) 図、3−14オーストラリアの主要地名における人名の活用 図、3−15小アンチル諸島における植民地争奪 図、3−16地申海における軍港及び軍事基地. x.

(12) 表一覧 表1−1. 地名からみたソ連の主な動き(1991、12現在). 表1−2. アフリカの一党制国家(1988、12現在). 表1−3. アフリカの軍事クーデター. 表1−4. 中央アフリカ連邦の面積と人口. 表2−1. 「The Times Atlas of the lorld」の索引にみられるロシア語の 「赤」を地名化した名称. 表2−2. 廃国と分国(新設国). 表2−3. 除・削封高一覧表. 表2−4. 兵庫県における大区小区の区分と名称について. 表3−1. 19世紀末南アフリカの金・ダイヤモンド輸出額. xi.

(13) 序章 1、研究の視点 地名には自然名称、普通名詞、宗教的名称、政治的表現、人名、民族 名など、ありとあらゆる名称が活用されている。これは日本に限らず、 世界でも同じことがいえる。地名は一度定着すると、後の時代まで根強 く残り、民族移動、支配権力の交替、社会変動等が起こっても発音の一 部こそ変化すれ、語形や語源などは簡単には消滅しないものである。そ れゆえ、地名は貴重な過去の様子を今に残す文化遺産の一つであるとい える。. このような地名であっても、何らかの政治的理由で、意図的に変更さ せられることもしばしば起こっている。この政治的意図によって命名ま たは改名された地名から、国家政策なり、政権の特徴なり、あるいは国 家の抱える民族問題、地域性などが考察できるのではないかと考える。 政治的意図による地名命名の研究とは、言い方を変えれば、地名の語源 や由来を、政治地理学的な手法から研究することともいえる。しかし、. それは政略的名称、軍事的名称、支配者の名称など、政治色の強い名称 に限ることのみを意味するものではなく、その地名が、たとえ自然名称 や普通名詞、人名、宗教的名称であっても、政治目的のために、命名あ るいは変更され、活用されて、大きな影響を与えているのであれば、当 然政治的意図による地名といえる。. そして、ここではできるだけその語源にこだわり、語源からその背景 や目的を考察していくことにする。ただ語源にこだわるといっても“語 源そのものがどういう意味であると考えるか”、“何語に由来するもの と解釈した方がより適切であるか”といった語源説を研究するものでは 一1一.

(14) ない。. また地名には、大陸名、国名、大陸を区分するような地方名、世界的 大都市名など広い範囲を示す地名(大地名)があるし、逆に町内の番地 名、村落名などのように、一部の人しか知らない狭い範囲の地名もある。 ここではできるだけ大地名を対象にし、しかも世界的に知れ渡った地名. を中心に扱い、それから政治的背景を考察していくことにする。なぜな ら大地名は、それだけ政治的影響を受けやすく、政治の動きと連動して. いる場合が多いからである。その最も代表的な名称が、国名であり、政 権変更に於ける地名の改名や命名であり、植民地に命名または改名され た宗主国の地名であるといえる。. 2、研究の目的と方法 政治的意図による地名は、国家名称(国名)を例えにとれば、語源を 知ることによって、その国の成立事情を理解することだけに限らず、そ の国の奥に潜む基本的政策、その国の抱える根本的課題や問題点、又は 国家信念、国際環境、民族構成、歴史的過程など理解できる場合が多い し、複雑な現在の政治問題を理解する手掛かりとして役立っ場合もある。 このことから、世界の地名を考察するにあたっては、語源を基礎に置い て考察する。これに対し、日本の場合は、政治的意図による地名命名と. いっても、国内問題の域を出ないたあ、語源にこだわるより、そこに潜 むさまざまな背景や命名過程の方が、より重要と思われるので、ここに ウエートをおいて考察する。このような方法は、歴史的通説から外れる ことも起こり得るかもしれないが、歴史的通説にはこだわらず考察して. いきたい。そして、これによって他の条件では見えにくい要因が少しで も見えてくれば良いと考えている。 一2一.

(15) 具体的には、第1章の第1節では、最も政治的意図の強い独立国家の 国名変更を扱う。現在世界の国家の中で、独立後国名を変更したのは1 割弱みられる。このような国家は、なぜ名称を変更したのか、変更しな ければならない理由は何であったのかを考察し、ではどういう意味をも つ地名に変更したのか、国名変更をして、どのような国造りを行おうと しているのか、さらに明確な判断が下せる国に対しては、これによって 改名後に国家にはどのような変化が起こったのか、国民はどういう影響 を受けたのか、という問題を考察する。. 第2節では、植民地であった地域が、独立するにあたって名称(国名) の変更を行った国を扱う。これもほぼ1割弱存在する。このような国々 において、独立までの歴史的過程はどうであったのか、どのような背景 で独立したのか、独立後はどのような国造りを目指したのか、目標とし た国造りが達成できたのかを考察する。. 独立国の改名も、独立時に於ける新国名命名(改名)も、両方ともそ の背景が千差万別であることから、できるだけ多くの実例をあげること にする。. 2章では、国内に政権の大幅な変更があった場合、すなわち前政権と は180度転換した政権が誕生した場合、その政権が政治運営のために地. 名をどう活用したのかを考察する。このうち、1節の前半では、ソ連の 成立と地名変更から、どのような地名を活用して社会主義化を推し進め ようとしたのか、その後の政権との係わりで、地名がどのように変更さ れていったか、そこにはどんな弊害が生まれたのかを考察する。後半に は、ソ連の崩壊で、社会主i二化推進のための地名は、現在どのように扱 われ、どのような変更や改名がなされているかを調べ、国民が社会主義 そのものをどう考えているのかも考察の対象にする。. 一3一.

