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日本の政治改革と地名

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第2節 日本の政治改革と地名

■、律令政治と地名

■、律令以前の政治と地名との関

   わり

 日本の政治形態をみると、大化の改新以前は「国県制」とも、「県・

県主制」から「国造制」への移行ともいわれ、明確にはわからないが、

当時は政治力、経済力を持った在地の豪族と、朝廷から派遣された者が、

何時しか権力世襲の支配者となり、「国造く。。bやつ二」となって領地・領 民を私有化していた。この時代の「国」とは、太古のような完全独立の 組織ではなくなり、大和朝廷に従った地方支配者の領土を指す名称となっ ていた。これら「国造」の総数は、在41iの豪族130余と朝廷から派遣され た若干名を加えて、当時は133と記録されている。この「国造」の名称 は、その殆どが、かなり古くから存在する郷里の地名から取ったもので、

その由来を探れば、当地の自然状況を地名化したものが多かった。そし て「国・郡・里」制以後に編成された国名は「常陸」、「信濃」、「対 馬」、「美濃」を除いて、全て「国造」の名称か、古くから記述されて いる広域な国名(これにも同名の国造名が存在する)からの造形地名が 当てられた。さらに明治維新後の一連の地名改名によって県名に使用さ れた「大分」、「千葉」、「茨城」の名称も、この時代の「追口」の名 称に、既にみられるのである。つまり「国造」は、その地方の中心地に 存在し、政治的役割を果たしていたため、これ以降も日本の地方名称の 基礎となったのである。

一165一

 また「国造」の下級組織として「県あがた」があり、さらにこれとは別 の「県あ猷」と呼ばれる皇室の直轄地もあったらしく、そこは「県主あ猷 ぬし」が治めていたといわれている。「県」に関する地名は「国造」.と比 べて、地方名称として現在まで引き継がれている地名は、非常に少ない のが特色で、これから考えると皇室との関係は強かったが、その分、地 域との結び付きが薄かったと想像される。現在にまで引き継がれている 地名例をあげるなら、国名では「対馬」や「美濃」は「県主」の名称か ら出たものとも考えられる(ただ双方とも「国造」の名称にも、似た地 名がある)。地域名では、広島県にある「山県郡や2PtkCん」という地名の

「山県」は 山部の県主 という意味(26)からでたものだが、これなど はその代表といえる。

 皇室の土地、耕作民を間接支配していた「県主」の領地は「屯倉み両」

といわれた。この名称は、現在でも全国各地に「ミヤケ(三宅、御宅、

三家、官家、屯倉)」などとして数多く残っている。

2、中央集権国家の推進と地方の

   均一化のための地名作成

 「国奇話」も大化改新により領地、領民の私有制と官職世襲制が禁止 され、地方制度は「国郡制」に切り替えられ、「国・郡(大宝令までは 評、tSD)・里(霊亀1年に郷)」の区分を基本とした形態に改定された。

そして「国」を治める者は、朝廷から派遣された任期制の国司としたの である。さらに「国」という区分に対しても、それ以前の広大な領域の 国と呼ばれた地域に対しては、畿内以西と北陸地方では都から近いほう から「前、1中、後」または「前、後」あるいは「後」に二身し、東国二

方ではこれも都に近い方から「上、下」(上総、下総、下野、上野はさ らに古い時代に区分されていたという説もある)に分割して全国をでき るだけ均一化し、中央の指示に従うような適当な領域に編成し直したも のといえる。律令以前の「吉備」や「越」や「筑紫」などのような巨大 な国は朝廷も支配に気を使い、事によっては、持て余すこともあったか

らであろう。そして全国共通の支配形態を取ろうとしたのである。

 「前、中、後」の分割例として広大な鰻塚名称(国名)であった「越 二し」をあげると、持統朝の頃に「越前LsVA,」、「越中わちゅう」、「越後え ちこ」の三国に分割命名し、さらに開発が進むと「越前」の一部を養老2 年(718)に裂いて「能登のと」を、弘仁14年置823)には、さらに一部を裂き

「加賀赫」を分立させ、また「越中」の北部を大宝2年(702)に「越後」

と呼び変え、最初の区分名であった「越後」を、和銅5年(712)には「出 羽reb」として分立させた。このように開発の進展状況や国力をみて、大

きくなれば分立させていった。

 ここで地名の由来や語源についても簡単に付け加えておくと、「能登」

の意味については 狭い通路 という意味の「咽喉のど」に通じ、半島の 付け根辺りからでたという説(23)が有力であり、「加賀」の意味につい ては湿地に対する 高燥な草原卿を意味するカガ、カヌカなどから発生

