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第 4 章 駐在員配偶者の日常生活実践

4.5 駐在生活における自己への意味づけ

4.5.2 自分への挑戦―JA さん

筆者の知人であるJAさん(40代)には帰国後、日本にてインタビューを行った。デ ュッセルドルフに5年3か月暮らし、帰国してすでに12年ほど経っていたが、当時の 生活を思い出しながら語ってくれた。1999 年に建設会社に勤める夫の赴任に伴い、11 歳(小学6年)、9歳(小学4年)の娘2人と5歳(年長)の息子をデュッセルドルフに 帯同する。

JA さんは、父親が国家公務員で転勤が多く、小学校時代は東京、その後、静岡、高 松、そしてまた東京というように子ども時代に国内転勤を経験した。

*: 国内転勤を何回か経験なさっていますが、大変でしたか。

JA: そうですね。新しいお友だちと別れなければならないから。でもまた行った先に、

新しい友だちができるし、それは幸せなことだったかもしれません。いじめとか にあわなかったし、いいお友だちもたくさんできたし、幸せです。

自分が転勤族であったことをJAさんは、今ポジティブに捉えている。一浪して大学 に入り、心理学を専攻し、卒業後、化学メーカーに就職し、調査やマーケティング部で 仕事をする。夫は東京出身で高校の同級生で、大学時代から交際を始める。そして夫が、

大学院修了後、就職し、1年間新入社員研修で大阪に行くことになり、東京に戻ってき てから結婚する。結婚後も仕事を続け6年勤めたが、出産を機に退職する。

*:お仕事をやめたのは。

JA:長女出産の時に産休を取りました。女性の多い職場で。部長も理解があって。3

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年休みが取れるとのことで、割とそういう制度は整っていました。でも次女がす ぐに生まれ(子どもが)2人になって。保育園に預けて働くというのもありまし たが、子育てに興味があったのでやめました。

JA さんは、やめたことに関しては、「抵抗なくやめたというのはちょっと違うけど。

主婦の生活がいいと思ってというのではなく、いずれ仕事はしたいと思っていました」

と語る。そして3番目の子どもを36歳の時に出産したが、息子が幼稚園に入る頃、自 分が40歳になったら時間が空くので、「その時に何かしようかと思って」いた。長男が 幼稚園入園後は、「何ができるかなって、一生懸命探していました」と話し、消費生活 アドバイザーや「主婦の力を発揮でき、結婚前のメーカーでの仕事の視点を生かせる仕 事」などを考え、通信教育も受けていた。ところが長男が幼稚園年中が終わる時に夫が ドイツへ海外赴任になる。

夫は、海外勤務を希望しており、JA さんも「なかなか海外で生活することもできな いし、子どもたちにとってもかけがえのない経験だと思うので」と語り、前向きな気持 ちで夫に帯同した。

デュッセルドルフ赴任後、JAさんは「40歳になったら何かしたいという気持ち」を 抱き続けながら、デュッセルドルフで新たな生活をスタートする。「朝目覚めた時に鳥 の声が聞こえて、すごくいいとこだと思ったけど、聞こえる言葉は全部ドイツ語だっ た。それでここは日本ではないな」と思った。居住地は日本人学校近くということも あり、日本人駐在員家族が多く暮らし、「ドイツという言葉も通じない知らない国に来 たという孤立感はなかった」。そして、長女、次女が日本人学校に通学していたことも あり、駐在員配偶者のネットワークも広がっていった。しかし、周りの女性たちが

「ドイツ語を勉強しない」「日本語だけで生活する」「ドイツ人と会話しようとしな い」様子を目の当たりにして、「(そのように生活することは)可能であったかもしれ ないけど、みんなと同じように生活しようとは思わなかった」ときっぱり話す。自分 は、買い物をしたり、近所付き合いなど日常生活を送る上でドイツ語の必要性を感 じ、ドイツ語の学校に週2-3回2年、その後はドイツ市民大学(VHS)81に3年ほど通 う。

また、現地においては、仕事はできないので、「(仕事ではなく)いろんなことに挑 戦しようと思った」と語る。小学6年生と4年生の次女は日本人小学校に入れるが、

息子は、現地の幼稚園に入園させる。渡独した当初は、近くに日本人幼稚園があった ので、そこに入園させるが、「型にはまった幼稚園でみんな同じことをするので堅苦し かった」。また、夫の会社のスタッフに「一番下のひとりくらい現地校に入れたら」と 勧められたこともあり、手伝ってもらい、2、3週間日本人幼稚園に通ったが、その 後、長男を現地幼稚園に移す。そして長男はそのままその年の8月からドイツの現地

81 注(4)参照。

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校に1年生で入学する82。長男の通った現地小学校は、自宅から車で10分ほどの隣町 のノイス市にあり、その地区は「トルコなどからの移民が多く、そんなにハイソサエ ティではなくいろんな子」がいて、「そんなに勉強をガンガンやるところじゃなかっ た」という。

