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ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報1 (ページ 146-152)

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上 の瓦

(3)       after 1882

Fig.70 Ceramic rOOf tilesと

Om NM3(3)

5。

NM2礎 石建物 と二の丸建造物

(1)二

の丸における

N M2・ 3の

位置

享和

2年

(1802)の絵図面 を使 った二の九建物 と、文系四学部建物 の現況 との推定対比位置図 (付図 1)を か照 すれば、この

2地

点は、馬場 をは さんだ二の九南端部

(NM3)と

、馬場座敷 か ら小広間付近

(NM2)に

相 当す ると推定 される。試掘坑・試掘 トレンチによる知見では、

NM2

か ら試掘 トレンチにかけては、一面焼土が広が り、

 

火災によ り焼失 した建造があったことがわ かる。 しか し、

NM3に

はほとん ど見 られず、

 

二の丸建物群 が密集 していない場所であったこ とが うかがわれる。

NM2の

南端 と

NM3の

耳ヒ端 との距離 は約

30mあ

る。

NM2の

礎石4から南北 方向の礎石列 を南側 に延長 した線 をた どって、

NM3の

石垣の延長線 までの距離 を計 ると、 約 42mと なる。

1間

を2.Omと す ると、約21間となる。 この値は図

69,74‑1に

示 された関数 に近 似す る。種 々の絵図(図73‑75、 付図 1)を 参照す ると、 この空間には元禄年間以降は,碍場 が存 在 した と推定 される(佐藤1967)。

NM2の 検出遺構の特徴は以下のようにまとめることができる。①礎石建物は釣の手状 を示 す

(図 72)。

② 南北方向の柱間は約

3m、

東西方向は約2.2m(7尺

)で

ある

(図72)。

③ 礎石建物 北側に石敷遺構

(幅

2.9m)が存在する。

これ らの事 実 か ら、① につ いて絵 図上 で検討 す ると、最 も古 い図(図

72‑1)の

中の「御 書院」

東側 に併 行 す る「御 廊下 」と「小 広 間」あ るいは それ につ らな る部分 とが作 る、

 

釣の手状 の構 造 や図73‑2、

74‑1の

中の、馬場座 敷北 側 の「御膳 立」と「御 廊下 」の釣の手状 の構 造 が注 目さ れ る。

前述 の礎 石 との石垣 の距離42.Omと い う事実 か ら考察 した時 、建物 の間数 がわか る。図

74‑

1の 原図(斎藤 報恩 会所蔵 )を 使 い、

 1間 ‑6尺

5寸(196.7 cm)と して計算 す る と、同図 で は礎 石 と石垣 間は約21間 となる。 また、文化年 間図(県立図書館所蔵)では23間 とあ らわ されてい る (図

74‑2)。

「御膳 立」と「,焉場 屋敷」の隅 か ら21間 をとると、両図 のはるか南方 にずれ、中島池 に 重複 して しま う。(1焉場 端 か らさらに約12間)。 石垣 が図

74‑1の

南端 を画 す る石垣 とす ると、

この位置 のず れは、大 きす ぎ、図 と一致 しない。次 に釣の手の構 造 を御廊下 と小 広 間の角 か ら とす ると、 石垣 は 図

74‑2南

端 の部 分 か ら

4間

の位置 にあ り、図

74‑1と

もよ く一致す る。

つ いで この南北礎 石 間距離(図72)につ いて考察 を加 える。図

74‑1で

は「御膳 立」が幅 2間 、「御 廊下 」が1.5間 と表 わ されてお り、

3m前

後 の値 をもつ南北 の礎 石 幅 が「御膳 立」の もの とす ると、

1間1.5mとな り1間6尺以下 になって しま う。二 の九の一 間は6尺 3寸もしくは6尺5寸 と推 定 さ れて お り 「御廊下」の 1間 約 2.Om、 約6尺5寸 とい う値 とほぼ合致す る(注1)。 この点からも、

この礎石 列 が小広 間 に連 な る御廊下 で あ ることが推 定 で きよ う。

(2)NM2の

石致 遺 構

以上 の事 実 か ら、 ごみ捨 て と して使 われていた石敷遺構 は、 この「御廊下」に面 した施 設 と推 定 され る。絵 図 に相 当す る建物 を探 す と、御上段 の西側 「御廊下」の東側 にあた る正方形 の構 造物 が注 目 され る。