(16) 第2節では、日本の地名を取り上げ、長い歴卑の中で、政治的意図が 地名に最も明確に影響を与えた律令時代の地名政策と、明治における封 建制度払拭のための地名政策を考察する。律令時代は、国家権力渡透の ために、意図的、無意図的に地名を活用したが、どのような方法で社会 に浸透させて行ったのか、地名の改名によって、律令制度が浸透できた. のか、その後の日本社会に根付いていったのか、という点にウエートを おいて考察する。明治の改革では、近代国家に生まれ変わるために、地 名をどのように変更させて改革に活用したのか、特に府県名の命名は、 どのような政治背景の下で決定されたのか、地域の反応はいかがであっ. たのかを考察する。これと共に、市町村再編成における地名政策にも焦 点を当て、国家の地名政策に対して、地方の対応がどのようであったの かも含めて考察する。. 第3章では、植民地支配と地名政策の関係を中心に、支配国家は植民 地に、どのような意味をもつ地名を命名しながら、どのような意図で支 配下に置いていったのかをみていく。. 第1節では、大航海時代以前の植民地名称として、古代の4力国と中 世の1力国を取りあげる。古代の植民地では、最初にフェ.ニキア人の活. 動を、現在に残る地名から判断し、植民地政策を考察する。2番目に同 時代のギリシアの植民地活動と地名命名から、植民地的名称の一部と考 えられる神話名称の身布、その他のギリシア地名の広がりから、当時の 植民地状況を考察する。3番目にアレクサンダー大王の東方遠征に伴っ て行われた都市建設と地名政策をとりあげ、政治方針を考察する。そし. て4番目にローマ帝国が、各地を支配するために命名した三品地名や支 配命名、先住民との合成地名などを分類し、その当時の支配状況と政策 を考察する。中世の植民地政策ではイスラム帝国、中でも特にアラブ人 一4一.

(17) の植民地政策に焦点を当て、地名命名と植民地の関係を考察する。. 第2節の大航海時代以後では、ポルトガルとスペイン、そしてイギリ スの植民地政策と地名命名の特徴を取り上げ、どのような目的をもって 植民地化を進め、地名を命名していったのか、国家によって地名命名に はどのような特徴がみられたのか、地名命名により、どのような支配地 域に変えていこうと考えていたのかをみていく。ポルトガルやスペイン の植民地名は、初期は伝説的地名がかなり命名されたし、もう一つの特 徴は、最初から最後まで宗教地名が多く命名され、宣教師の活動が大き な役割を果たしていた。このことについても、古代、中世の宗教地名と. の比較も交えながら考察する。イギリスの植民地政策においては、最初 からイギリス人が入植した地域の地名、他の支配国から植民地を略奪し て入植した地域の地名、また入植者は少ないが政治経済的支配を目的と した植民地の地名、さらに軍事、交通ルートとしての植民地の地名の三 種類に区分して、その相違を考察する。. 以上のような見方をしていくと、どうしても植民地の地名は、支配者 側の見方に陥ってしまいがちになる。しかし植民地地名の考察において、 忘れてはならない事は、その結果支配下に置かれた先住民は、どのよう な影響を受けたのかである。先住民の地名は、闘違いなく減少している し、特に文字を持たなかった口承文化地域では、この傾向がはなはだし かったといえるが、これもほんの僅かだが推測できる範囲で扱う。. なお世界地名語源の研究内容の扱いについて、少し触れておくと、語 源そのものは、その地域の歴史的背景や当時の民族分布、自然状況など を基礎として、何語に由来しているのか、総合的な判断が必要となるが、. その研究状況からみて、①語源解説書、各種百科事典、その他の専門書 など、同じような説明が数書にみられ、語源が明確なものと、ほぼ明確 一5一.

(18) なもの、②語源説は数種類に分かれているが、それぞれの語源説は明確 に説明されているもの。③特定の著書にしか語源説明がみられないが、 その語源は何語に由来するか説明があるもの、④特定の著書にしか説明 がなく、意味は述べられているが、語源、由来の説明が明確に行われて いないものなどに分けられる。ここでは①を中心に取り上げ、②や③は 必要に応じて紹介し、④については説明上どうしても取り上げなければ ならない場合に限り記述することにした。. 3、既往の研究 地名研究の中で、政治的意図による地名命名に限定して研究された論 文は少ない。時々地名研究の一部として扱われているが、本格的に世界 を対象に扱ったものは見当たらない。日本の場合は・律令時代の地名と. か、地名の好字化、2字化、あるいは地名と歴史などとして、それぞれ の単元で政治的要素を含めながら記述されたものはみられるρ. 参考文献としては、今回の論文の中心テーマの一つにもなっている地 名の改名をみるため、Adrian Room,Place−Name Changes since 1900、. Routledge and Paul l980をかなり多く活用した。これは変更のあった 世界の地名について扱ってある異色の著書である。. 世界の地名における語源研究の分野では、まず研究の絶対数が少ない。 そこで、基礎となる地名語源を求めるために参考とした文献は、外国地 名研究の宿命ともいえるが、あらゆる分野の著書にわたり、多数に及ん だ。その中でも、特に参考となったものを記述すると、r外国地名解説』 (高橋 勝著、明治図書、1928)である。この著書は的確に語源を解説. し、地名によっては、各国言語による呼び方も記載されているので、後 の調査のうえで大変参考になった。ただ歴史的背景、民族的状況などの 一6一.

(19) 説明を入れていないのが、残念であった。そのため歴史的背景、民族的. 分布状況、自然環境などの方面からの語源確認についてはrブリタニカ 国際百科事典』(フランク・B・ギブニー、TBSブリタニカ、1972)をはじ めとする各種百科事典、r世界地名大事典』1∼8巻(渡辺光ほか5名編集、 朝倉書店、1973)、r世界歴史事典』第1巻∼第25巻、(斎藤道太郎編集、平凡 社、1951)、 『アジア歴史事典』第捲∼第11巻(下中邦彦著、平凡社、1959). などを活用した。またrブリタニカ国際百科事典』やr世界地名大事典』 1∼8巻、r世界歴史事典』第1巻∼第25巻、 rアジア歴史事典』第1巻∼第11巻自体も、. 地名によっては負けず劣らず語涼についてかなり詳しく説明がなされて. いる。以上の著書が最も活用度が高かったが、これ以外にはr世界地名 の語源』 (牧 英夫著、自由国民社、1980)も大いに参考にした。これ. は歴史的背景を語源解説に入れているので、地名命名過程が理解しやす い。他にはrアシモフ選集歴蠕8世界の地名』(岩田一雄監修、小栗啓三訳、. 共立出版、1969)は、関連性のある地名を一まとめにして、読物風にまと. めてある。その他、地名語源に触れてあるものではr東南アジア社会文 化辞典』(河部利夫編、東京堂出版、1978)、rシルクロード事典』(前 島信次、加藤晶出共編、芙蓉書房、1975)などのような特殊な事典類と 歴史関係の事典や書物に比較的多く記載されている。多くの著書の説明 を参考にし、さらに各国の辞書を活用して、語源が確認できるものは調 べた。. 外国文献としては、 Eilert Ekwa11, The Concise Oxford Dictinafy of English Place−names , Fourth Edition,1959. Calvert Watkins,The. American Heritage Dictionary of Indo−European Roots, Boston, Ho− ughton Mifflin Company 1985. T, F, Hoad, The Concise Oxford Dictio一一. nary of English Ety皿010gy,Oxford University Press,1986。を部分的. 一7一.

