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現地の人びとの触れ合い―JB さん

第 4 章 駐在員配偶者の日常生活実践

4.6 エクスパトリエイト・コミュニティからの解放

4.6.1 現地の人びとの触れ合い―JB さん

7年のドイツでの滞在を終え、帰国後5年ほど経ったJBさんに日本でインタビュー を行った。JBさん(60代)は、40代の時、メーカー勤務の夫の赴任に伴い、大学1 年生(18歳)の長男を日本に残し、10歳の次男を連れて渡独する。ドイツ赴任前にマ ドリッドに5年駐在経験がある。

JB さんは、東京出身で、5歳違いの弟が居る。サラリーマンだった父親は大変教育 熱心で、JBさんは小学5年生から塾に通い、私立女子中・高一貫校を受験する。大学 は女子大で美術史を専攻し、美術の中学・高校の先生の資格を取得する。また、3歳 からピアノを習い、大学時代にヤマハ音楽教室の指導者認定資格も取る。大学在学中 に、外国に行きたいと思ったが、父親が心配して反対し、行けなかった。卒業後、川 崎市内南部の中学校で美術と音楽を教える。学校は川崎市内の工場地帯で公害指定地 区であった。ほとんどの生徒は「普通の子」だったが、一部の生徒と近くの朝鮮人学 校の生徒たちと乱闘などもあり大変だった。4年後希望を出して川崎市内北部の高校 に異動する。その高校は、父母の教育レベルが高く、教育熱心であった。子どもたち も「1を言えば10を知るような感じのいい子」で成績もよく、「立派に育ち」「めちゃ くちゃ楽しかった」と当時を思い出し、嬉しそうに話す。そして2校目に移った時に 周りの友だちも結婚し始め、自分も結婚願望がありお見合いをする。28歳で2歳年上 のメーカーの海外営業部に居る男性と結婚する。「海外に行くこともある」ということ を聞き「やったー。これだって」と嬉しそうに話し、海外に行けることも結婚を決め た理由の一つでもあるという。

JBさんは、結婚前に教員の仕事をしている間に2回海外に行く。1回目は23歳の時 で、知り合いがドイツに居る関係で、ドイツに3週間ホームステイする。2回目は25 歳になってからで、ドイツで働く日本人の友人宅に泊めてもらい、オーストリアにも 3週間ほど旅行する。そして、旅行している時に、先生の仕事は「いつかはやめたい と思った」。先生同士結婚する人が周りに多く、「先生と結婚したらずっと先生だな」

と感じていた。会社員の男性とお見合いをして、結婚を決めたのは、先生ではない世 界を求めていたのかもしれない。28歳で結婚し、結婚後も仕事を続けるが、結婚後2 年目に第1子を妊娠し、妊娠8か月まで働き、31歳で長男を出産する。育休を取り、

長男が7か月の時に職場に復帰する。その時、長男は区の保育園に預ける。学校勤務 は、朝8時半からで、保育園も同じ時間の為、夫がJBさんの母親のところに毎朝子ど もを連れて行き、母親が保育園に連れて行ってくれた。保育園の運動会や父母会も仕 事があり参加できず、すべてJBさんの母親が代わりに行った。

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*:お仕事に復帰なさったのは。

JB:みんなが働いているから。みんなと一緒みたいな。そんなもんかなあって。先 輩の人たちも働いていて、周りの先生たちから、昔は産休しかなかったのよっ て言われました。(中略)(教員)採用の時が激戦だったので。その時、美術の 先生は5人採用で、150人くらい来てたから。あんな激戦だったのにやめるの ももったいないなって。

