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太平洋戦争期・陸軍の対外観 : 軍務局長 武藤章を中心として

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(1)太平洋戦争期・陸軍の対外観 一軍務局長 武藤章を中心として一.

(2) 目 次 序章__________一_.__一一..一..鱒_一...一_乙一一_一、_ロ_一..1   第一節研究動機と目的一一一一一一一一一一一.…一.一.一一、一.一..一一_一一_、一1.   第二節研究方法一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一5    1,先行研究の整理 2.問題の所在 3.r対外観」の枠組みと留意点.    4.主たる研究対象と研究方法 第一章連合国から見た日本陸軍と武藤章一一一一一一..一.....………...一一...10   第一節原点としての東京裁判 _一_一一.、....__一一.、一_...._.一..._...10.    1.なぜ東京裁判なのか 2.視点と方法.   第二節起訴状一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一13    1.何が裁かれるのか 2.前文が語ること 3.訴因一18ヵ年にわたる侵略行為.    4.個人責任と武藤章.   第三節最終論告と武藤章一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一17    1.検察側最終論告始まる 2,田中隆吉の登場 3.検察局と田中隆吉    4.田中隆吉証言 5.武藤章に対する最終論告.   第四節判決文一連合国の認識一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一27    1.判決文の朗読 2,国内政治と日本陸軍 3.連合国から見た日本陸軍    4.連合国から見た武藤章 5.起訴状から判決まで.   第五節最終弁論一もう一つの認識 一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一36    1.弁護側から見た日本陸軍と武藤章 2.もう一つの認識一日本陸軍    3.もう一つの認識一武藤章.   第六節小括一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一43    1.判定と刑の宣告 2,武藤章の東京裁判観 3.「歴史の裁き」としての東京裁判    4.軍人の職務. 第二章『借行社記事』に見る陸軍将校の対外観一一一一一一一一一一一一一一一一一 49   第一節『借行社記事』利用の意図と方法一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一49    1.借行社と『借行社記事』 2,視点と方法.   第二節陸軍将校たちの対ドイツ観一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一52    1.「独逸人のような日本軍人』 2.高いドイツ評価 3.ナチズムの評価と分析    4.「聖者」のようなヒトラー 5.ソ連の軍事的脅威と日独提携.    6.外交官森島守人氏の報告 7.防共協定強化へ向けて 8.変わらぬドイツ評価.   第三節陸軍将校たちの対アメリカ観一一一一一一一一一一一一……一一…一一一一72    1。1930年代の日米関係 2.「敵としてのアメリカ』とその弱点    3.「病めるアメリカ」とr絶対的敵アメリカ」 4.日中戦争の長期化と日米関係.    5,陸軍少佐杉田一次氏の考察 6,独ソ開戦と日米関係.   第四節小括一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一88    1.対ドイツ認識 2.対アメリカ認識 3,まとめ. 第三章武藤章の対外観の基礎とその要因 一一一一一一一一一一一一一一一一一…92   第一節軍人への道一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一92.

(3)    1.帝国陸軍軍人武藤章 2.武窓における武藤章 3,学術研究と指揮官への憧れ.   第二節天保銭組とドイツ留学一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一99    1.天保銭組となる 2.陸大時代の武藤 3.陸大教育と武藤    4.教育と研究の10年間 5.ドイツにおいて 6.モルトケよりもビスマルク.   第三節武藤章とクラウゼヴィッツ ー…一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一 111    1.ハンチントンとクラウゼヴィッツ 2.クラウゼヴィッツ『戦争論』の意義.    3.日本陸軍のクラウゼヴィッツ理解.    4.武藤論文rクラウゼウヰツ、孫子の比較研究」の背景    5.武藤章のクラウゼヴィッツ理解 6.武藤論文から見えて来るもの.   第四節永田鉄山と陸軍総力戦派一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一126    1.永田と武藤 2.r邪は正に勝たず」 3,陸軍総力戦派.   第五節新支那派から軍務局長ヘー一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一140    1.自称「新支那派』 2.綴遠事件の反省 3.