第 4 章 駐在員配偶者の日常生活実践
4.3 駐在員配偶者たちの結束と連帯
4.3.1 支え合いの中のためらい―JD さん
JDさん(40代)は5年のデュッセルドルフ駐在生活を経て、小学校5年生の次女を 連れて夫より1か月ほど前に帰国する。長女は日本で中学受験を終えて、合格し、ひと りで先行帰国し、夫の実家(埼玉県和光市)で暮らしていた。今は、帰国後9 年経ち、
夫と大学3年・大学1年の娘2人と横浜に住む。出身は大阪で、親はJDさんが小学4 年生の時に離婚し、父親にはそれ以降会っていない。当時、両親は仲が悪く喧嘩が絶え ず、「私としては(親が離婚して)良かったです」と話す。母子家庭となり、母親は働 いてJD さんを育てた。2 歳上の兄は父親と暮らすが、あまり話したりはせず、自分は
「母っ子で、父親は大嫌い」と言う。母方の祖父母がそばに住み、父親がいなくても「寂 しいっていう感じもなかった」。地元の短大の英文科に進学し、語学に興味があり、短 大 1 年の夏休みに学校のプログラムの一環として 1 か月ほどアメリカにホームステイ した。就職も転勤のない一般職を希望し、大阪で調味料を扱う会社に就職する。社内で は販売課に配属され、事務職の仕事は「それほど大変ではなかったです」「女性も多く 職場環境も人間関係も良かったです。独身で定年までいる人が多かったです」と話し、
人間関係もよく職場の先輩、後輩たちと旅行に行ったりもした。就職して4年ほど経ち、
飲料関係会社に勤めていた今の夫と友だちの結婚式で知り合う。夫は、山口出身で父親 の転勤が多く、福岡・大阪に住んだことがあり、就職時は埼玉に住んでいた。勤務地は 東京であったが、知り合った時は、東京から大阪に赴任していた。そして、交際中に、
夫はまた東京転勤になり、大阪にいたJDさんは結婚を決める。JDさんが25歳の時で、
「仕事は楽しくてやめたいとは思わなかった」が、当時「会社の雰囲気が女性の幸せは、
結婚して子どもを育てること。結婚したらやめなければいけないっていう感じでした」
と話し、5年弱勤めた会社を寿退職する。東京では社宅に6年ほど住む。失業手当の関 係で仕事をやめて半年後に派遣会社に登録して総合研究所に半年勤めるが、長女を妊娠 し、28才で出産する。その後、長女が1才半の時に次女を妊娠し、その時に夫が新潟に 転勤になる。次女は、母親の居る大阪に里帰りして出産する。新潟は社宅で6年生活す るが、社宅には同年代の転勤族も多く、皆でバーベキューをしたり、テニスをしたり、
お花見をしたり、子どもサークルにも入り、友だちにも恵まれ、交流が生まれた。JDさ んの夫の会社は、グループ会社が多く、社宅でも上司部下が皆違い、「わだかまりがな くて付き合いやすかった」。長女が小学 2年で次女が幼稚園年長の時に夫のデュッセル ドルフ赴任が決まる。夫も海外勤務を希望していたが、JDさんは「新潟にいた頃は、も う海外はあきらめていました。前から海外に住みたいという憧れがありましたが、ひと りでは行く勇気がなかったんです」と言う語りから、デュッセルドルフに行くことを喜 んで捉えていたことが分かる。
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渡独時には、JD さんの勤めていた会社の後輩で社内結婚した夫婦がデュッセルドル フに駐在しており、そこから情報を得たり、いろいろ助けてもらった。居住地は、夫の 会社の前任者が住んでいた日本人学校から歩いて5 分ほどのところで、「日本人がいっ ぱい住んでいました」と話す。長女は日本人学校の小学2年、次女は日本人幼稚園の年 長になる。
11月に渡独し、すぐに次女の幼稚園通園が始まるが、その年の春に来た家族が多かっ た。お迎えに行くと「皆きれいな人ばかり。『ざあますことば』でした。自分は新潟出 身と思われているんじゃないかと思い、幼稚園のママたちの中に入っていけませんでし た」と当時を思い出して話す。「ジーパン」の人もおらず、「きちんとしてなきゃだめだ と思った」。「園長先生も笑わない」というJDさんの言葉から、当時のJDさんの緊張感 が伝わってくる。そんな中で、JD さんはある日、ひとりで隅っこにいるお母さんを見 つけ、思い切って声を掛ける。その親子が「1週間前に来た」ということが分かり、親 しみを感じ仲良くなる。一方、長女が通う日本人小学校でも、学校での迎えがあり、他 の駐在員配偶者との接点ができるが、最初は、「一見近寄りがたい」と思った。しかし、
駐在員配偶者の中に「関西弁であいさつしてくれた人がいて、気が楽になった」。話し てみると「すごい気さくな人たちもいてほっとする」が、常に「ちゃんとしなきゃ」と いう気持ちもあり、駐在員配偶者とのつながりにおいては、気を使っていた様子が伝わ る。