したという説(25)が有力であり、共に中心的郡名の一つを国名に昇格さ せたものであった。また「出羽」は「越後」を分割させて、出羽郡を起

こし、4年後陸奥の一部を併せて「出羽国」を造ったもので、腸イデハ(出 端) 即ち 端の地(富国の) の意味(25)からおこった名称であると いわれる。なお現在の北陸、東北、北海道南部の日本海沿岸地方一帯の 広大な地方名であった「越.し」という地名は、現在の福井県武生市あた

りにあった「高志国」に由来し、この名は京からみた名称で 関所(愛

一167一

発あらちね)を越した地 を意味する コシ、コズが語源ではないかとい う説伽)。現在の新潟県にみられた「古志国」に由来し、アイヌ語のコ シ 渡る、横切る というような章味ではないかという説(24)などがあ り、他にも諸説があって、決定的な説にはいたっていない。

表2。2 、廃国と分国(新設国)

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(・ )は律令以前に分国という説もある 著者作戚        鋤慮、

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仁=コは新設国

Oは廃国

《 )は律令以前に駈設されていたという説もある         ltl本歴史地図を参考に著者作成

図2−6、律令における廃国と工匠(新設国)

 「上、下」区分の例として「毛野り。」をあげると、大化改新(以前か ら区分されていたという説もあって断定はできない)あたりに、広大で 豊かなこの地域を、「上毛野bSっ崩」、「下毛野いっ ta」に区分して分割

をはかり、さらにこれを和銅年間に地名の二字化を行った時、「毛」を 取り去って「上野こうv,t」、「下野v6っi」」と改名してしまった。中央では

このように国のカを考慮し、しかも中央に従うように新地名を命名した りしながら、権力の浸透を図っていったのである。「二野りぬ、けの」の意 味は 穀物の取れるところ という意味伽)であったといわれているこ

とがら、古くから実り豊かで、重要な地域であったことがわかる。

 逆に小さな「国造」の分散地域であった所は、この幾つか統合させて 一国として統一した。小さな国を併せた例どして、「常陸ひたち」をあげる

と、ここには「新治r、 lt b」、「筑波つくば」、「茨城、暢謬」、「仲ttb」、「久自

くe」、「高kb」の6力国(国造)が別々に統治していた。これを「常道p 妨」1国として統合させたものである。そして天武天皇の代には、さら に漢字を「常陸。妨」と改め、好字化した。「常陸」の本来の意味は、

古代の「日高道(路)。たbS」すなわち. 日高六国(後の陸奥)へ入る道 からでたものであろう(24》といわれ、重要な軍事、経済拠点であった

らしい。

3、律令制実施による地名の発生

 また国の行政中心地は、当時国府、国庁(平安時代は主に国衙、鎌倉 時代は主に府中)と呼ばれ、そこは都市的性格を有する地方政治の中核 をなし、これらは国の経済的中心である平野か、交通の要所におかれた。

また遠方の国に任命された国司は、できるだけ都に近い場所を、国府の

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位置に選んだらしい。

 国府犯因む地名が、現在まで受け継がれている例あげると、「甲府こう ふ」は 甲斐の国府 という意味(24)であり、また東京都と広島県にみ られる同名の「府中ふちゅう」は 国払のある中心地 という意味(25)をも ち、山口県の「防府ほうふ」は 周防の国府 という意味(25)で名づけら れたものである。その他、旧各国の国府所在地付近の村落名などに「国 府」に因む地名が数多く残っ高いるが、それには「国府二くふ」、「古国府

ニ旨くs」、「国府殿、くふでん」、「庁屋、長屋ちょうや」、「国忌、くちょう」、「国衙こく が」、「府敷、夫敷、伏木ふ。き」、「府屋敷ふやしき」などの地名がみられる。

この他、国府の外港は「国府津」、「国津」、「御津」、「大津」など と呼ばれた。新潟県の「直江津」などはこの例といえる。

 郡司は、一ケ国内に数個から数十個存在し、その行政地(郡衙eSPt)

には、郡家ぐんげ集落が形成され、各地方の中心を成していた。ここは古 くからの土着豪族の支配地であるため、国府以上に古くから存在する地 名である場合が多く、立面点ではやはり平野の中心地(経済の中心)や 交通の要所にある場合が多かった。

 現在に残る地名例をあげると、福島県の「郡山.SDやま」は 郡家のあっ た場所の林地(耕地化されなかった土地) という意味(25)である。奈良 県の「大和郡山」もまた同じ意味の地名であるが、福島県の「郡山」と 区別するために、後に「大和」の字を付けただけである(25)。他には山

口県と福岡県には「小郡おごtsojという地名があるが・山口県の「小郡」

は 小さな郡家 の意味(25)で、福岡県の「小郡」は美辞である「御」を

「郡」に付けたが、それが「小」に変わっただけで、単に 郡 を意味

(25)する。「上郡」、「下郡」と対になった地名も徳島県吉野川沿いに みられる。もっと明確な地名としては、鳥取県に「郡家、うげ」 弓長の三