武藤「一撃論」の意味と背景.    4,中国現地軍における武藤 5.軍務局長の宿題.   第六節小括一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一…一一一”一”””” 153    1,軍人武藤章の原型 2.原則的理解から現実的対応へ.    3.武藤章の対外観の基礎. 第四章武藤章の対外観…一一一一一一一…・一一一一一一一一一…一一一一一一一158   第一節武藤時代一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一 158    1.軍務局長武藤章の登場 2.局長就任時の課題 3.武藤を取り囲む状況.   第二節日独伊三国同盟の締結と武藤章一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一165    1.問題考察の前提 2.陸軍における三国同盟推進と武藤章    3,r総合国策十ヵ年計画」からr基本国策要綱』へ 4.米内内閣倒閣問題.    5.松岡外相と武藤章 6,三国同盟締結後の武藤章.   第三節近衛新体制と武藤章一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一・179    1.問題考察の前提 2.決算委員会での武藤答弁 3,rバスに乗り遅れるな」.    4.新政治体制問題 5.ナチス流一国一党論    6,生まれると同時に死んでいた新体制.   第四節日米関係と武藤章一一一一一一一一一一一一一一一一一一。一一一一一一一一一 191    1.問題考察の前提 2.r世界情勢ノ推移二伴フ時局処理要綱」    3,日米交渉の開始と武藤章 4.「対米英戦回避」とr南方進出」.    5.南部仏印進駐と武藤の決意 6.中国駐兵問題と武藤章の見解    7.「10月2日附米覚書」と武藤章の限界点 8.武藤章の懸念と信念.   第五節小括一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一甲219    1.石井秋穂氏の見解一失敗の根源 2.武藤章の対ドイツ観 3.武藤章の対アメリカ観.    4.状況的存在としての武藤章. 終章一…一………一…一一一…一一……一一一一一一一一一一……一一一一…227   第一節まとめ……一一一……一一一一一一一一一一一一一一一一。一一一一一227   第二節軍人と政治的責任一一一一一一一一一一一一一一一一一一一”一”””層一一”229.   第三節課題一一一一一一一一’”””一””””一”一””””一”””””””232.

(4) 太平洋戦争期・陸軍の対外観一軍務局長武藤章を中心として一. 序章 第一節研究動機と目的  本研究の目的は、1930年代後半から太平洋戦争に至る時期における目本陸軍軍人の 対外観を考察・評価することである。そのため陸軍組織内部の一般的な対外認識を分 析すると同時に、太平洋戦争期軍政の枢機にあった陸軍省軍務局長、武藤章に焦点を 絞ることによって、組織と軍人個人の両面から、目的に迫りたいと考えている。.  目本陸軍は、明治建軍以来、ソ連を主敵とし国防政策を立案してきたが、結果的に は、中国との長期戦に突入する一方で、英米とも対立を深め、世界を敵にまわしての. 絶望的な戦争に踏切ることとなった。なぜ目本は、無謀な両面戦争を行ったのか。エ リート集団であった陸軍幕僚将校たちは、なぜ合理的な判断ができなかったのか。研 究目的の背景にはこれらの根本的な疑問があり、研究へと自己を突き動かした動機と もなっているが、同時に自己の能力に余る大テーマであることも重々承知している。. そのため、研究対象を限定した上記の目的に取組むことにより、自己の根本的な疑問 を考える基礎としたい。.  1930年代後半、陸軍はドイツに急接近するが、その目的は、結論的には「ドイツ利 用」による主敵ソ連の牽制・目中戦争処理・英米圧迫であった1〕。しかし、それらの 思惑はすべて崩れ去ることとなる。果たして陸軍にとってドイツとは何であったのか。. 1941(昭和16)年7月の借行社記事に、ある陸軍少佐が投稿した『将帥ヒットラー』 という小論2)が掲載されている。詳しくは第二章において紹介し考察するが、投稿者. は、ここでヒトラーの生活ぶりを取上げて、r聖人」のように描写し、絶賛しているだ けでなく、ヒットラーに対し軍指揮官・政治家として最上級の評価を与えている。.  ヒトラー・ファンらしき投稿者には、4年後の1945(昭和20)年4月、ソ連軍に より包囲されたベルリンの地下壕で、ヒトラーが失意のうちにエヴァ・ブラウンと共. に自殺しようとは、夢にも思わなかったであろう。そしてこの記事が掲載された昭和 16年7月といえば、独ソ戦が勃発した翌月である。第三次近衛内閣の下、何物かに背 中を押されるように対米開戦に向う目本を、ヒトラーは再度裏切り的行為をもって翻 弄した。何とこの時期に、この陸軍将校はヒトラーを非難するどころか絶賛している。.  『僧行社記事』は、陸軍将校の親睦団体であった僧行社の機関雑誌であるが、陸軍 当局の対将校教育雑誌の性格をも兼備した3)情報媒体であり、この記事が掲載された 「普通号」は一般人にも購読できるものである。このような的外れの世界情勢認識が、. 陸軍全体のものであったとは考えにくいが、このような内容の記事が、借行社編纂部 の審査基準を通過し、全国の将校・一般人の目に触れたことは事実である。それでは 国策決定に関与したエリート幕僚たち、軍の指導者層はどうであったのか。.  丸山真男は戦後すぐ、アメリカの国際政治学者F・シューマン教授の言葉を引き、 次のように目本陸軍指導者の世界情勢認識を論断している4)。 一1一.