(20) に活用し、語源の確認できるところは参考にした。. 日本の地名に関しては、かなり詳しく研究され、出版されているもの. も多いが、特に活用したのは、角川日本地名大辞典の1r北海道』上巻 から47r沖縄県』までの各県ごとの地名辞典(竹内理三編纂委員)と、平. 凡社版r長野県の地名』第20巻とr奈良県の地名』第30巻(下中邦彦編 集)をはじめとする各県の地名辞典(未完成で発刊されていない県もある) 、それにr日本地名大事典1∼7巻』 (渡辺光他3名編集、朝倉書店、1967). 、r都道府県名と国名の起源』(吉崎正松著、古今書院、1974)などを 中心に活用した。. 今回の世界の地名の語源については、主に1980年までに私なりに調査 済みのものを中心に活用したため、最近出版された文献については、基 本的にあまり活用していない。しかし最近新たに出版されているものの 中にもよい文献があり、一部新たに引用したものもあるので、それらも 含めてその他の主な参考文献についてはまとめて巻末に記冠する。. 一8一.

(21) 第1章. 政治と国名. 地名の中でも地方名、都市名、自然地名などは、普通名詞がいつの間 にか固有名詞化したものや、素直な気持ちであるがままの状態を呼んだ 名称が地名化したものが多い。これに対し、国名(国家名称)はそうい う地名とは趣を異にし、その名称に秘められた意味や由来には、他の地 名では言い表せない、地理的、歴史的、政治的、経済的、社会的、民族 的な複雑な要因が加わり、総合的内容を含む名称となっている。そして それは練りに練った末の命名であり、国家を一言で表現する一手般とも なっている。. 例えば、多少の地理的歴史的学習をすることによって、「アイスラン ド共和国」と聞けば“氷の国”を想像し、国土には現在も氷河(実際は 全土のll%程だが)があって、各地に氷河湖も散在するだろうというこ とは想像できるだろう。また「アメリカ合衆国」といえば、新大陸説を 唱えた「アメリゴ・ベスップッチ」の名称に因んだもので、発見以降は 移民グ入植し、それが現在の国家の基礎となり、しかも各州(50)が合. 同して1南国を形成する、ということが大まかであっても理解できると 思う。このように、国名だけでもかなりの内容が推理できるといえる。 それだけに命名にあたっては意図的で、慎重に審議されるが、一度命名 すると、よほどの事がない限り、簡単には変更しないものである,,国民. の多くはその名称を誇りにし、心の寄りどころにしている場合が多い。 そして国名はその中でも多くの人々に最も大ぎな影響を与える地名なの である。ここでは国名に焦点を当て、命名方法や改名といった行為から、 国家の抱える政治的背景や問題点、国民への影響などを考察していくこ とにする。. 一9一.

(22) 第1節. 国名変更からみる国家の 政治的背景. ■、国名変更について 政治的意図によって命名された名称、すなわち国名の場合でも、国家 の政治的事情の変化によっては改名することがある。改名する場合は、 必ずそこには何らかの大きな理由が存在する。その改名も、基本となる. 名称(例えば「オートボルタ」を「ブルキナ・ファン」と改名)を変え る場合と、政治体制の表現(例えば「ルーマニア社会主義共和国」を「ル ーマニア」と改名)を変える場合の二通りがみられるが、ここで1ま基本 となる名称の変更を取り上げ、地理的、歴史的、社会的、民族的、宗教 的など、さまざまな要因を考慮しながら、その政治的背景をみていくこ とにする。. 国名変更という行為は、一種の“国の顔”を変える行為であり、これ まで積み上げて来た国際関係(国際的信用)、国内政策に至るまで変更す. る場合が多く、極端な場合は、国の自己批判にも通じ、それまでの歴史 的な努力や行為まで否定することにもなりかねない。ソ連崩壊後のロシ アが、‘旧ソ連の国際的公約は全て遂行する”と世界に明言したのも、. 国名の持つ意味がいかに重要であるかを物語っているといえる。15力国 に分裂しても、ロシアがソ連の名称をそのまま変更しなかったとしたら、 このような声明は出さなくてもよかったはずである。それだけ国名変更 という行為は意義深いものを含んでいるといえる。. 1993年1月1日現在、世界には国連に加盟している国家は179力国あり、 他に非加盟国の中でスイス連邦、バチカン市国、モナコ、マケドニア、 一10一.

(23) キリバス、ツバル、トンガ、ナウルの一般的に独立国と見なされる8力 国を加えると、187力国(1993、5月に独立したエリトリアを含あると188 力国)あるが、独立国家となった後に、何らかの事情によって変更した. のはそのうちの1割弱もある。改名した国を国家の内外事情を考慮して 分類、検討してみると、問題の内容も多種多様わたっている。このたあ、 できるだけ多くの改名例をとりあげ、地名の由来をキーワードとして考 察していくことにする。. :1■、国際問題が絡んだ国名変更 鎖国以外はどんな国家でも外国の影響を受け、また自らも与えるもの であるが、その影響が極端に強くなり、政治的圧力、軍事的圧力などと なって加わってくると、それを払拭するための一手段として、あるいは 間接的抵抗の意思表示として、国名を改名する場合がある。外圧の最も ひどい場合は、これに耐え切れず国内が分裂し、他国の援助(干渉)を バックに、国内が幾派にも分かれて権力争いに陥る場合もおこる。ここ. ではk間接的抵抗の意思表示として、国名を変更した例には「タイ」と 「イラン」をあげ、また幾派にも分かれて権力争いに陥った例には「カ ンボジア」をとりあげて考察してみる。. ■、タイ(シャム) タイ人は7∼8世紀頃、現在の地に南下してきたが、当時は統一した部族. 名も国名も持っていなかった。14世紀にアユタヤ朝が統一国家を形成し たあたりから、周辺諸部族(カンボジア人、中国人など)から「シャム」 一11一.

