二 の 丸 殿 舎 の 概 要
仙台城本九殿合の中心は大広間であったが、二の九殿舎の中心は小広間である。本九殿合の 利用期 間は伊達政宗一代の約20年に過 ぎず、二代の忠宗以来幕末 に至 る二百二十余年は二の九 が政庁及び私邸の中心であ り、近世城郭殿舎 としての事実上の機能は、 あげて二の九に移行 し た。寛永13年 (1636)襲封 した忠宗 は、同15年、早速二の九の普請 を起 こした。正保年間の奥州 仙台城絵図 によると、「本九、山城、東西百三十五間、南北百四十七間、町屋之地形 二 廿二間 半高」、「二之九、東西百七十二間、南北百十一間、本丸地形二廿 七間低」とあ り、本丸地形の 外郭線 に較べ、二の九のそれははるかに単純 に描 かれている。二の九地形の西北方 に道路 を扶 んで別 に「東西百間、南北六十間、二之九地形 二同 ジ」とある西屋敷 が接続 している。二の九の 敷地 は後 にはこの西屋敷 にまで拡張 されるが、当初 においてはその面積は本九に較べて とくに 広大 なものではなかった。
本九敷地の輪郭は極 めて複雑 で、かつ西南部 において起伏 があ り、立地上 か らも整然たる建 造物 の配列 に難点があった。ほぼ矩形 に近い、 なだ らかな傾斜面 に加 え、本丸よ り遥 かに低 く、
城下 との連絡 が容易であることが新 しい時代の城館敷地 として強い魅 力 となったであろ う。
「忠宗君治家記録引証記」によれば、 まず焼火之間、虎之間、納戸、茶道部屋、鎗之間、上 大 所、風呂屋、大大所、刈W性之間、用之間、肴部屋、鷹部屋、隼用部屋 が寛永15年 12月14日迄 に、
次 いで御座間、御寝所、奥方御寝所 が同16年3月28日 に上棟 し、更 に同16年5月 よ り12月迄の 間に蔵 、大手問(詰の問か)、 大書院、小廣 間、舞台、歩之間が順次上棟 したと
1)政
宗死去 に伴 う者林城経営廃上 により、その撤去建築の部材がここに運ばれて転用 された もの もあった
?
ここにい う大手門は詰の門の誤 りとみ られる。
同16年6月 にはや くも移捗の祝儀 を行 ない、同17年の元 日儀式は二の九において行 なわれた。
本丸での諸規式は心経会、繊法、護摩供等の仏儀 を残すのみで、他はことごとく二の丸に移行 す る。即 ちこれより二の丸が事実上の仙台城の中心 となった。
文化元年(1804年
)6月
24日、仙台城二の丸及び中奥 は天災に罹 り堂宇 ことごとく灰魅 に帰 し た。いこの文化元年の火災 を前後 に して、二の丸殿舎の構成 に大 きな違 いのなかったことは、
その前後の絵図の比較(図76及び付図2・ 3を 参照)や儀式帳 などから確認 されるよ
9
しか しこれらの図 によって直 ちに創建 期 ない し初期の様子 を窺 い知 ろ うとす るには無理 がある。「治家記録」
によっても綱村の時代 に一連の大 きな改造工事の事実が認 め られるし、寛永の引証記の中に見 え た大書院の姿は後世図には無 く、 また後世図 にみ られ る内対面所 (奥対面所
)の
如 きは引証記中藤 巧 佐
に見当 らない。即 ち倉1建期の殿舎構成 と後世図 との間にかな りの変化 が予想 され るし、またそ れなら後世図 に示 される殿舎構成が定 ったのは何時の事 かと改めて問題 となる。
治家記録 によると、綱村の時代、 とくに元禄初年 を中心 として一連の新築、改築工事 の行 な われた事実がある。例 えば元禄
3年
(1690)に新造御休息所への移捗?同
4年 に新造御座 間への 移捗(η 萬菩堂の移築P数
寄屋、園│の新築ザ また同3年
までに新焼人間!0同
7年 には新舞台、新座敷 が出来Ψ 同8年 には新座敷 を内対面所 と称 しΨ 他方書院の語 およびその用例 が見 えなく なるのがこの時期 である。
従 って この元禄初年 を前後 として書院が失 われるかない しは使用 されない状態 とな り、新た に寝所、休息所、御座間、内対面所 が出来、 また新たに焼人間が設けられることによ り従来の 焼人間 を元焼火間 と称 しているなど、構成上の移動、変化が指摘 で きる。 この改造以後 におい ても多少の改変、修覆 が行 なわれているが、主 に奥方関係の作事 が多 く、表向 きにおいてはそ の構成 を変 えるよ うな大改造は無かった。