(5)  r何故にミカドと総統とドゥチェが、モスコー前面におけるジュダーノフの反撃が成功し っっあるまさにその時にアメリカ合衆国に対して戦端を開いたのかという問題は、現在の ところまだ明確な答えが出ていない。狂熱主義と誇大妄想病に罹った死物ぐるいの狂人た. ちがなした選択は、外交とか戦略とかいった種類の問題ではなく、むしろ精神病理学の問. 題とした方が説明がつき易いのである。」(筆者註:F.Schuman,SovietPoliticsatHome and Abroad,5)丸山真男訳)…… 東京裁判で巨細に照し出された、太平洋戦争勃発に至. る政治動向は、開戦の決断がいかに合理的な理解を超えた状況に於て下されたかというこ. とをまざまざと示している。対米宣戦は世界情勢と生産力其他の国内的条件の緻密な分析 と考慮から生まれた結論ではなく、むしろ逆にミュンヘン協定のことも強制収容所のこと. も知らないという驚くべき国際知識に欠けた権力者らによって「人間たまには清水の舞台. から眼をつぶって飛び下りる事も必要だ」という東条の言葉に端的に現われているような デスペレートな心境の下に決行されたものであった。.  果たして太平洋戦争期の陸軍のエリート幕僚たちの世界情勢認識は、丸山が言うよ うに、驚くべき貧弱なものであったのか、さらに目本の指導者たちの政治選択は、合. 理性のかけらもない、狂人の所業であったのか。そして、その結果が、日本だけでな くアジア・太平洋にまたがる無数の人々の犠牲となったのか。.  本論文においては、以上のような問題意識を出発点とし、目本陸軍将校たちの「対 ドイツ観」r対アメリカ観」を中心とした対外観を明らかにし、さらに彼らが持ってい た外交理念に迫りたいと考えているが、その際、エリート軍人の代表的存在であり、. 東条内閣第一の政治幕僚であった軍務局長、武藤章に焦点をあてたい。その理由は以 下の2点である。. ・ 武藤が軍務局長をつとめた2年7ヶ月6)に、目本は対米戦に向け重要国策を遂 行している(三国同盟・大政翼賛会・目ソ中立条約・目米交渉・南部仏印進駐・真 珠湾攻撃など)。幕僚として最も冷静な判断が要求される局面で、彼がどのような. 認識に基づいて政策立案に臨んだのかを明らかにすることは、日本陸軍将校の対外 観を考える際、最適のモデルとなりうると考えるからである。. ・ 武藤は、昭和史の「かたき役」として知られるが、文学・社会思想などに広い教. 養を持ち、家庭にあっては独り娘を愛する子煩悩な父7)であり、軍人としては単 純な武人タイプの典型的目本将校8)としては括れない合理主義者・現実主義者9). であった。つまり、武藤は決して偏狭な思想の持主ではなく、当時の目本陸軍を代. 表する軍人であったが、陸軍という大組織が、その武藤に何を求めたのか、苦悩の  目々の中で彼が選択した行動原理と世界情勢認識は、どのようなものであったのか  という視点は、五百万陸軍という巨大な官僚組織と有能な一人の軍官僚の関係を考 える好材料と言える。. 一2一.