(24) と呼ばれるようになった。この名称はチャオプラヤー川流域のタイ人を. 指した呼称であったが、そのうち自らも自国を「サヤームSayamJと名乗 るようになった。ただ同時代から「タイ」という自称名もあって、状況 により使い分けていたようである。中国や日本でも「逞」または「逞羅」 と書いてシャムまたはシャムロなどと呼んだし、後のヨーロッパでもだ いたいシャムという系統の名称(ポルトガル語のSyaoを通じて英語、フ ランス語に入った)を用いた。シャムという名称の発生については、ポ ーナガルのチャム語碑文(1050)をはじめ、幾つかの記念碑に刻まれてい るサヤームSya皿という名称が基礎となっているといわれ、これはパーリ. ー語のシャーマSyama“暗褐色”“浅黒い”という意味が語源であると考 えられている(2)。これが現在までの最も有力な説である。シャーマと いう名称の起こりについては、J・B・PallegoixやJ・Bowringによると「暗. 褐色人」を指したものであると主張し、G・E・Geriniや杉本直次郎は「大 黒山」という山名をさしたものと主張している(2)。なお、タイ国学界に おいては、今だ定説がない。. 1938年、軍官派のビブン・ソンクラームが首相となり、実権を握ると、. ナシ9ナリズム政策へと転換させ、企業の国有化を図るとともに、国産 品の愛用を奨励し、教育もタイ語を国語とする、きびしい国家統制のも とにおき、華僑の同化を促進し、服装の欧米化も進めながら、近代国家 にふさわしい国造りを始めようとした。つまり、この一連の改革によっ て英仏の緩衝国的立場から、事実上の独立国に脱皮しようとしたわけで、 その決意を宣言する方法として、国名も「シャム」から「タイ」に改名 したのであった。国名の変更という行為は、これに加え領土的、民族的 な問題も含まれていた。すなわちビルマ、ラオス、ベトナム、中国など の国外に住むタイ諸族1000万人の大同団結(これを大タイ主義または夕 一12一.

(25) イ・ヤイ運動という)と、英仏によって割譲させられた領土の失地回復 をも念頭に置いたものであった。「タイThai」とは、もともとタイ部族 の言葉からおこり、 “自由”を意味した(t)。 .ノ. 、㌧. ’J. 、魂. 隻. o. マ.:ケンタオ. 浅. ㍊鐵網. ’、 海南島. 5国 メ. ”. ム. ぐ醐. ’“”. 忘ノ. x. N. ノ. \メ. !. 一t/〆. ナタイ国. .{. c. x. プ9 7. ・一 %. 乱§ ペナン屯ノ. 三‘. NL一;’. 一一■■…・. t::ン.. 鞍薪饗謬。. x.. ノ 9.. ヲx. ’k. 18’. 一1940年のタイの境界線 境界線. 噂 コ. ム. N.. 一一 э. @十. k.. 9.・・S’. ト. 〉. 臥. ノ 3心 シャム湾. 薦1. r. =】 、. パン’,・へ至、z}. 2川. 」‘』』重・. s. メ 、 アユタヤ. 0・ 200塩. ル羅…獄. :t・一’rl ・・,.,/1・. チェンマイ. ny. ビ. ンキン湾. 一・. 燈ハ. 一一一. @三ヨ、カンボジア __. ノ_._.. _““. ノー一=一. O 200. P日領土境界線. ..4. 戸9. ?≡三. ’.. m一一u.i. O. 南ベトナ:ム. 図1−1、タイ国国境の窒遷. 「政治地理」第4集P153、日本政治地理学会 古今書院 1971より (タイ国政府の発表せる失地表) 1・ ペナヒ島(1786弔,英国に奪bる) 2・ メルグイ地方(1793rp,ビルマ征煎により英国に帰ナ) 3・ 交祉支瓢 カンボジアの南部G867年仏[ヨ;:侵SSさ.る) 4・ トンキン地方(1888SF.仏国へ重日) 5・ メコン左岸一帯(1893年,仏国へ割譲). 6. カンボジア北部,メコン右岸地方およびルアン・プラバ ン地方(1904年仏国へ割譲) 7・パツタンパン地方(1go7SF.対u.tunc). ===二ニニ=お.・. サさコ. _,レ♂{ 一ケダ■. ヨ. 第二次想:界_. :rラZ£折 t” 薫ト.・カ・・≒ …一;一._.. 匿ヨ大戦中タイ壽マレー’嵐. 国り占鎮地一一 シア. 8. ケダ・一}ケランタン地方(190/J SF,英国:こ奪取される). 図卜2、第二次世界:た戦中のクイ国の占領地. 「政治地理.1第3集P98.日本政治地理学会 占ノi書院. 19}18より. このような当時の国際状況下で、日本の東南アジア進出がおこり、タ イ国の立場もいやおうなしに何らかの対応をせまられ、結果的には1942 年、東南アジアの戦況から日本.に味方し、米英に対し宣戦布告して太平 洋戦争に加わっていった,、しかし日本の敗色がふかまると、国家存亡の 一13一.

(26) 一大事と考え、支配者であったビブン・ソンクラーム政権が退陣し、タ イ国は対米英への宣戦布告は無効であると宣言したうえで、戦争中日本 と共に失地回復した領土を返還するとともに、’46年には再び国名を以前. の世界より承認されていた「シャム」に戻した。これは「タイ国」への 改名とほぼ時を同じくして太平洋戦争に参加したことから、戦争参加は タイ国の本心ではなかったという証しとして、旧名に戻したものと思わ れる。ところが、米英の予想以上の寛大な措置により、この大戦で戦犯 を免れたビブン・ソンクラームは、再び政界に返り咲き、1948年内閣を 組織し、翌年新憲法を発布すると、初期の目的遂行にむかって遭進し、 再度国民が好む「タイ国」に改名した。のちサリット政権時代(1959∼63). に、この国名問題が議会で審議されているが、最終的に「タイ国」名称 を用いることを確認し、現在に至っている。. 「タイ」という名称への改名は、国民にれっきとした独立国家である という意識を植え付けたという点、政治的に民族主義政策(民族団結) を取ることを宣言したという点においては、それなりの意義があったと みることができよう。国名は、正式には「プラテート・タイPrathet−th ai」、一般には「ムアン・タイMuang Thai」といい、共に“タイ国”を 意味する。. 2、イラン(ペルシア) 1935年までは「ペルシア」と呼ばれていた国で、今から2500年前アケ メネス王朝によって、この名称が世に知られるようになった。「ペルシ アPersianjとは、現在のファルスFars地方(ペルセポリスの遺跡がある). の人々を、古代ギリシア人が「ペルシス」と呼び、これがさらに「ペル ー14一.