ここに二の丸御指図 と称す る絵図(付図
2)が
ある!0年
代不明であるが、後世の幕末図と較べ てかな り古い時期の もの と考 えられる。東面の詰之門 を入 った玄関の右脇 きに徒之間が、そ し て玄関 につづいて中之間、次之間、廣 間より成 る一棟 があ り、 この奥 に虎之間、客之間、小廣 間、書院が階段状 に連 り、客之間の奥、書院の耳ヒ裏 に焼人間、 その奥 に御座間、御寝所力謗X。
焼人間 と御座 間 との間に小姓衆之間、小姓衆之間の裏 に風呂屋 がある。 これ らの建物の背後 に 納戸、上大所、大大所、肴部屋等 が配置 される。西南の小高いところに数寄屋関係の建物 があ る。 この図面の示す建物名 と寛永時代の引証記の述べ る建物名 とはよく一致 している。 そ して 奥関係諸建築の記入 はないが、後世図 にみるよ うな複雑 さがな く、単純、明確 な構成配列 を示
し、初期殿合の特徴 をよ く表 わしている。
二の九の初期 の建物名、部屋名 を治家記録で調べてみ ると、寛永時代 にはまず書院、御座 間、
小廣 間(大廣 間 とある)、 数寄屋、鎖 ノ間、正保年間には小廣 間、焼人間、番所、談合 ノ間、用 ノ間が加 わ り、万治年間 には さらに小姓衆 ノ間、物書部屋、虎 ノ間、夜居 ノ間、廣 間等 が加 わ る。延宝年中には客 ノ間、中 ノ間、次 ノ間、學 問所、小書院、虎 ノ間押込、連歌 ノ間、書院勝 手 ノ間、御座 間寄場、御寝所、小廣 間裏座敷、書院裡座敷、伺公 ノ間、祠堂等が、そ して天和 、 貞享年間 には対面所、奉行 ノ間、馬場座敷、大所、園、時計 ノ間、か度 問勝手座敷、鑑板廊下、
内舞台、御座 間園、因縁殿、高善堂等が加 わってみ える。 これ らの中には同一の建物で別呼称 の もの も含 まれているよ0
いず れ に して も先述 の二 の丸指図 に示 された部屋名 は大体延宝以前 に出揃 ってい る。 この指 図 の作成年代 の確 かなこ とは分 らないが、書院 が存 在 し内対面所 がない点 か ら、元禄 を中心 と
した改造 よ り以前 の状 態 を示 す もので あ ることは明 らかで ある。
書院が用い られな くなったのは天和
2年
(1682)以降であるが、その頃 には小度 聞脇 に馬場座敷が設けられていたが、馬場座敷の語及び用例は天和元年にすでに現われている∫ 0 この指図
には末だ,時場座敷 が見 えていないので、 この図の内容は天和以後のものではあり得ない。寛永か ら延宝頃 にかけての二の丸初期 の殿合の状態 を伝 えるもの と考 えてよい。
2.小 広 間 の 建 築
小廣 間は上段、次之間、 そ して これに釣の手 に三之間が続 き、入側(畳縁)が巡 り、前面 には 切 目縁 が付 く。上段、次之間、 そ して表舞台が一直線上 に並ぶ。上段、次之間を結ぶ上 。下の 線 と上段 と表舞台 との線 とが 直交す る本九大広間 を古式 とすれば新式の座敷配列 をとっている。
上段 は
4間
に2関
の16畳、次之間は柱 間3間に3間 (実長4間 四方)の 32畳、三之間は柱 間3間に 7間 (実長4間に9間)の 72畳。入側(縁通 り)│ま東面、西面 ともに2間 はば、南面。耳ヒ面 ともに2 間半はばで、(嘉永 6年 、即 ち二の九再興後 の小広聞図では】ヒ面の稼通 のみ1間半 と狭 くなってい る)(付
図3)、 総面積145坪 となる。 この三之関の広 さについては、図 によって(例えば文化元年 二九御造営図(巻頭図版2下
)。 この図は文化元年6月 24日二の九焼失直後 に作成 された再興計 画図 とみ られ る)実 長4間
に9間
半 と取 れるよ うに描 かれていて、 南】との長 さにおいて半間分 の差 がある。文化
6年
(1809)4月 再興落成 してか ら明治15年まで存在 していた二の九 につ き、「尊皇事蹟」(矢野顕蔵著)で は、
松の関(三之間の こと、筆者註)、 七十二畳。唐紙南面四枚、松 に牝雉。西十四枚、松。北 雄雉の画。惣金 地、東洋の筆………
と記述 している。七十二畳 とあるか ら、
4間
に9間
であつた と考 えられ、従 つて小広間の規模 は創建 当初 から幕末 まで変化 がなかったもの とみてよいざ0小広間は、本丸大広間の約
6割 7分