(6)                       註 1)「対米英蘭押戦争終末促進二関スル腹案」 (1941年十一月十五目第六十九回連絡会議) 〔『太.  平洋戦争への道』別冊資料編所収p.585,朝日新聞社,1963年〕には以下のようにある。 「方針  一. 速二極東二於ケル米英蘭ノ根拠ヲ覆滅シテ自存自衛ヲ確立スルト共二積極的. 措置二依リ押政権ノ屈伏ヲ促進シ狼伊ト捷窮ジデ先シ奥ク癌伏ヲ函ウ来ク継 識意志ラ喪失せジムルニ勉ム」 (傍点筆者).  また、極東国際軍事裁判においてゴルンスキー検察官は、以下のように目本の行動を指摘し ている(『極東国際軍事裁判速記録』第85號,新田満夫編,雄松堂書店,1968年。)。 r… 目本帝國主義ガ、殴州三於ケル描逸ン騰莉三賭〃夕当ト従ツテ、濁蘇戦ノ結末二関スル. 日本政治家ノ豫測ヲ心二留メテ置カレナケレバ、如何ニシテ目本ガ米合衆國ヤ大英帝國ヲ攻撃 スルニ決シタカト云フコトヲ了解スルコトハ、全ク不可能ナコトナノデアリマス。」 (傍点筆 者). 2)『借行社記事』陸軍少佐遠藤悦r将帥ヒットラー」,昭和16年7月号,pp.109−122.. 3)木下秀明r雑誌『借行社記事』所在一覧(資料)」『軍事史学』軍事史学会12、1977年,p,94。  『楷行社記事』に関する解説参照。. 4)丸山真男「軍国支配者の精神形態」1949年 『増捕版 現代政治の思想と行動』未来社,1979. 年,第96刷pp.88−89.丸山氏のファシズム研究に対しては、現在までに幾多の批判がなされ  ていることは承知している。そして、特に「軍国支配者の精神形態」に関しては、筒井清忠氏に  よって、この論文における資料操作上の問題点・疑問点が提示されている。(『昭和期目本の構造』,、.  有斐閣,1984年,pp.6−11,)しかし、丸山氏のrファシズム論」は、現在においてr古典」的. 存在であり、目本ファシズム研究の原点といえる。そこで、研究者にとっての基本的な日本陸軍 観を例示するため、本論文においてはこれを引用した。. 5)丸山氏の引用脚注では「F.Schuman,SovietPoliticsatHome&ndAbroad,1946,p.438,」とな. っていたが、筆者が確認した同書(ただし発行年は1949年であった。)では、丸山氏が訳した箇. 所は、433ぺ一ジであった。. 6)武藤の軍務局長就任期間の2年7ヶ月(1939年9月30日∼1945年4月20目)は、昭和期の 歴代軍務局長の平均在職期間が1年2ヶ月であるのに比して、佐藤賢了(2年8ヶ月)とともに、 最長に近い。(日本近代史研究会編『日本陸海軍の制度・組織・人事』東京大学出版会,1979年  第5刷。参照). 7)『暗い暦 二・二六事件以後と武藤章』(澤地久枝,文藝春秋,1982年。)では、筆まめであっ た武藤と家族との書簡や彼の俳句が載せられており、人間武藤の一側面を窺い知ることができる。. 8)『軍人と国家上』(S段muelP且untington著. 市川良一訳,原書房,1978年,P125。)には以.  下のようにある。. 一3一.

(7) 「職業軍人倫理は、軍人的価値と尚武的価値との間に明確な一線を画するものである。しかし. ながら、目本の軍隊の場合には、理想的な将校とは武人たることであり、他の人々による暴力 の行使を指揮する一個の管理者であるよりも、自ら暴力に従事する戦士たることであった。」. 9)武藤の合理性を示す格好の材料として、1942年5月、近衛師団長としてスマトラに着任した彼  が部下に行った訓示がある。重要事項を3つほど述べているが、その中で、最後に強調している  のは「玉砕の禁止」であった。(武藤章『比島から巣鴨へ』,実業之日本社,1952年。). r玉砕は自殺行為である。軍人が戦場に臨む既に死は必定である。然し自己のなすべき準備 万端を怠り、玉砕以て足れりとするは不忠の最大なるものである。我々は寡兵よくスマトラ 防衛の任務を達成せねばならぬ。」(p.77,). 一4一.