(27) シア」と変化したものである。またファルスそのものは、セム語のバル サParsaが語源で、“馬”を意味し、これから“乗馬者”すなわち“馬に 乗って戦う者”を指した名称であった(D。 N. ’1 ソ九.連(ロシア). 嫁.. /勾. 。一一’o;. @幅. z. 一 身 cr. 図1−3、ロシアとイギリスの緩衝国ペルシア 改訂「政治地理」P92、岩田牽三著 帝国書院 1958より 18世紀末に成立したカジャール朝が衰退した後、1906年ペルシアは立 憲君主国になったが、現実は図1−3の如く、イギリスとロシアの勢力範 囲と中立地帯に3分割された緩衝国であった。・. 第一次世界大戦後、一時単独でイギリスの保護国にされそうになった が、これを警戒するソ連の野心的動きや、ペルシア国内にも部族紛争問. 題などが発生し、1926年イギリス、ソ連、ペルシアが、共に強力な政権 の必要性を痛感し、その結果成立したのがパーレビ朝であった。リザ・ 一15一.

(28) パーレビは、イラン国民運動の指導者に迎えられ、両大国の勢力抗争を 巧みに利用し、両国の相乗り計画を排除すると共に、遊牧部族勢力を押 さえつつ近代国家の育成に努め、国家の自主性を実現していった。そし て1935年には、外国からの慣習による緩衝国時代の地名ではなく、誇り 高い民族誌を国名とし、「ペルシア」から「イラン」に変更したのであ る。この改名にはイギリス、ソ連の勢力を排除し、真の独立国家になる 意志を国の内外に間接的に宣言したことと、もう一つはヨーロッパ系白 人とルーツが同じであるという自:負心と、周りのアラブ人地域やアジア. 人国家とは違うという優越感があり、この国民の自尊心をくすぐって国 家統一意識の高揚にもっていこうとしたことが、変更した大きな要因で あったと考えられる。「アーリアーン」→「イーラーンIran」とは“ア ーリア人の国”を意味する「アーリアーナAriana」の変形である。アー リアAryaは、サンスクリット語で“高貴な”、‘客あしらいのよい”を、. ナNaは“国”を意味する(1)。中央アジアあたりで遊牧生活を営んでい た人々が、前2000年頃移動して来て、「生まれも人種も高貴である」と自. 称したことからでた名称である。ただ、「イラン」という名称そのもの は新しいものではなく、既に前4世紀にはアレキサンダー大王に従軍し たギリシア人が、イラン高原を「アリアナAryana」地方と記録していた ことや、またササン朝時代に、「エーラーシャハル」 “イランの国”の. 意味で国名に用いられていたこともあり、新しい地名というより、古き 良き地名の復活であった(D。国名変更は国民の意識高揚と国家の結束 にとっては意義深く、的を得た最良の改名であったと言えよう。. 3、カンボジア(クメール、カンプ チア) 一16一.

(29) カンボジアは、1953年11月9日の完全独立以来、王政と仏教の伝統を守 りながら国民の統合を図り、経済政策では社会主義化を取り入れた国家. 建設を目指した。つまり理論的には一見矛盾した状態とも思える王政社 会主義政策をとったのである。別の見方をすれば、ジュネーブ会談以降、 東西両勢力のバランスを考え、外国軍勢力を介入させないためにインド シナ半島での永世中立国を目指したものといえた。しかし現実的には長 い歴史的体験から、絶えず隣国の脅威を感じ、国家防衛と社会主義経済. 政策推進の目的も加わってしだいに中国に接近していった。ところが社 会主義経済政策の失敗から、後には西側諸国に遊づき、これが元でシア ヌーク政権は国内左右両派の支持を失い、独立以前からくすぶり続けて いた国内の混乱に、さらに拍車をかける形となった。このような弱体の 内政に世界の大国(中国、米国、ベトナムと背後にいたソ連、アセアン 諸国)、の利害や政治的野心、圧力等も加わり、そのカを借りた国内グル. ープの手によって、泥沼化した内戦へと発展したのが実情であった。カ ンボジアの場合は、異民族間の対立ではなく、本来なら協力して国造り に励むはずの、同一民族間の抗争である点がなんとも悲劇的である。. 国名の変更をみても、カンボジア王国(1953年11月シアヌーク政権= 中国寄り)、クメール共和国(1970年10月ロン・ノル政権=米国の後押 し)、民主カンプチア(1976年1月ポル・ポ.ト政権=中国毛沢東の影響)、. カンプチア人民共和国(1979年1月ヘン・サムリン政権二ベトナムの支援 と援軍、背後にソ連の支援)、カンボジア国(1989年4月シアヌーク派、 ポル・ポト派、ソン・サン派の3派連合=中国、米国、アセアン諸国支. 援)と目まぐるしく国名を変更している。なお1982年からはヘン・サム リン政権と3派連合(各派独自性を主張)の二重政権が存在しており、 一17一.

(30) 正確には2通りの国名が存在していたことになる。このような状況だけ をみても、内乱による政権交代と外国の介入が激しかったことを物語る ものといえる。すなわちこの内乱は、大国がカンボジア国内の政治的不 安定さに乗じて、派閥支援という名目で軍事介入し、勢力拡大を図った、 いわば代理戦争そのものであったといえよう。このような複雑で悲惨な 政治状況や国民の苦しみ、さらに世界情勢の変化(ソ連の崩壊)の中で、 1990年8月国連監視下の下で和平案が出され、翌年10月カンボジア4派と 19力国が参加し、パリで和平協定が調印され、一応内戦に終止符が打た れた形になった。そして今後は国連の監視の†に国造りに励むというよ うに、道はつけられてはいるが、今後もこのような内乱の動きが起こら・ ないとは言いきれない。’. 国家名として使用された名称では「カンボジア」、「カンプチア」、. 「クメール」の3種類の表現がみられたが、「カンボジア」と「カンプ チア」は基本的には同じで、例えば「日本」を「にっぽん」とか「にほ. ん」とか表現するのと似て、古くから2通りの言い方がみられることか ら、ここでは「カンボジア」と「クメール」についてみることにする。. カンボジアKa皿bodia(カンプチアKampuchea)の名称は、6世紀後半の王 国建国説話にみられ、その語源は、海の彼方から来たバラモンのカンプ Kambuと、この土地の一女ナーギNagiとの間に生まれた子を、民族の発祥 とするとして“カンプの子孫たち”というような意味であると説かれて いる(2)。つまり皮肉にも、国名は“平和な仏教徒の国家”であることを. 表しているのである。クメールKhmerという名称も、この説話とほぼ同時 に発生しており、住民が自称するときは、クメールと呼ぶことが多いが、 その語源は不明である。厳密には「カンボジア」は伝説を、「クメール」 は言語を指したものだが、現在では両名称の使用上の区別は、殆ど無く 一18一.

