16
姿
Ⅵ ::│::
NM3
掘 立 柱 建 物1柱配 置 図 と柱 穴計 測 部位 Points of measurements and post span Of constructiontt at Nふ江3その他柱 穴痕 を持 つ柱 穴 ビット臆掘り方径 柱穴痕径 柱穴反深
32
平 均
ただ し、 ピッ ト43、 45は断面図上 かかっているのみなので、計測 し しゝない。(単位はcm)
表
29 NM3
柱 穴 計 測表 Table 29 Size Of post hOles型
︲ 9 45 ◎
0
→
︲︲ ←
◎ 43
一 つ 一 一
︲ 一
︲ 8
◎
◎
︲ 5
5 g
図 Fi
ない。
この他、掘立柱建物 としては組 まないが、柱穴痕 を持つ ピットとして24。 25。 26。 28が ある。
柱 の掘 り方の径が50〜60cm、 柱穴痕 の径が14〜18cm、 深 さが20〜 32cmと 大 きさか らみて も先の 掘立柱建物
1の
柱穴 とは明 らかに異 なる(表29)。 29は打 ち込 まれた杭 の跡 である(図59‑2)。
2)池
に関する遺構群 (図60,63)
ピッ ト12は石垣 が構築 される以前 にあった人工的 な池 と考 えられる。埋土は埋 め戻 した層 と 底部の グライ化 した層 に分 け られ、切 り石や瓦の破片が含 まれていた。瓦の中には平瓦や丸瓦 に混 じって瓦頭 に三 ツ巴紋 を持つ軒九瓦が出土 している。池の底部 は さらに掘 り込 まれ、段状 の構造 を持つ。池底付近では、杭跡(ピット
12b)を
囲むよ うに、上面 がほぼ水平 に置 かれた切 石、平 たい丸石 が発見 された(図60・ 63)。また池 に続 く濤
2に
はこぶ し大の九石 が詰め られ、底部 は水平 を保 ってお り、暗県 と推定 され る(図63)。 発掘の所見では濤2とピット12と の切 り 合 いは見 られず連続 した遺構 と考 えられる。28は柱穴痕 を持つ ピッ トであるが、濤
2に
切 られ ている。3)石
垣 (図57・ 59・ 60・ 64)石垣 は発掘区の南寄 りに耳ヒ西部の掘立柱建物
1の
東西軸 と平行 に一列発見 された。石垣最上 段 の天端石 には切 り石 を使 い、二段 目には大 きさのそろった九石 を積 む。三段 日から下 は合端掘 立 柱 建 物1の柱 穴 セどノトlh 稲 り方希柱穴反径 柱穴涙深
∩
19
⑩ 27
の
平 均 8 23 3
l
百
(面取 りをして作 り出 した前後左右の石 との接点)をとっ た丸石 を裏込 め石(友飼 石 、 栗 石)と共に積んだ打 ち込 みは ぎの石垣 である。 この石垣 は天端石の頭が13層上面 で検出 された。天端石の上端 から最下端 までの高 さは90 cmと低 く、試掘抗の所見では下端 に続 き、南側 に玉石 が 敷 かれていることが確認 された(図57)。
ひ とことで石垣 といつてもその規模、使 われる位置 に よって性格は様 々である。た とえば城壁、天守台の土台
W
合端 をあわせて ヽNる部分 it切り石 を使った 1天端石
lm
図
59
打込 は ぎ石垣実測 図 Fig.59 Side View of stonewaHといったものは大規模 な土木工事 が行 なわれ、高 く美 しい石垣 が営 まれるであろ うし、曲輪内 の仕切 りや土留、塀、庭の意匠などに使 われれば規模ははるかに小 さくなる。今回出土 した石 垣 は、南側 を未調査のまま残 した とはいえ、 その高 さや石の大 きさか らいって大規模 な建築物 を伴 な うものではない。 したがって二の九内 とい う位置関係 か らむ しろ土留、 あるいは垣根 か 塀の土台 といつた類の もの と思 われる。
前後関係では ピット1・ 12。 33はすべて石垣 に切 られているので、石垣 はこれ らよ り新 しいも の といえる。
4)柱
穴痕 を持たない ピッ トと溝 (図60〜64)。柱穴痕 を持 たない ピッ トの切 り合 いは、
39b→
39a、8→
7→10、17b→ 17a→
3、2b→ 2a
(いずれも旧→新)である。 また単独の ものでは、24・ 27・ 32・ 38、 濤
1が
検出 された。 この うち 濤1は
13層で検出 されたものの、焼 けた壁 が濤 に落 ちた状態で発見 され、濤 の底部 も焼 けてお り、明治15年の二の九焼失時の もの と思 われる。焼 けた鬼瓦の破片や大堀の土瓶の破片 もここ か ら出土 した。 また 3も13層で検出 され、瓦 が出土 している。11は不整形 なピッ トであ り、性 格は不明である。5)そ
の他 (図 60)
掘 り方 などは確認 で きなかつたが、8〜12.層で0〜
5'6区
にグライ化 した粘土の層があ り、中か ら大量の礫 。瓦 が出土 している。この遺構 は層 と遺物 からみて二の九以降の もの と考 えられる。6)ま
と め今回調査 した地点は二の九南端部 と推定 される。
検出 された遺構群 に層位的な前後関係 は見出せ なかったが、大 まかには池 に関す る追構群が もっとも古 く、二の九構築以前の遺構 と考 えられよ う。二の九の地 は、 もと伊達政宗 の四男宗 泰の屋敷 があつた場所であ り、の ち二の九 を造営 したことがわかってい る。従 ってその時代 ま で遡 る可能性 がある。石垣 と濤
1は
池 を埋戻 した後の追構で、二の丸焼失時 に存在 したことが 確 実である。 また掘立柱建物1は
、柱穴痕 出土の追物 は新 しいものの二の九 に伴 う遺構 であるグライ部礫集中部分
ビット20
3号溝
m︲︲
図
60 NM3遺
構変遷 図(1)Fig。60 HistOrical transition of Features at NM3(1)
二の九第3次調査拡張区
ピット15の残存
ピット12
ピットユ
一
ヽ ̲
――……ト 引生
引4 3ト
拡張区の遺構
図
61 NM3遺
構変遷 図(2)Fig.61 HiStorical transition of features at NM3(2)
ピット2
T
3 氏ピット10
ピット18 Tlユ
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