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房 ♂

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報1 (ページ 152-159)

(佐藤巧氏原図)

1)明治2年

御奉行並物書詰所

鱗帥 潮器     符 古 所

0  5 10m

l  :  I 2)時期不明第二師団作製二の九平面図より

75 

二の丸小 広間附近 の変遷13)

Fig.75 HistOrical transition Of structures around ceremOnial hall in the secondary citadel(3)

西 暦 年 号    娯 ヽそ   城 山西麓

西曲輪(西)

五 郎 八 姫

寛 永 6    政 宗 、 西屋 敷 で茶 を賜 う

寛 永 8 西曲輪で歌伎 ,等 観劇

寛永13 政宗 死去 観桜 、 能

1638 寛 永 15 忠 宗 、二 の 九許 可 若 林 城 よ り移 築

   寛 永 16 二の九完成 図91

1675 延 室 3 二 の 九 記録 所   

   延 宝 4 殿

天 和 元    天 和 3 変 宕 神 桐 元 禄 元 二の丸寝所地祭

茅葺 を命ず 元 禄3 万 書 堂 修 造 元 禄4 万 菩 堂 完 成

元 禄5 虎 の 間

三 代 治 家 記録 編 纂 元 録 12 二 の 九輪蔵

元 禄 13 二 の 丸 」XL方

享 保2    地震、城中諸所被害

享 保3 二の九等、石垣土手 普請成 る

享 保4 大雨城 内 土 居 崩

720 享 保 5  

元 文 元 地震 被害大

宝 暦 元     

1804 文 化 元    二 の 九 中奥 雷 人 に よ り焼 失

1805 文 化 2 再 建 地 祭 更化 3 中央 造 営 成 る 支 化6 二 の 丸造 首 成 る 文 化7 万 菩 堂 修 復 成 る 二 の 九奥 対 面 所 に

   安 政 2 二 の 丸困縁 殿 並 に

愛 宕 神 桐 再 建

  

二 の 九 囚 縁 殿 火 夭 1858 安 政5 二の九中奥 馬場 に

備 荒 倉

文 久 元 地 震 被 言 大

慶 応 4 二 の 丸 に軍 事 局 を置 く

仙 台 藩 降 伏 奥 羽鎮 撫 入 る 仙 台 藩 減 封 (28万 石)

明 治2 二 の 丸 に勤 政 庁

明 治4 東北鎮台 を二の九に移す

明 治 6 仙 台 鎮 台 と改 す

1875 明 治8 本丸大広間破却

 

城内

礎石等 をTBDヶ岡ヘ

明 治14 二 の 丸仙 台 鎮 台 本 部 全焼

1882 明 治 15

二の丸仙台鎮台本営 9割 焼失 明 冶17

二の丸米蔵跡、鎮台木材小屋

 

焼失 1945 昭 奉日20 9 米 軍進駐 開始

二 の 丸跡 を埋 め 立 て 住 宅 等 を建 築

7、 空 要 に よ り大 手 門脇 櫓 衛 成 衝 兵 所

(二の 丸能 舞 台 楽 屋 追 構 な ど全焼)

34 

仙 台城 二 の丸建築関係年表 Table,34 Chronological  table on

(三原良吉1967よ り)

the Sendai Castle

6.二 の丸の焼失 について

明治15年 (1882年

)9月

7日二 の九の焼 失 によ り、寛永15年 (1638年 )以 来約250年 間 にわた り、

偉 容 を誇 って きた二 の九の ほぼ全殿 舎 が灰大蓋に帰 した。 これ以降、大手門や裏池 、石垣 な どの 一部 の遺構 を除 いて、二 の九 を しのぶ ものはほ とん どな くなって しまった といって よい。火事 の原因 につ いては、 当時の陸羽 日々新 聞 が火 災発 生後3日間 にわた り、記事 を掲載 してい る。

それ によれば、火事 の原因 は銃 工場 と して使用 していた旧台所 内で、砲 隊 が使 用 していた コー ル ター ル油 に人 が入 り、茅葺 の屋根 に燃 え広 がった結 果、全焼 す るに至 った との ことで あ る。

これ を見 ると、仙台城 二 の九 は、 旧藩時代 の使用 目的や呼称 に関係 な く、鎮台の建物 と して 使 用 されて いた こ とが うかが われ、 この こ とによ り小 広 間裏石 敷遺構 が単 な るごみ捨 て場 と し

て使用 されていた ことも間接 的 なが ら裏づ け られ る。

火 災 の様子 や、 さま ざまなエ ピソー ドが講談風 にま とめ られた記事 は、 当時 の状 況 を窺 うの に格好 の資料で あることか ら、全文 を以下 に掲載 した肝

(明治15年 9月 8日

 

隆羽 日々新聞)

仙台鎮台本営出火、昨 7日 午前11時 少 し過 ぎる頃、突然火事 ありと叫ぶ ものあり何処の人事やと逸 早 く火の見 に上 り彼方 を見やれば、川内なる青葉城、即 ち鎮台本営 にて、黒煙天 を焦 がすばかりなれ

