第二章 『借行社記事』に見る陸軍将校の対外観
第二節 陸軍将校たちの対ドイツ観
1.『独逸人のような日本軍人』
目本に波及した大恐慌が、緊縮財政下の目本経済に大打撃を与えたのが1930(昭和 5)年、同年11月には、ロンドン条約問題のために浜口首相が凶弾に倒れる。その後、
外に満州事変から日中戦争が勃発し、内に軍が関係したテロとクーデターが続発する。
ヨーロッパにおいても、ドイツを中心に旧体制打破の動きが活発化し、国際連盟が目 指す世界平和は崩壊に向う。内外激動の1930年代、目本陸軍将校たちは、西方に勃 興するドイツをどのように見ていたのだろうか。
この1930年代初頭、駐独大使として在勤した小幡酉吉1)の軍人に対する懸念を、
補佐役であった七田首席書記官が次のように伝えている2)。(傍点筆者)
rナチが政権を把握すると目本の軍人がナチのいふことを無条件に信用し漸次これに接 近してゆく。その結果ナチと目本軍人とが結び附き独逸人のような目本軍人が出て来るので はなかろうか。さもなくても目本軍人の中には随分独逸贔屓の者が多いのに、この上独逸心 酔者が一層多くなって来てはそれこそ国家の為に大変なことになる。…… 或はもう手遅れ かも知れないがといって大いに心配せられてをった。」
目本陸軍にとってドイツ軍は模範であり、ドイツ崇拝熱が高いことは理解できるが、
「独逸人のような目本軍人」とは、どのような軍人なのか。「日本軍人の中には軍部が あって国家あるを知らない手合が少なくない13)という小幡の言葉からすると、目本 軍人でありながら、自国目本の利益よりも、軍やドイツの利益を優先する軍人と解す ることができようか。また、r手遅れ」とは何を指すのだろうか。それは三国同盟とな って結実した日独の関係を指すと推測できる。小幡は中国勤務が長く、決してドイツ 通ではなかったということから、ここでの目本軍人とは、一部のドイツ駐在武官では なく、目本陸軍将校一般を指すと考えられるが、果たして、1930年代における日本軍 人のドイツ心酔は、国家を傾けるほどのものだったのか。また台頭するナチスをどの
ように認識していたのだろうか。
2.高いドイツ評価
第一次世界大戦後、賠償問題や経済危機に苦しむドイツでは、1930(昭和5)年こ ろからナチスと共産党、左右の勢力が増大するが、ナチス台頭以前のドイツを、『借行 社記事』昭和5年1月号は、r復興濁逸の近況と其興隆の原因 武に強き國は産業に も強い」4)というタイトルで紹介している。I B生と名のる筆者は、ドイツ興隆の原 因として、
「濁國民は大戦前に於ける世界に冠たる軍國濁逸の黄金時代を知ってをるのである。」「固 より猫國今目の復興には濁國民の智的優越、傳統的組織力の長、産業合理化等の諸原因が存 することは勿論ではあるが…… 之を實行する國民にして質實、剛健、堅忍努力等の美風を 把持せなかったならば其政策も何等{買値がないのである」(p.160.)
とその国民性の優秀さを挙げている。さらに軍事と産業は根源において同一であり、
平和運動や反軍運動は、「祖国愛に出発する剛健進取の気風」、つまり「國家興隆の基 礎條件」を奪ってしまうと結論づけている。
翌年の昭和6年1月号では、大村有隣中将が「濁國管見」5)としてドイツの復興ぶ りを報告しているが、その原因を「鍛え上げた精神に因る」とし、特に見逃すことが 出来ないのが、「従来からの軍隊教育」であると具体的な要因に結び付けている。そし て、敗戦後のドイツでは陸軍も志願兵制とされたが、かっての軍事教育を補完すべく 実施されている「青年の膿育拉智徳の教育」の充実を賞賛する。「兎に角謄育は猫國の 軍事豫備教育であり又其の復興の基礎」であり、精神的訓育についても、「其の教育を 行ふには・刺たる国家主義、愛國心拉共同心を養ひ且益々之を強調するのであって殊 に歴史教育に於ては年少者に根底的に其の郷土の美濁逸の国民性及國家を理解せしめ 堅く之と結合する」「兎に角総ての教育は悉く濁逸精神を養ふに在ることを忘れて居な い」(p.183,)としている。そして、ドイツが「今目困窮中にも拘はらず軍備充實に苦 心して居ることも大に考慮を要する」と述べ、目本において不況対策として軍事費削 減を迫る声があることを指摘し、ドイツ国民の隠忍持久を見習うように結んでいる。
これらの記事は、ドイツ復興の主要因を、質実剛健・堅忍努力・愛国心・共同心と いった国民性にもとめており、強い思い込みとドイツ崇拝熱を感じさせる。また、そ の根底には軍事教育の充実があるとしているが、敗戦後に崩壊したにもかかわらず、