(31) なってきている(2㌔どちらを使用しても国民にとっては由緒正しき名 称である。. M. 1969年、共産勢力 の下にある地域. 午. 「ご。マ、11973年・共牽勢力 覧. ゙三∴」の下にある賜 、●■r■レホーチミンルート. 、. .. 獅蝉. ・. ●. ●. ●. ご筋. 怐A. 、. ; 、. t。・㌦.○ 浮ネ亀●... 覧∴・. ’. 、噂. o. 5◎c髪r匹. 図1−4、周辺諸国の影響を 受けるカンボジア. 「世界歴史均図」 学習研究社、1979を参考に作成. 皿、国内問題を中心とした国名変 更. 馳国家のほと./V・e’すべては・国内の皇臣族問題脳んでいる・国家に. よってはさまざまな対応をしているが、その中で最大民族による単独支 配で国家運営を行おうとし、その意志表明として国名変更を行ったのが スリランカであった。逆に多くの部族対立を吸収し、何か新しい目標を. 設定して部族主義という発想を消滅させ、iつの国民として国家造りに 励もうとしたのがザイールであった。,また中央集権国家を形成して強い. 一19一.

(32) 統一国家を築こうと改名したのはアルゼンチンであった。この全く対応 の異なる3国から、政治的動きと国名変更を見て行くことにする。. ■、スリランカ(セイロン) この国は{前5世紀頃、北インドから移住してきたシンハリ人(約7割)、. やや後(前3世紀頃)にインド南部からきたタミル人、19世紀半ばコーヒ 」栽培(のち茶の栽培)のためインド南部から連れて来られたタミル人(イ. ンドタミル人と呼ばれる♪、アラビアから商業などのために来て定住した. アラブ系ムーア人、山間の奥地にほんのわずかな数だけ残る先住民と思 われれるグエッダ人などが住む多民族国家である。. この平和な島を、香料確保(支配)の目的から、1505年にはポルトガ ルが、1656年にはオランダが支配し、さらに1802年にはイギリスがアミ. アン条約によって直轄植民地とした。そしてここをプランテーション農 業地域変え・労働力としT(’インド南部から多くのタミール人を移住させ. た。20世紀になると、インドの独立運動高揚が影響を与え、この島にも 民族意識が高まり、1948年にイギリス連邦内の自治領という形で独立し た。独立時の国名は、植民地時代の名称をそのまま用いて「セイロン」 と命名された。「セイロンCeylon」とは、シンハリ族にまつわる伝説か ら出た名称で、サンスクリット語のシンハラドウィーパSinharadvipa(パ ーリー語ではシーハラディーパ)“シンハリ(ライオン)族の島”の意 味(1)のシーハラ“ライオン”だけが残り、この名がさらにアラビア人、. ヨーロッパ人に伝わるうちに変形して、セイロンといわれるようになっ たのである。この由来は、セイロン島を征服したシンハリ族のビジャや. 王というのが、ライオンとの間に生まれた子で、シンハリ族もその子孫 一20一.

(33) であるという伝説から発生している。ただしセイロンという名称は、シ ンハリ族を指すものであることは間違いないが、他民族から呼ばれた名 称であって、自らが進んで用いたものではなかった。. 独立当初、統一国民党(シンハラ人による保守政党)が政権を担当し ていたが、・1956年にバンダラナイケ政権(スリランカ自由党)ができる. と、シンハリ人中心の急進的社会主義政策を取り、少数民族に対する譲 歩など考えない強硬的政策をとるようになった。これは多数派のシンハ リ民族からは大いに支持された。そして具体的には、それまでのシンハ リ語、タミル語、英語の公用語.を、シンハリ語のみを公用語とすること. に改定したり、1972年の法律制定に際しては、国名まで「スリランカ」 に改め、英自治領からも完全独立を果たし{さらに1978年の新憲法公布 には、仏教を国教と定め、これまでの多民族共存の政策を捨てて、シン ハリ族中心の国家作りに遭諭したのであった。これによりヒンズー教徒 のタミル人などは、従来就職できた国の官僚(一般公務員も含む)などの ポストからも締め出される結果となり、1中でもプランテーションの労働. 者としてイギリス人が連れて来たインド南部のタミル人(インドタミル 人)の場合は、国籍すら取得できない状況となった。これに抗議し、抗争. となったため、のちインド国籍を取得しなかったタミル人に対し、1988 年忌スリランカ国籍が与えられた。しかしインド国籍を取得した者のな かには、まだインドから入国が認められず、無権利状態の者もいる状況 となっている。. シンハリ人が好んで用いる「スリランカSri−Lanka」という名称は、サ. ンスクリット語で“光り輝くランガ、“すばらしいランガという意 味である。スリSriは尊敬を表す接頭語で“光り輝く”“すばらしい”と いう意味を含み、ランカLankaはインドの古代叙;事詩「ラーマーヤナ」. 一21一.

(34) にでてくる“島の名称”で、魔王ラーバナRavanaの居城のあった土地と されでいるが、語源は不明である(21)。前5世紀頃、この地に移住して. 来たシンハリ人立らが、インド亜大陸南芳の島をみて呼んだ名称といわ れており、それは極めて古い名称である。. 晩照人)風 ss pO. LTTE ル〉,. 1990年6月戦闘再発. インド軍. 1990年 N. 干. l!. 政府軍・警察. 3月撤退 マンナール湾. 多>1乙 囮. .、. タミル人の主張するy.. 一/形 .〈.. 分離独立地域 スリランカ政府. コ0ン示. ロ スリジャやつルダナブラコツテ. N. 竃. −v,. 〉. 〆ノ. 7’v’. 敵意へ/ Ioo. 図1−5、スリランカの国内対立 「.地歴と地図資料」帝国誉院P且、1 tJ 94・1より. このように、スリランカという名称は由緒ある地名である事は理解で きるが、1972年当時、セイロンという名称を忌避しなければならない程 の格別な理由が存在した訳ではなく、改名することで、この国はシンハ リ民族独裁の国家になることへの意思表示をしたものにほかならなかっ.. た。本音は、社会主義路線を隠れ蓑にした民族主義以外の何物でもない と思われる。なぜなら、どうしても忌避しなければならない理由がある 二 22一.

