第 4 章 駐在員配偶者の日常生活実践
4.6 エクスパトリエイト・コミュニティからの解放
4.6.2 グラデーションのある生活―JC さん
JCさん(40代)は独立行政法人の貿易機構勤務の夫に伴い、2011年に小学5年の息 子と小学1年の娘を帯同してデュッセルドルフに赴く。デュッセルドルフ駐在前には2 回のウィーン駐在(計4年間)、ハンブルク駐在(2年間)経験がある。
JCさんは栃木出身で父親は公務員、母親は専業主婦で 2歳下の弟と3歳下の妹が居 る。地元の公立の小・中・高校に行き、高校2年時にメキシコにAFS89のプログラムで 1年間交換留学し、現地では現地のホストファミリー宅で生活する。渡航国に関しては、
選ぶことができず、事務局が振り分け、たまたまメキシコになった。英語圏に行きたい 気持ちもあったが、父親からも勧められ、留学する。
*:留学生活はどうでしたか。
JC:すごい楽しかったですよ。なんにも知られていない国だった。今みたく情報もな くて。県立図書館に行っても、メキシコについての書籍なんてなんにもなかった んで。あのー(自分がメキシコに対して)偏見がなんにもないんですよ。予備知 識がなくて逆に楽しい。
メキシコでの生活は、全く「予備知識」もなく、「全部自分で発見」で、「面白かった」
と話す。ただ、「言葉がなかなか通じなくて」「相談できないのがつらかった」。授業は、
現地の学校で皆と一緒に受けるが、「わかんなくてもただ座っていればよくて」「ずっと スペイン語を勉強していました」と笑って話す。クラスメートたちは「みんなすごくよ くしてくれ」、「(スペイン語の)優しい言葉を(選んで)使ってくれた」。JCさんは「わ かんないことがあったら聞けばいい」と明るく話す。言葉が何もわからない状況でも、
89 AFSはAmerican Field Service の略で高校生の1年間交換留学プログラム。
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楽観的に捉え、「わからなければ聞く」という姿勢を学んだことが分かる。さらに「メ キシコの人は暖かくで情が深くてすごくよくしてもらった」と当時を懐かしそうに話す。
帰国後、高校2年次を繰り返した為、高校には4年間通うことになるが、当時を振り 返り、次のように語った。
JC:後輩のクラスに入るには、日本の社会はちょっと難しかったですが、まあ今にな ってみれば、2学年にわたって友だちができたのですごく良かったです。すごく いいですね。すごく面白い。知り合いが増えて(笑)。
その後、メキシコ留学でスペイン語が好きになり、「もっときちんと勉強して、留学 先の友だちと文通もしたい」と思い、高校を卒業し、19歳で上京して東京の私立大学で スペイン語を学ぶ。「裕福な家ではなかった」ので、親からは、「それだけの出費をする のなら、それ相応の大学に行かなければいけない」と言われ、「頑張って勉強した」。そ して希望の大学に合格し、「親も喜んで」くれ、「快く送り出してくれた」。当時は、地 元では勉強の為に娘が家を出てひとり暮らしすることを許してくれない親もいたこと に触れ、「快く送り出してくれた」親には感謝の気持ちを持つ。JCさんは、「その大学に 絶対入りたかったので。スペイン語をやりたかったので」と話し「スペイン語ができて 嬉しかった」と話す。大学時代の最初の2年間は、出身の栃木県からの補助を受け、県 が保持する学生寮で生活し、その後、上京した妹と都内のアパートに住む。高校時代に 管弦楽部にいたので、大学ではオーケストラ部に入部し、バイオリンを担当する。自分 の学科では、スペインに留学する学生も多くいたが、「自分は高校の交換留学でメキシ コに行って1年遅れているし、高校時代にも行かせてもらって親に経済的に負担もかけ てるので」と話し、留学はしなかった。卒業後は、高校でのメキシコ留学中に貧しい農 村で暮らす人びとを目にし、日本に居ながら開発経済援助に関わる仕事がしたいと思い、