ば、すわ大事なりと筆投げ捨て、息 をも継 かず片平町の公園地 まで駈付けたるに、火勢の鋭 こと言わ ん方なく非常の号砲琥鐘 を、聞 き付 け駈集 りたる各町の消防組警察署の「自,筒、本営の兵士等八方より 駈廻 りて、尽力せ られ しも、看 る看 る参謀部 を始め、各局課、鞘重兵営、工兵第二方面本署等凡 そ178 棟 に燃広が り稽ケ岡の兵営 よリー大隊ばか り駈足 にて走せ付 け られ し時分は、早や下人の ころにてあ

りしが、正午12時30分 頃全 く鎮火 なした り、桝て焼残 りしは衛成兵の詰所、金庫、新築金庫、新築職 工場、第二方面倉庫、新築厩、被服庫、人薬庫 芥に、大門の十棟の外物置小屋等 なるが、雑 と九分通

の焼失なるべ し。火薬庫へ人の廻 らざりしは、実に風少なかりし儀倖 なりしが兵士二小隊ばかり同庫 の近傍 に立並 らび、又、同方角への人は、殊 に烈 しく防がれざる容子なりし。若 し火薬庫 にして破裂 せば或いは、市街 も基難 を免がれ得 ざりしならん。比 日風位は、最初は西なりしが、人事半より南 と な り、火薬庫へ向 き少 しは危険なりしも風力殊 に微弱にして、煙の延程 には、あらざりし。

槻 て、当本営は、伊達政宗公が慶長十二丁未の年始めで、 ここに本城 を据 え、 これ を青葉城 と琥 し 二の丸は二代目の藩主義山公が元和年中に築かれしにて、文化元年 6月24日雷人の為め、全城炎上 し 尋で新築ありて明治5年4月 に至 り、ここに鎮台本営 を置かれたるなりと、尚洩れたることは後琥 に 記すべ し。

鎮台事務所、右出人の報 あるや、県庁 より和達少書記官が、公園 まで出張 られ、官部七等属の見舞 として、本営へ遣 わされ し処同営 に於ては差当り、事務所 に差支ゆる旨を似て、公園地内元勧工場 を 借用 し度 しとの義 に付、此趣 を県令へ復命せ しめられ しに、剛,か差支 これなき故御用あるべ しと、回

答せ られたるよし。

(明治15年 9月 9日

 

陸羽 日々新聞)

仙台鎮台本営出火続報

 

旧伊達藩士族中に去 る者ありと聞えたる当区北四番丁、沼澤興二郎氏は、

一昨 日鎮台本営出火せ りとの警報 を聞 くや、矢 を射 る如 く旧大手前 に駈往 き。Hf伊 達家累代居住 し玉 い し青葉城 も今 日を限 りに一片の姻 と成果ること残念 とや云わん、残 り惜 しとや云わん、心魂 ともに 焼 るるが如 しと路上 にイトれて、大声 を発 し、泣叫びつつ転回 る様の可笑 くてや、傍 に居合せ し矢野某 なる者 が思はず も一笑 したるに、沼澤 氏はム ックと起 き、此の恩知 らずめがと云 いさま、飛掛 りて矢 庭 に蹴倒 し、数多度踏躙 りしかども、流石 に返す詞のなくてや、平誤 りにあや まりなが ら、提提部みヽ か逃 げ去 りしと云 う。沼澤 氏にしては、左 もあるべ し。

右出人の人元は末だ判然せ ざる由なれ ども焼始 め しは、旧藩の頃御台所 と称 えし萱葺 の建物 (当時 銃工場

)な

りとの事。又本営 に人の揚 るや、火薬庫の破烈 を恐れ、川内の家家にては、一人 も残 らず 逃 げ失せ、公園下辺 にも余程逃 け し向 もあ りしが、逃 げ損 とな りしIよ、幸中の幸なりし。

又、本営内に、入獄の者18名あ りたるが、人の揚 るや直に皆 な門外へ解放せ られ しも、一人 として 逃 ぐる者 な く、何 も踏止 まりて、消防に尽力せ しは、殊勝 な りしと。

また営内に繋 ぎ置かれたる,焉80余 頭は、直に門外へ逐い出 されるると、其処彼処 にて蹴 り合 を始め 怪 我せ しも多 く、驚いて崖 よ り落 ち、其 まま倒 れたるも二頭 あり、何 れへ範符 しか、今に行方の知ぬ

も二頭 あるよし。

怪 我人 も五・六名 ある由なるが、中にも博令使長中原少尉は、余程 の火傷 にて、昨 日より出動 なか りしと云 う。

鎮台仮事務所は、念念片平町公園地の元勧工場へ設けられた り。

参謀部副官大尉富岡三蔵氏は、出入見舞の答礼 として、昨 日県庁、警察本署、両裁判所等へ参 られ た るよしに聞 く。

また、本営の人事最中、本町通北56番 丁の間の、南官行宅の草屋根へ飛火 し、ポッと燃上 りしが、

ソレと云て消 し止め大事 には至 らしめざりしと。

(明治15年9月10日

 