(35) のなら「セイロン」という名称は、全て抹消されてもよいはずだが、中 央銀行や多くの研究機関、貿易関係の名称、島山など、当時の政治や政 策にそれほど関係しない多くの分野では、いまだに「セイロン」の名が、 そのまま何の抵抗もなく使用されているからである。. このような一方的決定に対し、タミル人は居住地域での自治を要求す るようになり、シンハリ人との対立も激化し、それが全土に広がり、後 には分離独立(イーラム国)の要求へと発展し、混乱状態に陥った。特 に北部、東部はタミル人がシンハリ人を上回り、インド政府介入の事態 にまで陥った。両国間の危機的状況は何とか回避したものの、今なお平 和への見通しが立っていなく、いつまた紛争が発生してもおかしくない 状態が続いている。. すなわち「スリランカ」への改名は、シンハリ人には好意的に受け入 れられたが、タミル人をはじめとする少数民族には受け入れ難い「好ま ざる国名」で、国内の民族的対立と将来の遺恨、国際間の紛争を残した だけであったといえる。現在世界には多くの難問が山積みされているが、 最も多いのは、領土問題とこの手の民族問題である。いくら小集団とい えど、民族尊重の原則を間違えると、このような遺恨を残し、抜き差し ならない問題になる。スリランカはその好例であろう。. 2、ザイール(コンゴ) アフリカ第3画面積(234.5k㎡)をもっこの国は、1960年「コンゴ共 和国」という名称で独立した。ヨーロッパ人(ポルトガル)がこの地に 来たときには、海岸沿いの熱帯雨林地域を中心に、既に「コンゴ王国」 という黒人国家が存在し、この名称を植民地名に活用し、ベルギーから 一23一.

(36) の独立時にも新国家名として用いたものであった。ただ西隣のフランス. 領コンゴも、同年同名のコンゴ共和国として独立したため、区別する必 要から、一般に首都名を付け、コンゴ・レオポルドビル(ベルギーより独 立)、隣国はコンゴ・ブラザビル(フランスより独立)と呼ばれた。. 「コンゴCongo」(またはコングCong)という国名は、原住民の言葉 (バンツー系の放言)で凹山” “山国”という意味であろうといわれて. いる(D。別説では“矢”を意味するという説(3)もある。ここは口承文. 化(無文字文化)地域であったことから、明確な語源説は記録になく、 部族言語より推定するため、このような不明確な由来説となるのである。 黒人アフリカ文化地域では、このような地域が多いため、地名研究のネッ クになっている場合が多い。. この国は、歴史的には一国としてまとまった経験もなく、200以上の 異なった種族がおり、そあ中の4つの主要部族抱けを合計してみても、全. 人口の45%を占めるに過ぎないほど多様性に富み、しかもその部族間に も不信感があって、全くの不統一な国内状態であった。部族間の事情を. 考慮した場合は、むしろ複数の独立国家となったほうが、より自然な状 態であった。しかし植民地化は、民族や部族といった基本区分に関係な くその領域が決定され、それが一国として独立するため、独立後は、多 くの困難な部族問題に対処していかなければならないのである。. 一例をあげれば、独立とほぼ同時に5年間も続いたコンゴ動乱は、部 族間の協調(統一)性の無さと利害関係が絡み、さらに常に各国を巻き込. む米ソの対立や、宗主国ベルギーの利害関係などもこれに加わって、鉱 山資源の豊かなシャバ州や、カサイ州の独立運動にまで発展した内戦と なった。これなどは統一性の無さの好例といえる事件であろう。すなわ. ち多種多様な種族のたあ、生活様式も、社会組織も、言語も、伝統も二 一24一.

(37) なっていて、文化的には共通性は何一つなかったのである。. アフリカの部族領域(G。P.マードックによる) 図1−6、アフリカの部族領域とザイール領内の部族領域 今西錦司以下3名、「民族地理」下巻、P165朝倉書店1965より. そんな状態であっても、独立後は一国家として政治体制や経済組織を 整えていかなければならなく、当時の国家指導者の最重要課題は、この 国家を、如何にして一つにまとめあげるかということであった。その結 果考え出されたのが、内乱続きのこの国において、部族の枠を超えた全 国民に当てはまる国民文化の何かのシンボル(たとえば国家祝日、国民 的英雄、国家目標、国名変更など)の形成であった。そしてそれを基に 住民の関心を集中させ、国民として、国家としての体裁と意識高揚を生 一25一.

(38) み出そうとしたのである。文化的には共通性は見当たらないが、幸いな ことに、自然的には唯一共通性があった。それは国土の大部分がザイー ル(コンゴ)川流域にあるということであった。. Eヨ鵬羅ンが. 手. へ !ノ. cj・. ノ. 副. 皿. 1964反乱勢力 の最大範囲. 6. 国連軍の基地. A. 1961ベルギー 軍の基地. r ’. f. t. t s. e. 4レ. 1. e. t. 図卜7、コンゴ危機1960ボ65 朝日タイムズ「コンパクト版世界歴史地図」. 朝日新聞社1984より作成. 国民意識高揚の最初の行動の1つとしてとったのは、地名のアフリカ 化で、1966年には都市名を次のように改名している,,首都レオポルドビ ル(ベルギー国王レオポルドの名から“レオポルドの都市”の意味(1)). をキンシャサ(原住民の村名から(D)に、コキラービルをムバンダガ (“植民地の市場”の意味(4’)に、スタンリービル(探検家スタンレ ーの名から)をキサンガニ(スワヒリ語で“川の中”の意味(「’))に、. 一26一.

(39) エリザベートビル(女王エリザベスの名から(D)をルブンバシ(キバン バ語で“陶土用の粘土のとれる土地”の意味(5))などに改名し、さらに. 地方を21州から8州に統合すると共に、例えば州民もカタンガ(先住民 の言葉で“壁”の意味(3))州をシャバ(スワヒリ語で“銅”の意味q6)). 州にと、都市名同様に改名している。さらに1971年には、ヨーロッパ名 を持つ街路や公共場所に至る地名まで改名する声明を出し、大統領個人 名自体も、ジョセブ・モブツというヨーロッパ名からモブツ・セセ・セ コと現地名に改名した。またアルバート(英国アルバート侯の名)湖は モブツ・出歯・セコ(大統領の名)湖と自然名称の一部も改名している。 そしてこれら一連の改革の最後の総まとめとして行ったのが、唯一の共 通性をフルに活用した1971年の国名変更を含む「ザイール化」だったの である。すなわち「ザイール」という名称によって国内を包み込み、政 治、文化》経済、社会など全てにわたる「大文化革命」を行い、外国勢 力の排除と部族中心的考えや、部族間の対立の払拭を行おうとしたので ある。. 「ザイールZaire」は、バンツー語のヌザディNzadiまtgはザディZade i. を語源とし、単に“川” “大河”を意味し、中流から上流にかけての部. 族の普通名詞であった{1)e国名の変更や決定においては、国家の最高 権力者の意見も大きく左右する要素の一つであり、モブツ大統領自身は、 赤道州リサラの出身なので、地名的にはこの辺りの河川名と一致する。 ただモブツ大統領自身は、部族中心主義を払拭するため努力していたこ とから、出身部族の名称を優先したというより、あくまでもナショナリ ズムの形成がその狙いだったことを付け加えておかねばならない。. この新たなシンボル的名称は、国名や河川名だけにとどまらず、通貨 単位(ザイール)にも用いられた。他に「ザイール」という名称につい 一27一.