そして、2校目の教員生活も8年で、合わせて12年の教員生活を振り返り、次のよ うに語った。

JB:大変なこともいっぱいあったけど教員冥利っていうか。1年か2年に1回くら

いじーんとくる。ああ、いい子たちだなって。こちらがじーんとくる温かい気 持ちになります。8割、9割は泣いていたんだけど(笑)。

結婚して5年経ち、教員生活を続けていたが、長男が3歳になった時、海外勤務の 希望を出していた夫の駐在が決まる。JBさんも結婚当初から、海外で生活したいとい う気持ちは、ずっと抱いていた。JBさんは学期の途中だったので、すぐに退職でき ず、夫より半年遅れてマドリッドに3歳の長男を帯同する。仕事をやめる時は「泣き ました(笑)。子どもたちから花をもらって。でも海外に住んでみたいという気持ちが 強かったので」と笑いながら語った。マドリッドには日本人が周りにおらず、長男は 現地の幼稚園に通う。スペイン語ができない長男に、園長先生が自分のスカートを広 げて、そこにABCとアルファベットを書いて教えてくれたのはとても「有難い経験」

だったと話す。2年ほど経ち、長男もスペイン語にも慣れ始め、友だちのお誕生会に は喜んで行ったりするようになった。小学校は、日本人学校がマドリッド市内にな く、インターナショナルスクールに通う。JBさんは、現地ではスペイン語の語学学校 に通い、現地の友だちもでき、市場にも毎日出かけたり、5年間のスペイン生活は、

とても楽しく帰りたくなく「大泣きした」と話す。スペイン生活に深く溶け込んでい た様子が伝わる。スペイン滞在中に、次男を妊娠し8か月の安定期で帰国する。

帰国後、千葉に住み、当時小学3年生(8歳)の長男は地元の小学・中学校に行 き、次男も同様に地元の幼稚園から小学校に進む。次男が小学校3年生頃になりそろ そろ仕事をしたいと思っていた矢先に、夫がデュッセルドルフに赴任になる。その時 に長男が大学受験の為、JBさんは長男の受験が終わるまで日本に残った。そして大学 が決まった長男は日本に残し、夫より半年遅れて小学4年生の次男を連れて渡独す る。日本に残していった長男は都内に居るJBさんの母親のところに同居した。長男 は、日本で保育園に行っていた時に毎日、JBさんの母親に送迎してもらっていたの で、仲は良かった。

*:ドイツへの赴任が決まった時はどんな気持ちでしたか。

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JB:嬉しかったです。スペインから帰国して、10年(待つこと)は長かったです。

*:ドイツでの生活は。

JB:全く知り合いもなく。夫も駐在員ひとりで。家は、夫が不動産屋に頼んで探し て。日本の人から離れたいという気持ちもありましたが、そこしか空いてない と言われ、日本人幼稚園や公文の近くのオーバーカッセル地区に住みました。

*:学校はインターナショナルスクールに。

JB:はい、(スペインで過ごした)長男の例をみて、その国の言葉ができないとだめ

だと思いました。長男がスペイン語ができて楽しかったから、次男もドイツ語 と思いました。でも10歳だとギムナジウム88ですね。夫の会社関係の人に頼ん で個人的に校長先生に会いに行ったら、無理ですって。息子は名前も書けなく て、4年生に入るのは無理で学年を2年落とすなら大丈夫ですと言われまし た。ドイツ語の壁はとっても高くて。それでインター(ISD)に行ってみたんで す。

インターナショナルスクールでは「英語ができない子を教えるのは、私たちの役目で す」と言われ、快く受け入れてくれたが、授業料が高くて驚いたという。会社からは インターナショナルスクールの授業料の援助はなく、日本人学校の授業料しか出ず、

「何とかギリギリ」で授業料を捻出した。

それではJBさんはどのように他の駐在員配偶者や現地のコミュニティとつながって いったのであろうか。

次男の通うインターナショナルスクールには同学年の日本人が少なく、日本人向け の生活情報などがあまり入手できず、日本人が多く通うドイツ語の語学学校に行く。

学校に週2回午前中、4年ほど通った。そこで自分よりも若い駐在員配偶者の知り合 いができ、ランチなど一緒にしたが、特に仲の良い友だちはできなかった。ドイツ語 学校は授業料も高く、次男のインターナショナルスクールの授業料も値上がりしたこ ともあり、中級レベルのドイツ語の資格を取ってからドイツ語学校をやめる。