(8) 第二節研究方法 1先行研究の整理   太平洋戦争期、目本陸軍の対外観に関係する研究は、従来さまざまな形で行われて  いる。まず、1962年から太平洋戦争原因研究部『太平洋戦争への道』1)(全七巻、別.  巻)において、対外観研究を含む総合的な史実が考証され、1971年の藤原彰「目本  陸軍と対米戦略」2)により日本陸軍の対米認識および政策決定への関与過程が検証さ.  れた。そして心理的側面に焦点をしぼり日米対立を見直したものとして、1971年、.  三輪公忠r対米決戦へのイメージ」3)があり、1977年の佐伯彰一r仮想敵としての  アメリカのイメージj4)は、目米未来戦争物というユニークな視点から民衆レベルの  対米イメージを解明している。また、人種偏見・人種主義の面から太平洋戦争をとら.  える試みとして、1987年にジョン・W・ダワー『人種偏見一太平洋戦争に見る目米  摩擦の底流』5)、1991年にクリストファー・ソーン『太平洋戦争における人種問題』.  6)がある。そして、1989年の澤田次郎『近代目本人のアメリカ観 目露戦争以後を  中心に』7)は、目本人の対米感情にまで踏みこんで対米イメージを考察し、2000年、.  黒沢文貴『大戦問期の目本陸軍』は、目本陸軍の対米認識を『借行社記事』を用いて  明快に分析している8〉。なお対外観関係はもちろん太平洋戦争に関する全般の戦史記  録として、防衛庁防衛研修所戦史室編纂の『戦史叢書』9)があり、この時代の研究に.  は欠かせない基本資料であることは言うまでもない。.   一方、同時期の目独関係を扱った研究としては、1975年、三宅正樹『日独伊三国同  盟の研究』lo)があり、ヨーロッパ側の史料と学説を駆使し、目独関係の実像を浮かび.  あがらせた。同じく外国資料を利用し、三国同盟と日米関係破局の関係を再検討した  著作に、1977年、義井博『目独伊三国同盟と日米関係』11)がある。これらは、もち.  ろん目独関係史の優れた論考であることは言うまでもないが、政治・外交史的研究で  あり、目本陸軍の対外観をメインテーマとするものではない。1996年の三宅正樹『目  独政治外交史研究』12)において、「目本陸軍にとってのドイツ」、「ヒトラーと目本人」.  という内容が含まれるが、私の乏しい知見によれば、対アメリカ観研究の多さに比し て、対ドイツ観を中心とした研究は少ないように思われる。.   また、武藤章にっいては、A級戦犯となっただけに、多くの回顧録や著作に「昭和  史の憎まれ役」としてその名を散見できる。同時に武藤復権の書もあり、特に軍務局 長時代の武藤章と懇意であった矢次一夫氏は、多面的な武藤像を伝えている13)。しか.  し、まとまった武藤章研究と呼べる著作は1980年代までなく、1981年に上法快男編  『軍務局長武藤章回想録』14)が、1982年に澤地久枝『暗い暦一二・二六事件以後と 武藤章』15)が出されている。そして、保阪正康氏は、武藤章の合理性に注目し、「良. 識派」軍人10人の中の1人にその席を与えている16)。武藤章関係資料の乏しさを考 えると、これらの研究は利用可能な資料を最大限用いた意欲的な労作と言える。しか  し、これらは、武藤に関する証言の編集を中心としたものであったり、人間武藤章の  ドキュメント的な作品であり、武藤の対外観を実証的に解明しようとする目的のもの ではない。. 一5一.

