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ぞ と︒では︑ここで宣長が︑繰り返し﹁物にゆく董(
路)
﹂と
い っている︑それは︑いかなる意味に解すれば良いのか︒西 蝿信網氏は︑宜長のそれを﹁知覚的︑桂監的現前における物そのものの把握﹂と解され︑更に﹁﹃物に行く遭﹂は﹁置﹂と
2 b
しての置であり︑そしてコトは﹃理﹄ではなく﹃事﹄であり︑また必熱的に﹃
曹 ﹄ でもあっ
た﹂
﹁ぞ
れは
曹聾を介してのみ
対象に到達す
る ︒ ここに宣
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が自己にとって神典であるところの古事記をまさに言葉において解明することを畢生の仕事@ としてえらんだゆえんがある︒﹂と
︒これは︑示睦に富んだ把揖である︒かく解して来て︑今一度﹃字比山跨﹄の﹁置﹄に
関する宜長町宮
述を
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法
骨 ①
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書思
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文学
語学
﹄第
七六
号
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文 学
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しめす進臨海万聞にゆきわたりたるまことの道なるが(中略)
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字比
山踏
﹂)
宜長は﹁蓋﹂が︑天照大御神の始原から代々の天皇によってたどり伝えられた過程であり︑その過程的優は﹃古事配﹄ と﹁日本嘗紀﹄に記された言の跡に備わっているというのである︒しかも︑その道は︑﹁儒仏などの書のやうに︑其遭のさ
まをかゃう
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︑と︑さして教へたることなければ︑かの儒仏の警の目うっしにこれを見ては遭の趣︑いかなるものともしりがたく︑とらへどころな﹂いものである︒にもかかわらず近世の神学者と称する人々
は︑
それ
を
﹁‑
己の私の物にして︑み
づから狭く小く担なしでただ
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現などのわざのごとく︑或はあやしきわざを行いなどして︑それを神置と﹂なの
って
いる
が︑それはあきましい素だとしているのである︒では宜畏が一一事つ道町意とは﹁そもそも遭といふ物は上に行ひ結ひて︑下 へは上より敷錯し絵ふものこそあれ︑
F
たる者の︑私に定めおこなふものにはあらず﹂﹁すべて下たる者はよくてもあしく47 ても︑その時々の上町植のままに︑従ひ行ふぞ︑即古への遭の意には有ける﹂と︒だから︑学者は﹁道を尋ね明らめしめ
るを
こそ
︑
つとめとすべけれ﹂と明示し︑政治的作ぬは﹁私に置を行ふべきものにはあらず﹂ーとして否定されているので
ある
︒もちろん︑私が︑今ここで記したことはそれほど宣
E
学の研究において目新しいことではない︒ただ
︑問
題な
のは
︑
従来の宜長学の把握において︑しばしば問題にされている宜長の神学の政治的醍題が以上の卸き﹃字比山鎗﹄の冨述を介
して
︑天皇政治の理念の当険の帰結とされ︑宜長のかかる態度を﹁下たる﹂者の服世によって基礎づけ︑宣長における神
﹁歌
道﹂
と
﹁ 古
道﹂
との
関係
をい
かに
理解
する
か
﹁歌 道﹂ と﹁ 吉道
﹂と の関 係を いか に理 解す るか
の尭見と︑文学論に示された人聞の内面的鮮烈な把握とが表裏一体の聞係で埠たれていることから︑それが士学の政拍性①
とし て認 融さ れて 樹木 たの であ る︒ 即ち
︑﹃ 骨子 比山 踏﹂ に︑
a守ピ
すべ て神 の進 は︑ 儒仏 など の道 の︑ 普留 意是 非を こち たく さだ せる やう なる 理由 mは︑第ばかりもな︿たザだゆたかにおほらか仁︑雅 たる 物に で︑ 歌の おも むき ぞ︑ よ︿ これ にか なへ りけ る
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たる
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すべ
て古雅たる位の有さまを︑よ︿しるはこの
古の 道を しる べき 階綿 也 と︒これら一連の﹁古道学﹂と﹁歌学び﹂との連続的思植が﹁雅び﹂を媒介として行われている点に世来政拍思想史的視 角から問題にされた所以があった︒
i生
(j)
丸山 真男 氏﹁ 日本 政治 園芯 想史 研究
﹂( 東大 出版 会)
﹁近 世情 教の 発展 にお ける 姐徳 学の 脇村 賞並 に関 学と の関 連﹂
︒及 ぴ松 本三 之介 氏﹃ 凶学 政治 思想 の研
﹂究
(未
来社
)﹁
国学
政治
思想
の性
絡と
課題
﹂等 倭看 のこ と. 回
宜長的思惟にあっては︑過去を現在に︑現在を過去に生きようとする思惟の原理があった︒だから︑置辺氏は﹁この﹃古﹄
と﹃今﹄との形造司令特異な時理構造︑﹃古﹂を﹃今﹄に害cるという﹃道﹄叶知った者の奇妙に屈語した精神構造は︑ ﹃古 の風雅﹄を憧憶し︑その世界に生きんとする歌人におけるそれに酷似している︒﹂とL﹁文芸上の擬古7主義が生の全体を蔽つ
て串足するに主った一つの生の様式は︑ここで﹃擬古道﹄として﹃上古﹄の世と﹃今﹄を結合させるものと札て﹃古畳﹄詰 の閣域に転生するニとによって︑完結した体系をなし︑﹁歌学ぴ﹄と﹃古道﹄はその関連を完成したのである