第1希望の貿易機構に入社する。入社後は、開発部門ではなく管理部門に配属され、海 外事務所とのやりとりなどの仕事で、海外出張もなかった。社内で6歳上の今の夫と知 り合うが、夫は、先にウィーンに海外赴任になり、1年ほどの遠距離恋愛の上、結婚を 決める。仕事と結婚のどちらを取るか迷ったが、「乙女ですし、ウィーンは大きかった」
と笑って話す。会社は1年半ほどで退職する。
ウィーンでは、毎日ドイツ語の学校に通い、3時間半のコースで学んだり、会社の上 司の奥さんの声掛けで、皆で会って情報交換したり、部下の妻を心配した社長夫人から 紹介を受け、「半分義理で」日本人会の婦人部コーラスなどにも参加した。JC さんは、
当時はもっと「会社の奥様同士の付き合いが今よりあった」と話す。これは部下の配偶 者たちを心配する前述の M さんの語りにもみられたが、以前は上司の妻たちが社内の 配偶者同士のつながりを気にかけていた様子が見える。そして部下の配偶者たちは、「義 理」や「義務感」を感じ、対応していたのであろう。
2年のウィーン生活を終え、帰国し、日本で3年ほど過ごす。日本では「できたらス ペイン語を使った仕事をしたい」と思い、派遣会社に登録して、文化交流協会でスペイ
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ン語の事務の仕事をした。仕事は「スペイン語も使えるし、周りの人にも恵まれ、楽し かった」が、2年半ほどして夫がハンブルク赴任の辞令がおりる。その時は、「ちょうど 仕事の方も煮詰まってきたり、人間関係もいろいろあり、必ずしもハッピーじゃなかっ た」と話す。そして、帰国して数年の海外赴任ということで、あまりに早い辞令で驚い たが、「積極的な気持ち」で夫に帯同する。ハンブルクでは、夫がひとり事務所の為、
周りには同じ会社の駐在員配偶者がおらず、「結構(ドイツの空は)暗くて90」会社の「奥 様」たちとのつながりもなかった。しかし、半年近く経ち、母校の大学の現地同窓会や 日本人向けの料理教室などで少しづづ日本人駐在員配偶者とつながる。当時、自分は20 代後半で、自分と同年代で子どものいない女性たちとも知り合ったが「ゆるーいつなが り」であった。また、週2回ほどドイツ語の語学学校にも通った。
2年のハンブルク駐在生活の後、そのまま帰国せず横移動で再びウィーンに赴任にな る。その時、妊娠5か月で引っ越し、ウィーンで出産するが、産後の肥立ちが悪かった り、長男が夜中に何度も起きたりして育児が大変で、「(睡眠時間が少なくて)まず寝た い」といつも思っていた。ウィーンの生活は「出産と子育て」に追われる日々であり、
海外にいながらベビーシッターなどを頼んでメールを使って仕事をしている女性の話 を耳にして、「すごいな」と思ったが、「自分には絶対無理だと思いました」と話す。会 社の「奥様方」も数人いて、いろいろ情報を得たり、以前のウィーン駐在中に知り合っ たオーストリア人ともつながるが、親しく会って話をするという感じではなかった。ウ ィーンでは、病院の先生も皆オーストリア人で、ドイツ語しか使えないので検診前に自 分でドイツ語の単語を調べたり、1週間前から勉強して用意した。夫は、「自分でできる でしょう」と言って、病院に同行せず、JCさんは「自分で何でもやる感じで、大変な思 いをしてやりました」と語った。そしてその後駐在したデュッセルドルフの生活とウィ ーンでの生活の違いに触れ、「(デュッセルドルフは)不動産もお医者さんも日本人がい て、私の苦労はなんだったんだろうって。全く苦労が報われないと思った。あんなに大 変な思いをしてやったのは」と半ば憤慨する気持ちで語る。しかし、夫から「あなたは できる人でいたいでしょう」と言われ「確かにそうだなと思って。うまく言われて、納 得して(笑)」という語りからは、自分は「できる人」でありたい気持ちを持ち、そし てそれができるという自信もうかがえる。