(9) 2.問題の所在  上記1の先行研究整理から、次に自己の研究における2点の課題を提示したい。 ① 太平洋戦争期における目本陸軍軍人の対ドイツ認識及び対アメリカ認識につ  いては、特に政策担当者に影響を与える陸軍組織内の一般将校レベルの認識にお  いて、十分に考察・解明されているとは言えない。. ② 武藤章研究においても、武藤章の対外観そのものを研究対象とした論考は見当.  たらず、軍務局長武藤章の対外認識と陸軍の政策決定との関係に視点をおいた研  究については、まだ研究の余地が残されていると考えられる。.  本論文においては、上の2点を「問題の所在jとして踏まえ、第一節の研究目的で 述べたように、目本陸軍と武藤章の対外観を考察したいと思う。.  ただし、ここで断っておく必要があることは、筆者の本研究が、目本陸軍や武藤章 の復権のため、あるいは彼らの判断が不可避かつやむを得ない決定であったと是認す る意図や事前の結論をもって行うものではないということである。あくまでも価値中 立の姿勢を堅持し、実証的な考察を試みたいと考えている。 3.『対外観」の枠組みと留意点.   「対外観」を研究対象とする限り、何を以て「対外観」とするかという定義づけが必.  要とされる。対外観を定義することは自己の能力を超える作業であるが、今研究に取  組むに当たって、自分なりの枠組みを確保したい17)。. ・ 同時代の世界情勢・国際政治、世界各国の内治・外交、世情などへの認識・判断 や評価を対外観として扱う。. ・ 本研究においては、対ドイツ・アメリカ観を中心とするが、太平洋戦争期におい ては、目独関係・目米(英)関係は、目中関係・米中関係と無関係ではあり得ない。. そのため、必要な程度において、対中国観も視野に入れて取組む。対ソ連観もであ  る。. ・ 対外的な行動・態度のみでなく、内治(政治・軍事・経済・社会など多方面)の. 改良や変革への意欲もまた、国際情勢や諸外国の趨勢への認識・判断と深くつなが っていることから、対国内への行動・態度も研究対象とする。. そして、対外観の具体的内容としては以下の諸点に留意したい。. ・ 陸軍軍人は、ドイツ・アメリカの国力・軍事力をどのように評価していたのか。. ・ 陸軍軍人は、英米流の自由主義・民主主義・個人主義をどのようにとらえていた のか、そして、「ワシントン体制」・「九ヶ国条約」・r不戦条約」など、英米を中心に. 形成された当時の世界秩序をどのように理解していたのか。. ・ 陸軍軍人は、ドイツおよびヒトラー、さらにナチズム・ファシズムをどのように 一6一.

(10) 考えていたのか。. ・ 陸軍軍人はソ連・中国大陸における共産主義をどのように理解していたのか。. ・ 上記4点と関連する目本の国内政策一国防政策、国民統合政策、教育・思想統制、  国内世論指導など一に陸軍がどのように関与したのか。 4.主たる研究対象と研究方法.  ①東京裁判における起訴状・論告・弁護・判決を分析する。  東京裁判における目本陸軍と武藤章像は戦後評価の原点と考えられる。裁判に おいて連合国が捉えた目本陸軍と武藤を抽出し、研究の出発点とする。 ② 『借行社記事』18)における陸軍将校の対ドイツ・アメリカ認識を対象とする。.  昭和期を中心とした『借行社記事』の中から、対ドイツ・アメリカ研究について 数点を抽出し、そこに見られる対外観の傾向を整理する。先行研究と研究目的の関 係からドイツ関係に重点を置くつもりである19)。考察の対象を現実の政治過程では なく、『借行社記事』とするのは、当時の陸軍内部において広く一般的に展開されて いた議論を知ることができると考えるからである20〉。. ③ 武藤章が歩んだ軍人としての道を歴史の中に辿り、対外観形成の基礎となった要  素を考察する。.  大正・昭和期における陸軍の発展と共に歩んだ武藤章が、エリート幕僚となり職 務に精励する過程を資料の中に求め、その中から武藤の軍人観、職業倫理、軍事学 研究成果、国際情勢認識などを汲み取る。. ④ 武藤時代の目独伊三国同盟と目米交渉を主たる研究対象事項とする。.  武藤章の対外観を中心とするため、主たる研究対象時期を、武藤章の軍務局長在. 職期間(1939年9月30目∼1942年4月20目)とする。そして、その間にあった 目独伊三国同盟問題とその経緯及び目米交渉から開戦決意に至る経緯を、主たる研 究対象事項とする。さらに軍務局長として武藤章が取組んだ国内政策も、対外観と の関係から視野に入れる。.  また、武藤章の対外観を見る際には、軍務局長という地位から来る言動・認識・. 態度を「公的な対外観」とすれば、友人・同僚との関係の中で現われた「私的な対 外観」も存在する。本研究においてはこの両者を比較総合して武藤章の対外観とし て扱いたいが、さらにこの二つの差異を出発点とし、巨大な陸軍組織と一軍官僚と いう視点からも武藤の行動及び政策決定を分析したい。.  特定の人物の認識や思想を対象とする際には、人物の心情の壁にまで分け入るこ とが必要な場合もあるが、研究の姿勢としては、その人物の心情に流されることな く、あくまでも武藤の言動・認識・態度を客観的に分析するように心掛け、歴史的. に位置づけたいと考えている。歴史の中にある状況的存在としての武藤章を考察す ることが必要であると考えている。 一7一.