陸羽 日々新聞)

本営出火の火元

 

仙台鎮台本首 が、去七 日を以て焼失せ る其火元の未だ分 らず にあるまま、世説匠 匡 なりしが、今確 なる筋 より聞 く所 によれば、右は同営内兵器磨場 なる砲隊用掃杖本部 に於て、コー ルタール油(石炭の蒸溜 して油 となるもの)を、塗抹す る際、其油が火の上 に滴 り落 ると均 しく火は飛 散 りて、 傍 なる油 壷 に入 るや、

 

俄然火焙 に飛騰 して、折柄天気続 きに燥 き切 たる茅葺の屋根裏 につ きざれば、何かは堪 らん忽 ち屋根 から屋根へ燃移 り、僅僅一時間余にして、東北第一の大城 を蕩儘す るに至 りしな りと云 う。

 

かなづかいとふ りがなは適宜改めた。

(梶原

 

)

7.N Ml・ 2・ 3調 査の意義

仙台藩主の居館 として、 また藩政の中心 として、約250年間にわたって偉容 を誇 って きた仙台 城二の丸は、明治15年 (1882年 )に焼失 して以来、 そのよすがす ら窺 い知 ることは難 しかった。

その後、旧帝国睦軍第二師回司令部 として、また戦後 は米軍の駐留地 として、約70年間にわた り、一般人の立入 を拒 む聖域であった。失われた二の九について関心がもたれ、調査 が可能 に なったのは、よ うや く東北大学のキャンパ スとして平和 を取 り戻 した昭和32年 (1957)以降であ

り、実際 に調査 が始 まったのは昭和58年 (1983年 )である。

調査の結果、追構 ・遺物 の遺存状態 が予想以上 に良好で、絵図 ともよ く照合 し、 さらに絵図 に示 されていない建物跡 なども確認 されたことか ら、二の九の研究 に新 な資料 を提供す ると共 に、旧藩時代か ら明治初期 にかけての城内の暮 らしぶ りの一端 を明 らかにす ることがで きた。

NMlは

二の九の西端 にあた り、お裏林の斜面 に続 く平場 と推定 される。中心部 か らは外 れ てはいるものの、暗渠の濤や竪穴状 ピッ トなど江戸時代の遺構 が検出 された。遺物 も少量では

あるが陶磁器、瓦 などが出土 した。(Ⅱ

2節

参照)。

NM2の

礎石群 とそれに伴 う石敷追構 は、

 2代

目藩主忠宗の倉1建した二の九の中心部 の小広 間の裏手にあた る御廊下 とその側の張 り出 し部分 と推定 される。(Ⅲ章参照)。 貼 り出 し部分の 石敷遺構 は、その本来の機能 を失 ってか ら明治15年の焼失時 まで、 ごみ 捨 て場 として 使 われ てお り、中から多量の遺物 が出土 した。大部分 を占める陶磁器は、切込、平清水、大堀 など近隣 の窯の ものが 多 く、伊万里や瀬戸は きわめて少 ない(Ⅱ

3節

、Ⅶ章参照)。 陶磁器の使用 。廃 棄時期 は幕末か ら、 明治10年代 と推定 される。石敷遺構 の中からはこの他 に屋根 材・箸 などの 本製品、瓦、 自然遺 物 も出土 している。小広間の裏がごみ捨 て場 として使 われたこと、陶磁器 が日常雑器であるこ となどを考慮す ると、石敷遺構 に追物 が廃棄 された時期 は幕末ではなく、

藩の権威 が消失 した明治

4年

の東北鎮台設置以後 と推定 され る。火災時以後の層か らは多量 に 焼融ガラスが出土 し、当時、ガラス窓 が使 われていた事 が明 らかとなった(Ⅷ章参照)。 この段 階の陶磁器 には切込産 の ものが含 まれておらず、文様 にも若千違 いが見 られる(Ⅱ

3節

参照)。

しかし、互いに接合す るもの もあ り、石敷内への廃棄 と焼失が時期的 に比較的近 いことを示唆 している。

石敷追構 から、 タイ・ タラ・サケなどの魚骨、 シジ ミなどの貝類 が出土 し、鎮台当時の食生 活の一端 を窺 うことがで きる。焼失後の層 とピッ トか らはイノシシの焼 けた骨片 など哺乳動物 の骨やガ ン・ カモ種 の′烏類骨 が発見 された。 この追存体 は石敷内の追存体 と種類が異つている。

下層か らは濤 が検出 されているが、 これは二の九倉J建時 よ り古いと推定 される。ただ し、礎 石の方向 と一致す ることか ら、 それほ ど時 を隔てたものではない。

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ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報1 (ページ 152-159)