日本人学校に通う長女も、「すでに友だち同士のグループができていた」が、「転校生 が好きなハーフの子72」と仲良くなり、その子がバレーをやっていたので、一緒にバレ ーを始め、次女も同時に習い始める。JD さんは子どもたちに現地での習い事をさせた いと思い、友だち4人に声掛けして、子どもたちはテニスも習い始める。その頃は、自 分たちで何人か仲間を見つけてクラスを設立してもらうやり方が多かったと話す。また、
現地の幼稚園に行っていた人から情報を得て、スケート教室にも娘2人を通わせる。し かし、子どももJDさんも言葉が理解できず、教室の情報もあまり入ってこなかった。
JDさんは、最初の 2 年間は会社から援助がでるということでドイツ語の語学学校に も通うが、授業になかなかついていけず、公文でドイツ語を学ぶ。生活の中ではドイツ 語を使う機会もなく、「何もわからなくても生活できるんです。病院にも日本人の先生 とか、日本人の通訳の人が居るし。英語とかドイツ語のできる人も周りにいて助けても らいました」と話す。そして、ドイツ語より英語の方がいいのではないかと思い、駐在 員配偶者の友だち4人を誘い英語を学び始める。JDさんは、「ひとりで行くのはできな いので。ひとりで行くというのは自分の中にはない」と話す。また、日本人向けのピラ ティスのレッスンも始める。JDさんは、「(自分の)子どもの数 × 知り合いの数」と話
72 日本人学校には、日本人のみでなくドイツ人と国際結婚した親の児童が、在籍する場合 もある。JDさんの長女が仲良くなった友だちも、父親がドイツ人・母親が日本人で、
日本からデュッセルドルフの日本人学校に新しく入学してくる日本人生徒と友だちに なりたがっていたという。
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し、子どもを通して少しづつ他の駐在員配偶者のネットワークが広がっていく。
次女も日本人幼稚園から日本人小学校に上がるが、入学式の時にJEさん、JFさんを 含めた5 人と初めて出会う。JD さんは、小学校に上がった次女にプールを習わせたい と思い、日本人向けプール教室の関係者から、日本人6人のグループができれば、日本 人向け教室を開くことができることを聞き、JE、JFさんも含め入学式で知り合った母親 たちに声掛けする。「みんなに声掛けするのは、ひとりではなんにもできないからなん ですよ」と笑って話す。語りに繰り返される「ひとりで何もできない」という言葉から、
常に何か新しいことを始める時に、友だちや誰かと一緒に行動することを好む姿勢がう かがえる。6人の仲間たちとの結束は、ひとりでは心細く感じたり、新しい世界に一歩 踏み出す時に躊躇してしまいがちなJDさんにとり、常に心強いものであったと察する。
徐々に家族ぐるみのつながりに発展し、いろいろなイベントを皆で計画した。6家族 で公園でピクニックシートを敷いてご飯を食べたり、日本人小学校の運動会で、昼食時 に日本人小学校のグランドで皆で鍋や材料を持ち寄り、カレーを作ったりもした。デュ ッセルドルフ日本人小学校の運動会は週末開催で、父母のほとんどが参加する一大家族 行事である。当日は皆お弁当持参で、ピクニックシートを校内のグランドに敷き、家族 で楽しむ。確かに6家族の合同カレー作りはかなり際立って人目を引くものであったで あろう。「もしかして、かなり目立っていたかも」とJDさんは、はにかんだように話す。
また、生活の中で、いろいろな形で仲間同士助け合った様子が語りから伝わる。
JD:日本人小学校は毎日お弁当なので大変です。自分が病気になった時でも作らなく ちゃいけない。絶対私しか作る人がいない。コンビニもないし、冷凍食品とかき のきいたのがない。(中略)ある日、ぎっくり腰になりまして。(住むところには)
エレベーターもないし、外に行けない。みんなにお弁当を作ってもらい助けても らいました。
さらにJDさんは、長女の中学校受験時のことを話し始めた。受験にあたり、次女を ドイツに残して、日本とドイツを行ったり来たりすることになり、(実家の)母にも次 女の世話でドイツに来てもらった。JD さんが日本に一時帰国している間、次女や「右 も左もわからず、車も運転できない」JDさんの母のことも 5 人の駐在員配偶者の仲間 たちにも助けてもらったとしみじみ語る。
生活の中で困った時に仲間にいろいろ助けてもらい、有難く思ったことが分かる。
また、5年の駐在生活を送ったJDさんは、デュッセルドルフのエクスパトリエイト・
コミュニティを「日本人が密集しているコミュニティ」で「特異」なコミュニティと言 い、「デュッセル何秒っていって、すぐに噂が広まり、すべてがわかってしまいます」
と話す。子どもの誕生会でもいろいろと気を使ったことを話し始めた。
JD:日本人学校はお母さんが迎えに来るし。誕生会でも、だれだれちゃんの家に行く のがばればれで。うちともうひとりしか呼ばれていなくて、(誕生会に行くのを)