(40) ては、いずれも準国営の独占企業であるが、航空会社には「エールザイ ール」、たばこ会社が「タバザイール」で、そのタバコ名が「ザイール」 、石油会社が「ペトロザイール」であり、さらに街角で売られているニュ ース雑誌も「ザイール」という名がつけられているものがある(18)。政. 府はこの「ザイール」という名称をさらに増加させ、多種多様な部族を 「ザイール」という名称の中に包み込むことで、外国勢力の影響を全て 排除し、「脱植民地、脱部族主義、そして国内統一」を創り出そうとし たのであるσ. しかしこの一連の政策は、その後充分効果を上げないうちに政策の変 更をせまられたが、多様性の統一、文化革命という点では、その努力の 痕跡が明確に残されたといえる。このような国内問題はザイールだけの 特殊事情とは言えず、すぐ後に同じような問題でナイジ.エリアが内戦と. なったように、多くのアフリカ諸国に当てはまることなあであり、世界 の各国にみられる主要政治課題の一つといえるのである。. 3、アルゼンチン(ラプラタ) スペインの探検家ディアスは、1516年に広い入り江を発見し、それが 海ではなく河川であることを知り、「マル・ダルチx Mar Dulce」 “淡 水の海”一. フ;意味と名付けた(9)が、1526年、同じ入り江にセバスチャン・. ガボットが着き、先住民の身につけている銀の装飾品から、上流には銀 が産出するのではないかと思い、この大河を「リオ・デ・ラ・プラタLio de la plata)“銀の川”の意味と名付けたといわれている(1)。この名. 称から同河川一帯は、ラ・プラタ地方と呼ばれるようになった。そして 1573年までには、領土は完全にスペインの支配するところζなり、ラ・ 一28一.

(41) プラタ副王領がおかれた。1810年に本国スペインが、ナポレオンの占領 下におかれたとき、この植民地にもフランスの手がのび、これを排除し たクリオーリョ(植民地生まれの白人)が、今度はこの機会に乗じてス ペインからの独立運動をおこし、副王を退位させて独立を宣言した。ラ・ プラタ地方以外でも独立戦争が続けられ、スペインの支配を脱した各地 方は、1816年7月9日にツクマン市に代表者が集まり、「リオ・デ・ラ・ プラタ合衆国」という新国名を採択して、正式に独立国家となったので ある。. スペインからの独立は達成したものの、中央集権的国家体制樹立を志 向するブエノスアイレス(ラ・プラタ地方を含む)と、連邦制国家を志 向する他地域との意見の相違から、政治システムは決まらず、対立となっ て無秩序な時代が続いたが、ブエノスアイレスがラプラタ地方から分離 することで、各地方が納得し、1826年中央集権的方針に一応決着して、. 国土全体に及ぶ新憲法が制定された。これを記念して国名も「アルヘン チーナArgentina」共和国に改名された。改名理由として、第一にブエ ノスアイレス(ラプラタ地方)の主張が一応通ったこと。第二に国内の 諸地域に配慮し、同名の国名を変更することで、感情的にもラプラタ地 方の優越感を取り除くのに役立つこと。第三に植民地時代のイメージか ら脱皮できること。第四に憲法制定した新国家の門出に相応しいこと。. 第五に以前の名称rリオ・デ・ラ・プラタ」合衆国の意味を引き継いで いることなどがあり、考慮の末政治的配慮から改名したものである。. なお「アルヘンチーナArgentina」とは’銀”を意味するラテン名ア ルゼンタムArgentumを語源とするが、これから、スペイン語でも“銀の (国)”という意味になる。さらにこの名のアルゲントargento“銀”. はプラタPlataの学術用語でもあることから、この名称が採択された(D。 一29一.

(42) このアルヘンチーナArgentinaを英語読みし、さらにそれを日本語読み してアルゼンチンとい.う。. ト. ●. gう”2. ぺ■. ズエラ嵩望a q. 湘「7,. チコ,一. ■ラング笥ギア7. グランリ. r鴇繍.. 11. 猛’nηア. !廿。”. ペイ・. 耶.摩畑.. 8. 辱. キト畳t鋼 7鋼. 子. 蒼鍾ギアナ. 9. ’ヌエパ・グラナダ別三劉. ’ ○. 「1. ll. チ,ルカス. @ l≦ ,ユ. 閨・ ’. ナ,尋7勘 う7う,ポユ,レ5. 鋼. チリ鷹望摘. 奉. ◎・ミ. ベルー. 幽し丸《 ミ. 1曜リ. 1 8. 嘲. 三. セシ,二. Q8 7¢‘7. @ 長7罰. プラ :〈. 沚ラ. ポリビ7、. OS2S. ・1. コ へ. 講掛. ン 8. チ翔多. 胴・ヲ・ジ・川。. 「閣. C’. 、1.1り響; ∼ルデシーり.ユ 鞠症顎 蚤悌こよる分n嬉 1馴●旧 う ラ?}、. り1舞吻. @’. ,ン. ナ ワ. パラグアイtlSM. n桝騎. ♪」. コ ヨエ のゆむね. …rt x .一 ω皇 p7の薦鋭. t. 37. ,. ウルグアイ. Oits}. ∼. ‘. レ. 。馳. L_」L■一・」. ミ 、 ユ. ■. 見. 傳. o. 嚇. ,18虐紀素のラテンアメリカ. ●. ち. o. 瓢のラヲンアゆ. ・1830写日のラテンアメリカ. 図i−8、ラテンアメリカの政治区分の変遷. 染田.秀藤編「ラテンアメリ.カ」P49、P75、世界思想社1993より. IV、政権交代のための国名変更 国内の政権が前政権と百八十度政策転換し、その一環として国名変更 を活用した例がある。ロシアやベニン、ブルキナファソがこれである。 ロシアは社会主義を放棄し、資本主義を指向して国名を放棄してしまっ た。逆にベニンは社会主義化を遂行し、その一環として国名を変更した。 また前政権の汚職、腐敗等による政治腐敗を批判し、誠実な政治を指向. して改名したのがブルキナファソであった。ここではこの3国の実情に ついてみていく,,. ■、、ロシア(ソ連). 一30一.

参照

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