その後、デュッセルドルフ日本語補習校から、先生の仕事の話があり、1年間国語 を教えることになる。

*:補習校のお仕事はいかがでしたか。

JB:最高の学年でした。いい子たちばかりで。ちゃんと労働許可も取り、無期限ビ ザももらって。ドイツ語を捨てて、日本語を一生懸命勉強しました。優秀な子 たちで(全日制)日本人学校に行ってるみたい。うんと授業準備しとかないと

(授業)時間が余ってしまうんです。駐在員の奥さんは時間がいっぱいある し、(自分の)子どもは大きいし。午後2時からの授業開始なんですけど、私

88 ギムナジウム 注(42)参照。

144 は学校に12時には行っていました。

休み時間に一緒に大縄跳びをしたりして遊んだことなど、JBさんはとても懐かしそ うにそして楽しそうに当時のことを語った。補習校では日本での12年間の先生時代の ことも思い出したりしたと話す。補習校の先生たちは、現地永住の日本人がほとんど で月曜から金曜まで会社などで仕事をしていて忙しそうで、あまりつながりはなかっ た。

居住地は日本人集住地区で周りには日本人駐在員家族が多く、ほとんどが日本人学 校に通う子どもの居る家族で、JBさんの息子はインターナショナルスクールに通って いる為、日本人駐在員配偶者との接点はあまりなかった。しかし、とても気の合う日 本人駐在員配偶者の友だちがいて「一番仲がいい」と話す。JBさんはドイツ語の語学 学校から情報を得て、以前日本で習っていたトールペインティングの習い事を渡独し て数年後に始めていた。その女性とは、トールペインティグの教室で知り合い、その 後、日本クラブの種々の講習会やセミナー、子どものピアノ教室でも偶然に会うこと があり、「ご縁がある人」で「気が合った」。ドイツ滞在中は一緒に旅行にも行った。

その友だちも帰国し、今は仙台に住むが、毎月1回は会うのが「楽しみ」である。

ドイツでのJBさんの人間関係は息子が高校生になると一変する。

次男が高校1年生になると、デュッセルドルフ日本人学校の中学部を卒業した日本 人生徒たちがインターナショナルスクールに編入してくる(第3章3.4.2.3参照)。そ して、JBさんは、編入してきた日本人生徒の母親たちと急速に打ち解けていく。

JB:(日本人学校から)お母さんたちが入ってきてすごく楽しくなっちゃって。もう 日本人学校に居る間(中学までの間)にお母さんグループができていて、なん だか私は外様(とざま)ぽかったです。「仲間に入れて、入れて」って。(ドイ ツの電車の)時刻表の見方とか、(日本人学校から来たお母さんたちは)なんに も知らなくて。私に任せなさいって。

ドイツ生活も4年目になり、次男もインターナショナルスクールに長く通う為、JB さんは学校関係のことも含め、ドイツでの生活一般のことにも詳しく、日本人学校か ら来た母親たちに、ケルンなどの近郊都市に行く時の切符の買い方などいろいろ教え てあげた。また、日本人学校から来た生徒の母親たちが、あまりに「何も知らない」

のに驚いたという。心の中では、「(ドイツにもう何年居るのかしら。何やっているの かしら)」と思ったというが、「でもそんなこと言えないですよ」と話す。

また、JBさんの語りの「外様ぽかった」というのは日本人学校から来たお母さんグ ループがすでに出来上がっていたのでその部外者という意味と、自分は他の母親たち よりも10歳ほど年上で、「長老」というような立場にいるという意味も含んでいるの であろう。母親たちは皆駐在員配偶者であるが、JBさんは女性たちとつながる中であ る種のルールを決める。