旧帝国のドイツ軍に対する高い評価を継続させている。ただし、まだヒトラーはほと んど登場していない。ナチス勃興期ではあるが、ドイツの興隆とヒトラーの功績を結 びっける見方はここにはない。
当時の目本陸軍は、1920年代の世界的軍縮の動きに連動した、山梨軍縮・宇垣軍縮 を経て、1930年代となっても金解禁に伴う不況と緊縮財政から来る軍縮の波の中にあ った。また、一方、社会には大正期からの自由主義・民主主義的な風潮が広がり、不 況深刻化に伴う労働争議・小作争議が頻発していた。これらの状況を考えると、敗戦 と経済危機のどん底から復興のきざしを見せるドイツは、陸軍軍人たちにとっては、
明治以来の模範となった「良きドイツ」、「強いドイツjであり、第一次世界大戦に敗 れたドイツの再評価が、かっての伝統の上に為されているといえる。
特に後の方の投稿者である大村有隣中将は、陸大21期卒で、陸大教官、ドイツ駐 在武官(昭和初期)を勤めた典型的なエリート陸軍将校であり、自己の中にあるr良 きドイツ」「精強なドイツ軍」のイメージと目本の当時の現状を比べる時、氏のドイツ イメージはプラス面を際限なく増幅させたのではないだろうか。「濁逸気質」やr凋逸 精神」を強調するその論調からは、小幡酉吉の言う「独逸人のような日本軍人」を連 想させるものがある。
3.ナチズムの評価と分析
1933(昭和8)年1月、ヒ・トラーは首相に就任し、3月には全権委任法を成立させ て、この後12年間に及ぶナチス独裁体制のスタートが切られた。このカリスマ的独 裁者とその政策を、目本の陸軍将校たちはどのように受け止めたのであろうか。石井 正美工兵大尉は、昭和8年7月号に「伯林焚書」6)を書き、ナチスの政策に言及して いる。
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「『ナチス』が濁逸の天下を掌握してから獅逸の内情は急角度に轄回した、共産蕪は徹底的 大弾屋を蒙り猶太人は相踵で追放せられ獅逸主義は非常としたものに外ならない、」r伯林市 内の書店文庫其他より一切の非國家的書籍をかき集め之を伯林大學の前國立オペラの隣のオ ペラ廣場で大々的に焼き捨てたのである。」(p.175,)
ナチスの強権的な政策を「非常としたもの」と表現しているが、焚書を実行した学 生組合の学生たちを、
「非國家思想を断乎排撃して陰惨なる國家の顛難を打開しやうとする熱心に燃ゆる連中」
(P.176.)
と説明し、焚書という思想統制手段について、
「其是非を云々せんとするものではない然し二十年重歴の下に口申吟した濁逸が生きる為 の眞剣の一手段である事を書落したくは無い。」(p.177.)
と、政策としての適否の判断は避けながらも、明らかに同情を寄せて肯定的な意見を 述べている。
また、翌年1月号には、参謀本部研欧生と名のる人物が「一九三三欧洲政局の回顧」
7〉と題する小論を載せている。ドイツに関しては主にヒトラーの外交政策に言及して いるが、例えばドイツが主張する軍備制限の撤廃、軍縮平等権問題については、次の ようにヒトラーの主張を是認している。
rこの猫逸の主張するところは理論上皇に當然のことであるが、 ・」(p.15,)
同年10月のドイツの連盟脱退に関しても、連盟の無力を痛烈に批判し、ヒトラーの 外交政策に賛意を示している。
「聯盟の企圖せる重大問題は一として成功せるものはなく、悉く失敗を繰返すに過ぎぬ有
様ある。」(P.17.)
これらの記事は、何れもヒトラーの内外政策に対して、同情的な共鳴を行なってい る。ナチス政権の初期段階であるので止むを得ない面もあるが、しかし、そこではナ チズムの本質に迫るような深い分析は全く出来ていない。石井正美大尉は、陸大39 期卒、ドイツ駐在武官となったエリート将校であるが、その観察は皮相的で、「ナチス の支持階層と政策の関係」、内外政策の根底にある「人種神話」、そして、何よりも常 識をはるかに超える「残虐性と破壊性」などにっいてはほとんど目が向けられていな い。それは、参謀本部研欧生においても同様である。このようなヒトラーの政策に対 する妄信的な傾向は、この後さらに加速することになる。
それでは、この時期の『記事』に、もっとナチズムの本質に迫るような分析・研究 が無いのかと言えば、例外的ではあるが掲載されている。それは、鵜澤尚信歩兵少佐 が昭和8年10月号と11月号に掲載した「ヒットラー運動の概観」8〉である。鵜澤少 佐は、大戦間期の各政治団体の主張や動向を整理した上で、ナチスの成長を概説し、
その後の章立てを「ヒットラー運動の根本思想」「『ヒットラー』運動の主要人物」「『ヒ