長男が1才10か月の時に帰国して横浜の社宅に住む。周りは海外から帰国した家族 ばかりで、皆、携帯電話などもあまり知らず「知らなくて当たり前みたいで、そういっ た意味では楽でした」と話す。半年ほどして東京郊外に家を購入し、引っ越す。最初は 子どもを連れて公園に行くと、他のお母さんたちと「会話がつながらなかった」と話し、
次のように語った。
*:会話がつながらないというのはどうしてですか。
90 ドイツの冬は日も短く、晴れの日も少なく重い雲が立ち込め、どんよりしている日々が 多い。日本と比べて「暗い」印象を受けたのであろう。
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JC:子どもはもともと好きではなかったから、他の子とどのように接するのか、わか ってなかったから。オーストリアの子どもの接し方と日本と全然違うんですね。
子どもが遊んでいても、ひとり、本を読んでてもいいし。ここだと初めましてと か、おいくつですかと。でもすぐ仲間に入れてくれるわけじゃないですし。全然 逆。(中略)知らない子を友だちって言うんだって初めて知って。お友だち、今 会ったばかりの子がお友だちっていうの。
帰国して、子を介しての日本人の母親たちとの接し方に、駐在先のオーストリアと違 いを感じて戸惑ったり、なかなかうまく仲間に入れなかった。しかし、長男が幼稚園に 通園し始め、引っ越し後に生まれた長女も同じ幼稚園に通園したこともあり、幼稚園仲 間の母親たちと仲良くなっていく。次女の幼稚園送迎で「ママ友」とおしゃべりするの は、「苦痛じゃなくて楽しかった」。また、近隣も「すごくいい人」で「誘ってくれ」「会 うと嬉しい人」もでき、とても「ラッキーでした」と話す。
日本の生活においては、1回目のウィーンからの帰国の時と同様に「逆カルチャーシ ョック」を感じていた。海外では「はっきりと話さなければいけない」のに日本では「話 し方を丁寧」にしたり「柔らかく話さなければいけない」「きつく思われちゃうみたい で」と人間関係において違いを感じる。また、「年上の男性と話す時も日本の女性は下 手に出なくちゃいけない」と話し、「(男性に対する)無駄な謙遜ですよ。今も嫌いです けど」ときっぱり言う。
8 年半、日本での生活に「どっぷり」使ったJC さんは、次に海外赴任になった時、
「ぬるま湯のような日本の生活からも抜け出せるか」不安であった。そして、長女が幼 稚園を卒園し小学校1年、長男が5年生になる時にデュッセルドルフに夫の赴任が決ま る。
JCさんは、夫の会社は、入社してから、「3-4回(海外に)出る会社なので」覚悟を決 めていたのに、また海外に出ることに「ショック」を受け、また「ショックを受けてい る自分にもショックを受け」4 日間ほど寝込んでしまった。3回目のドイツ語圏でデュ ッセルドルフは、「日本人が多すぎて大変」という噂も耳にしたり、引っ越しや子ども の学校手続きなどの大変さを考えると「あまり行きたくなかった」と話す。しかし、夫 は海外行きを希望し、子どもにも「海外体験をさせたい」とも思い、「いざとなったら 覚悟」を決め、渡独する。
居住地は「日本人が固まって多く住むところには住みたくない」という理由でメアー ブッシュに決めるが、子どもたちの学校は、子どもたちの希望で2人とも日本人学校に 入学する。
*:学校は現地校やインターナショナルスクールという選択がありますが、どうして 日本人学校になさったんですか。
JC:うちの原則です。本人に選ばせるっていうのが。親としてはインターナショナル スクールか現地校ですよ。もったいないと思って。せっかく向こう(ドイツ)に