程の広 さであ り、 大広間に比べて間取 りが単純化 され、規模 が縮少 されているのが注 目される。小広間 と称 される所以である。 しか し次之間 と三之間 との間の襖 を取 り払 つて使用すれば120畳 の大室 とな り、一空間の規模 としては大広間に較ノヘく とくにおとるものではない。前方 に曲折 して接続す る客の間は、本九大広間の鹿の間、即 ち
「色代」が析出、変様 したもの と考 えられるが、
この客之間は上・下の
2室
、総面積97.5坪で 遠侍 を除けば小広間に次 ぐ規模 をもち、従 って これを加 えれば優 に大広間 を淡駕する。寛永の二の九倉J建時 において『引証記』 は「小広間」とす るのに対 し、『治家記録』は「大広問」
としている♂ 治家記録中の二の九大広間なる呼称は寛永20年 6月 まで続 くが、やがて正保元年 10月 12日、嗣君(綱宗)の使用例 か ら小広間に変 り、以後 は小広間の呼称 を続 ける。二の九の居 館 を独立の屋敷 として取 り扱 う立場 からは、殿舎群の中心 となる晴れの建物 を大広間と称 して
も、当時の慣例 からは一向に差 し支 えない し、 とくに150坪 にも及ぼ うとす る独立棟 に対 しては あながち誤 った呼称 とは言 えない。 しか し仙台城総体 としてみ るとき、すで に本丸に大広間が 存在す るので、あえて小広問 と称 して区別 したもの と思 われる∫
9『
引証記』はその点 を意識 し て峻別 していたのに対 し、『治家記録』の編者 には暫 くの間なお時躇 す るところがあったためで もあろ うか。
一屋敷内 に晴の儀式関係の空間 として大広間、小広間の二つの建物 を持つ場合が近世初頭の 大大名邸 にみ られるが、大広間の建築が遅 れるか、 あるいは何 らかの理 由で これを欠 くときに 小広間がその機能 を兼ね るとい うことはあって も、当初 から屋敷の中心施設 として小広間 を建 てる例 は余 りみ られない。
伊達家 においては寛支度の江戸上屋敷 において も中心建物 が小広間であ り、 この名称は仙台 城、江戸上邸 ともに後世 まで用 いられ、通常の大書院、表書院の呼称 を採用 しなかった。要す
るに寛永以後 においては主要中心建物 を常 に小広間 と呼称す るのが伊達家の伝統 となっていた。
小広間の奥 に続 く書院は上之間
(3間
に5間、30畳)、 次之間(3間
に4間 、24畳)、 周 園に縁通 りを付 し、78坪の広 さをもつ。治家記録では常 に書院 と記 されているが、倉J建期の引証記 には 大書院 とある。書院の裏 には書院勝手が付 いていた。小広間上段の間の床、棚、 および脇壁は金の張 り付け、次之間の南面、東面、 そして三之間 の東面、耳ヒ面は障子で、上 に欄間 を設けていた。 また次之間と三之間の境の襖、三之間の西面 の襖 は ともに金襖 であった。
元禄以前 まで小広問奥 にあって活躍 していた書院 においては床の張 り付 け、腰障子の張 り付 け、襖 などにはすべて墨絵 が画かれ、意匠的 にも絢爛 たる小広間とは対照的であった。は9
玄関よ り小広間に至 る間に徒之間(40。5坪)、 広間(実長
3間
半 に6間
)、 次之間(同3間 半に4 間)、 中之間(同3間半 に7間。中之間、次之間、広間は合 して一棟 を構成。前面 に縁側、 背後 にそれぞれ夜着部屋 を有す る。総面積123.5坪。 この棟 を総称 してまた広間 と言 う)、
虎之間 (同3間に7間 。縁側、夜着部屋 を含んで42坪 )の、いわゆる遠侍部分 が、
そ して客之間 が介在 す る。 この関係は本丸の場合 と同巧であるが、客之間が加 わり、 よ り延長 され、拡大 されてい るところに相違 がある。
客之間、焼火之間は上・下の二室 より成 り、御座 間、御寝所は ともに上段 をもった形式であ る。客之間、焼火之間、伺公之間(連歌之間 とも云 う。 二の九指図 には ここの名称 が欠けてい る)には床が設けられている。
珂ヽ広間、書院 とともに客之間、焼火之間、伺公之間は比較的上位 の座敷であることを物語 り、いずれ も上・下の二間構成 をとる点、他室との格の差 を窺 うこと がで きる。
遠侍、客之間、小広間、書院、御座 間、御寝所は倉〕立期の二九殿舎構成のいわば骨格 をなす