73‑1で

は、御廊下い の北側 に連結 した部分 が見 られる。 また、御廊下(Blに も張 り出 し部 分 が存在す る。図

73‑2で

は、すでに南東側 に「,焉場座敷」が新築 され、 それ と共 に御廊下(Blは

「御膳立」と呼称が変 わ り、御廊下(Blの北側 にあった。張 り出 し部分は消滅 して、 その後図で見 る限 り、 その部分 に再 びこのよ うな張 り出 しが作 られることはない。図

73‑2で

は、御廊下張

り出 し部分の うち西側の

1画

が、便所 として図示 されている。従 って、図

73‑1の

張 り出 し西

側 も便所であろ う。 その東側 にほぼ正方形 の別の張 り出 しが認 め られ、宮城県立図書館蔵 の原 図 には「重 司 置 所 」 と記載 されている。重司が茶事の道具 を入れ る棚であることを考 えると、

1種

の物置 として使 われていた と推定 される。図

74‑1で

は、特別 な張 り出 し部分はな くな り 正方形の張 り出 し部分 には変化 がない。図

74‑2で

は、基本的 には変化 がないが、西側 に新た に便所 が

1箇

所設け られている。 さらに、時期不明の第

2師

団で作製 した二の丸図 には、(図

75‑2)西

側(図の上方)に『田村様 に便所』と、その下 に『手掛水』と記載があり、手洗場 と推定 で きる。石敷の作 り方 を見 ると(図17)、 手洗場 とす る解釈の方 がよ り妥当 と考 えられるが、手 洗場 などを伴 った物置 として使 われた可能性 もある。 また、.時期的 な使用 目的の変化 も考慮す る必要 がある。以下廃絶 の時期 についても考察す る。明治

2年

時の動政庁時代の ものである図

75‑1で

は、御廊下付近の張 り出 しは、見 あた らない。 これは図 が略図であるため省略 した も のか、 あるいは図中の他の便所等がそのまま記載 されていることを考慮すれば、すでにその時 期 には機能 を停止 して取 り壊 されていた結果 とも考 えられる。 また遺物 から見 ると、石敷遺構 出土遺物の中で前述のよ うに、茶碗・皿・土瓶 などの陶磁器類は切込産・平清水産 。大堀産 が 大部分 を占める。時期的 にもほぼ江戸末〜明治10年代 にかけての ものに限 られてお り、 それ以 外 の時期 の ものはほ とん どない。鮫肌 の土瓶 が伝承通 りに、明治

7年

以降 に焼 かれた もの とす れば、幕末か ら明治

7年

前後 に作 られた遺物 が捨 て られた後、明治15年に焼 けるまでの間に粘 土で蓋 をされたことになる。

(3)N M3と

二の九の位置

発見 された石垣 は前述のよ うに二の九の南端 を画す もので、図

73‑1に

示 されている石垣 と 推定 される(付図1)。 石垣 に切 られて発見 された池 は、二の九構築以前 に造営 された苑池 と考

え られ るが、 その時期 。規模・ 造営方法 な どは不明で ある。

1.東

北大学工学部建築意匠学科

 

佐藤

 

巧教授の御教示による。

(梶原

 

)

71 NM2・ 3の

発 掘 区 。現 況 建 物 と二 の 丸 遺 構 Fig.7生 A superimposed plan of excavations, university building, road and ruined structures in Yedo era

72 

礎石・石敷機能時の配置(N M 2Ⅲ

Fig.72 Excavated stone floor.rows of fOundation stones andん r heir holes at NM2 (こ

]壌

ξ 塀 佐 方

816m

卸路地御石垣

1)御二の丸御指図よ り

御奉 衆行 物書 部 屋

5  10m

2)享和 2年

 

御家作御絵図写より

73 

二 の丸小 広 間 附近 の 変 遷(1)

Fig。73 Historical transition Of structures around ceremOnial hall

(仙台城1967図版 より)

in the secondary Citadel

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