(11)                      註 1)目米関係では、太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道 第七巻 目米開戦』,角田順・福  田茂夫著,朝日新聞社,1963年。 2)藤原彰「日本陸軍と対米戦略」,『目米関係史 開戦に至る十年』,細谷千博他編,東京大学出版.  会,1971年。 3)三輪公忠「対米決戦へのイメージ」,『目米関係史 開戦に至る十年』,細谷千博他編,東京大学.  出版会,1971年。 4)佐伯彰一「仮想敵としてのアメリカのイメージ」,『日本とアメリカ 相手国のイメージ研究』加.  藤秀俊・亀井俊介編,目本学術振興会,1977年。. 5)ジョン・W・ダワー『人種偏見一太平洋戦争に見る目米摩擦の底流』,斎藤元一訳,TBSブリ  タニカ,1987年。. 6)クリストファー・ノーン『太平洋戦争における人種問題』,市川洋一訳,草思社,1991年。 7)澤田次郎『近代目本人のアメリカ観 目露戦争以後を中心に』,慶応義塾大学出版,1989年。. 8)黒沢文貴『大戦間期の日本陸軍』,みすず書房,2000年。本論文においても、黒沢氏の研究手法  にのっとり、氏の成果の上に、その後の対米認識を、『借行社記事』の分析によって追究したい。.  また、黒沢氏は『借行杜記事』における対ドイツ観分析については、同書において取上げていな  いので、今回、著者が試みてみたい。. 9)防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書』,朝雲新聞社。 10)三宅正樹  『日独伊三国同盟の研究』,南窓社,1975年。 11〉義井博  『目独伊三国同盟と目米関係』,南窓社,1977年。. 12)三宅正樹  『日独政治外交史研究』,河出書房新社,1996年。. 13)矢次一夫「陸軍軍務局の支配者」『文藝春秋』32(16)、pp.96−115.1954年。   同 『この人々 私の生きてきた昭和史』,光書房,1958年。 同 『昭和動乱私史 上・中』,.  経済往来社,1971年初版。   同  『昭和動乱私史 下』,経済往来社:,1973年初版。など。矢次氏はこれらにおいて、武藤.  の言動に関する貴重な記録を残している。. 14)武藤章著 上法快男編 『軍務局長武藤章回想録』,芙蓉書房,1981年。 15〉澤地久枝  『暗い暦一二・二六事件以後と武藤章』,文藝春秋,1982年。. 16)保阪正康  『陸軍良識派の研究 見落とされた昭和人物伝』,光人杜,1996年。保坂氏には他  に、陸軍省軍務局の目米開戦への動きを扱ったドキュメント、『陸軍省軍務局と日米開戦』(中央.  公論社,2002年。)もあり、ここでも武藤は中心人物の一人として描かれている。. 一8一.

(12) 17)「対外観」の定義については、主に芝原拓自氏の「対外観とナショナリズム」(『目本近代思想体.  系12 対外観』,岩波書店,1988年,pp.458−534.)を参考にさせていただいた。. 18)本論文で使用した『借行社記事』については、僧行文庫と防衛研究所に所蔵されているものの  中から筆者が日独・目米関係において重要と考えられる内容の記事を選択した。   記事の所在や目次(タイトル)の確認については、木下英明「雑誌『借行社記事』所在一覧(資.  料)」(『軍事史学』軍事史学会12,1977年,pp.94−113.)、同r雑誌『借行社記事』別冊附録  所在一覧(検索資料)」(『軍事史学』軍事史学会13,1977年,pp.78−95.)及び吉田裕監修『借.  行社記事 目次総覧』(全5巻・別巻1,大空社,1990年。)を利用した。 19)註の8参照。. 20)「対外観」に関する先行研究として参考にさせていただいた黒沢文貴氏はその著『大戦間期の日  本陸軍』(みすず書房,2000年。)の中で次のように言及している。. 「現実の権力状況をより正確に理解するためには、まず政策担当者がどのような内部環境に. おかれていたのか、すなわち、そもそも当時の陸軍内部において、政策担当者に影響を及ぼ すような議論や、政策担当者の意を受けたような議論が、広く一般的にどのように展開され ていたのかを知ることが肝要だと思われるからである。」(p.297・). 一9一.