*:長男だけ現地校にしたのはどうしてですか。

JA:日本で帰国子女財団83に行って相談したら、9歳ぐらいまでだったら、現地校に

入れても大丈夫だと言われました。次女は、9歳でしたが、ちょっと神経質な 子でちょっと難しいかなって思って。駐在は5年くらいって決まってるから、

長女、次女は、日本に帰る時は中学、高校になります。それで日本の教育を受 けさせた方がいいと思って、日本人小学校にしました。

そしてJAさんは、長男は、「割と適応力があったから。それに本人に聞いてみた ら、行ってみてもいいって。(本人は小さいし)分かんなかったかもしれない」と笑っ て語った。

長男のドイツ語のサポートには、日本人と国際結婚して日本語ができるドイツ人先 生を探した。長男をドイツ現地校に入れることは「他の人はやっていなかった」「一番 の挑戦で、一番頑張ったことかな」と笑って話す。「息子もよく頑張ったと思う。それ が日本に帰ってからも彼の自信になってるし、強味にもなっているということもある と思うのね。それにあなたはこれをやったんだから、頑張ったって言うこともできる し。私も彼の為に頑張ったという自分の自信にもなったかな」と満足したように語っ た。

*:どのようなことをしたのですか。

JA:(ドイツ現地校で)父母会みたいなミーティングがあるっていえば、なるべく行 くようにしたり。学校の先生とのコンタクトを一生懸命にとるようにしまし た。お誕生日とかいうとケーキを持っていったり。息子がいたホルト84には一時

82 ドイツの現地校は、日本の学校システムと違い、新学期は通常8月から始まる。公立学 校は居住地の管轄地域にある数校の学校の中から選ぶが、入学前に簡単な面接があ る。JAさんの長男は、ドイツ語があまりできないこともあり、比較的教育レベルの高 いオーバーカッセル地区の学校には行けなかった。

83 帰国子女財団とは公益財団法人で正式名は「海外子女教育振興財団」で海外赴任する家 族の教育相談などのサポートを行っている

https://www.joes.or.jp/kojin/sodan (2018年12月13日閲覧)。

84 ホルトは就学前から小学4年生までの子ども(5歳から10歳)を対象とした始業時間前 と放課後の保育所で、昼食も用意される。通常、親が職業を持つ子どもが優先され る。場所は小学校内や幼稚園付属、または独立して設置されているところもある

(Fisch 2004: 240)。

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帰国の時に買った日本のお菓子を差し入れたり。それから息子の友だちを呼ん だりとかどこかに連れて行ったり。

ドイツ語の学校に通っていたとはいえ、ドイツ語も思うようにできず、また日本と 全く違う学校のシステムやカリキュラム、先生とのドイツ語での面談などJAさんにと って大きな挑戦であったと察する。筆者も次女が現地小学校に通っていた時、必死の 思いでドイツ語を学びながら、子どもが仲良しになったドイツ人母親やドイツ人家庭 教師の先生からのサポートを得て、どうにか、現地校に通わせていたことを思い出し た。さらにJAさんは語りを続けた。

JA:仕事ではないけど自分の中で違う方向に向けられたかな。40歳から46歳ぐら

いで。負じゃなくて仕事ができなくってというマイナスな気持ちじゃなくて、

すごいその気持ちを違う方向に向けられた期間だったかな。

当時の自分にとっての「挑戦」を思い出し、感慨深げに語るJAさんだが、その頃、

落ち着くと感じるのは同じアパートに同じ時期に赴任してきた駐在員配偶者やドイツ 語の語学学校で一緒に学んだ日本人の友だちと話している時だったという。帰国後も その時の友だちと時々会う。「生活上の情報交換したり、心配事を話したり」と語り、

友だちは日本人がほとんどでドイツ人の友だちはなかなかできなかったと話す。また 他の日本人駐在員配偶者と一緒に日本人向けの料理、フラワーアレンジメント、テデ ィベア作りなどの教室によく通ったという。

「日本語でしゃべっていろんなことを共有できる友だちがいなかったら、ドイツで の生活は大変だった」としみじみ語るJAさんにとり、日本人社会はまさにほっとでき るところであった。安心感を得ることができるエクスパトリエイト・コミュニティを 基点にし、今までずっと温めていた「40歳になってからの挑戦」をドイツにおいて実 行した。海外にいて仕事ができない環境の中で、経済的葛藤を抱えるのではなく、仕 事ではない別の形での挑戦をすることで、現地での自分の生活を充実させ、生活への 意味づけを試みたのであろう。

4.5.3 「運命」の駐在生活―Cさん

Cさん(50代)は、商社勤務の夫に帯同し、1997年-2004年までデュッセルドルフ に7年暮らし、2008年に2回目の夫の赴任に伴い、高校2年の長女と小学6年の次女 とともに再びデュッセルドルフに帯同する。Cさんは札幌生まれで、両親は九州出身 で父親が鉄を扱う商社で大変忙しく土日もなく働き、自分の母親は「すごい苦労」し た。「九州ってすごく男尊女卑」ともいう。父の仕事は転勤が多く、小学1年から中学 1年までは、名古屋で暮らし、中学・高校も東京都内で転校を繰り返した。Cさんが 大学入学時に、両親は九州に暮らしていたので、姉と2人で東京暮らしをする。1984 年に大学卒業後、商社に入社して6年半勤務し、さらに結婚後も1年働くが、残業も