︒ ﹂
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ちろんこの把握は︑宜長に即しての把握として垂当なのであるが︑車辺氏はこの宜長田思惟構造を︑そのまま政治的ベ
クトルヘ間違させて行こつとされる︒が︑私はそのようには解さない︒私は︑この︑宜長の風雅詰を紬として展開された 古道論と敏道論(文学輸)の連続は政治への貧困的志向というよりも︑むしろ宜瓦﹁私有白楽﹂的発想から展開した生活
論的存在毘酷としての性格を反映したものであると解するからである︒何故なら︑宜畏の学問が︑つまるところ﹁歌学び﹂
から始まり﹁歌学び﹂
に終
わ ったということを我々は確肥しておく必要がありはすまいか︒宜長が︑晩年に執筆した
﹃ 字 比山踏﹄において︑歌学びを四番目に掲げて誼じているという形式は︑この際問題ではなかろう︒否むしろ﹁字比山暗﹄の
中で費やされた紙筆の量からいえば﹁置の学び﹂について通ベた部分より多いということは考慮すべき問題である
︒又
︑古
置の跡を追究した成果である﹁古事記伝﹄は確かに︑宣長生涯の大作であり︑宜長から﹃古事記伝﹄をとり除けば何もな
いという議論も出て来よう︒しかし︑あえて暴冨
を吐
けば
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﹃古事配缶﹄とても︑宣長にしてみれば﹁歌道﹂の一環であっ か た
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る 作 ということも︑ことさら問題になるものではない︒それは︑宜長学全体を貫く思惟の核であった︒そこで︑今一度︑宜長
の当初に示した歌道における思惟の様態を窺っておくと︑
務制ヲタテテ心ノママニヨマサヌハセパクンテ歌ノ本体ニカナハヌヤウエ忽ヘドサニアラズ恩フレヲヨミアラハスガ本株也ソ
﹁歌
道﹂
と﹁
古道
﹂と
の関
係を
いか
に理
解す
るか
﹁歌
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ノ歌ノヨキヤウエトスルモ互歌ヨム人ノ実情也︑ヨキガ中ニモヨキヲエラピ︑スグレタル中ニモスグレタル歌ヲヨミイデムトスル
ガ︑
歌ノ
巌極
幅質
問よ
ノ所
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中同
町)
心ニ
ハ悪
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善心
ノ歌
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ヨマ
ム ト思フ心ニイツハリハナキ也︑スナハチ実情也︑タトヘパ花ヲミテ︑サノミオモシロカラネド歌ノナラヒナレパ随分面白ク思
フヤ
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ヨム
︑面
白ト
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偽リ
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ド︑
面白
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ウニ
ヨマ
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思フ
心ハ
実情
也 と ︒
宜長
は︑
ζこにおいて︑歌の剖作における︑虚構︑あるいは作為意織との聞係について︑巧みな弁証桂的論理を展開
して いる
︒
即ち﹁ヨキガ中ニモヨキヲヱラピスグレタル中ニモスグレタル敬ヲヨミイデムトスルガ歌ノ最極無上ノ所也﹄
と ま ず 理
手
る。
即 ち 秀 逸の 上 も 秀 逸 な る 歌 詠を も
ヲ
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歌
亜の
韓
条 件え こ とU
、
のワ で あ
る
。
そし
て そ の
為に言葉への模索が続けられるべきだとする︒判故なら﹁常ノ言語サヘ思フトヲリアリノママニハイハヌモノ也︑況ヤ歌
ハホトヨクへウシオモンロク︑ヨマントスルユへ︑我実ノむトタカフ事ハアルベキナリ﹂として歌作上町車機意離を説
く指摘する︒がそのあとで︑室長は必ず﹁ゾノタガフ所そ実情也﹂というところへ結びつけるのである︒歌の実作
上の
車構意酷をも︑人聞の実情のしからしめるところとして担えようとする点に︑宣長的思憾の顕著な特質が指摘できるであ
ろう︒かかる思惟は︑しぱ
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繰り返される︒﹁善心ノ歌ヲヨマムト思フテ︑ヨム歌ハイyハリナレドモ︑ソノ普£ヲヨマ ント恩フ心ニイyハリハナキ也﹂等といフ論法である︒以上町車情論において顕著な特色は虚情意酷そのものが︑その人
聞の内奥で実情と手を結んでいるという指摘のあり方にあろう︒宜長は歌を作るという官おが全くの作り物の世界である
ことを知っていた︒しかし︑その作句物の世界が︑実は人間の実情の世界と深くかかわりあっているということをも指摘
しているのである︒かくして︑宜主の風雅論即虚構論は︑単に雅という産構を過して︑その内面の実情を吐き出させると
いっ慣能のみに終らず︑それは︑その機能をはるかに越え︑無限の畏を形遣るための毘織方法を示したものであった︒そ
一切の現笑的欲情は除去され︑あくまでも﹃新古今和歌集﹄の匠現実的人工的な闇念的秩序としての聾の世界が希 L て