(13) 第一章連合国から見た日本陸軍と武藤章 第一節原点としての東京裁判 1.なぜ東京裁判なのか.   第一章「連合国から見た日本陸軍と武藤」の目的は、連合国(アメリカ)が目本陸  軍と武藤章をいかに評価したのかを知ることである。東京裁判における起訴状・論告・.  弁護・判決の中から、連合国が捉えた目本陸軍と武藤を抽出することをねらいとして  いる。.   言うまでもなく、東京裁判に映し出された目本陸軍及び武藤像は、アメリカを中心.  とした検察側の視点、連合国11力国のみで構成された裁判官の視点から描かれたも  のであり、一方的な組織・人物像といえる1)。そして東京裁判は、戦前・戦中の目本.  評価や戦後の国家としての在り方を考える上で、重要なメルクマールとなっており、  戦後、目本陸軍及び軍人評価を決定付ける主要因を形成している。この軍事裁判を「勝.  者の裁き」による不当な政治的断罪と捉えるか、戦後国際秩序を形成するための「文  明の裁き」と位置づけるか、その評価をめぐる議論は今なお後を絶たない2)。しかし、.  本章の目的は、この軍事裁判の法的な正当性評価や、目本陸軍とその指導者たちの歴  史的再評価を行なうことではなく、あくまでも連合国が捉えた目本陸軍と武藤章をそ.  のまま取り出すことである。そして、その組織・人物像を出発点と位置づけ、第二章  以下への問題提起とすることを意図している。. 2.視点と方法   東京裁判の膨大な全内容に含まれた日本陸軍と武藤章、その全体像を扱うことは、.  本論文の目的に適合するものではない。本論文の目的があくまでも目本陸軍と武藤章  の「対外観∫であることから、当然、本章においても「対外観」をその主たる対象と.  する必要がある。そのため以下の諸点を留意点としたい。なお、以下の諸項目は、主  体としての連合国(アメリカ)が、客体としての目本陸軍の対外認識(対米英・対独  中心、対中・対ソも)や軍人武藤章をどう評価していたのかを問題の方向性としてい  る。. ①目本陸軍(軍人)は、当時の国際体制(ワシントン体制、九ヵ国条約、不戦条約  などその他諸条約・協定3))をどのように考えていたか。. ②目本陸軍(軍人)は、ドイツ・アメリカの国力をどう評価していたか。また自由  主義・民主主義・ファシズム・ナチズムをどのように考えていたか。. ③ 武藤章は陸軍内においていかなる存在であったか。陸軍の意思決定における武藤   章の役割と責任。. ④武藤章が、三国同盟及び目米交渉に対してどのような考えを持ち、いかなる行動  をとったか。. 1946(昭和21)年5月3日に始まった東京裁判は、419人の証人が出頭し、779通 一10卿.

(14) の宣誓供述書を含む4336通の書証が出されて審理され、2年半の時間を費やして昭 和23年11月12目に結審した。本章においては、その全記録の中から「起訴状」・「検 察側最終論告」・「判 決」を主たる対象とし、「極東国際軍事裁判所憲章」や「弁護側. 最終弁論」をも視野に入れて、それらの公表された資料の中にある日本陸軍と武藤章 を取り出したい4)。また武藤章については、特に検察側論告の基礎となった田中隆吉 証言5)とそれに対する武藤の反論、弁明6)にも注目したい。. 註 1)検事は1名の首席検察官と10名の参与検察官からなり、首席検察官はアメリカ人のジョセフ・  B・キーナンであった。裁判官にっいては、目本降伏文書の調印国九ヵ国から各1人ずつ出すこ  とになっていたが、米英の主張でインド・フィリピンを加え、11力国となった。目本および中立 国からの裁判官は認められなかった。これらの裁判官・検察官の構成は、連合国最高司令官マッ. カーサーが行政命令として制定した『極東国際軍事裁判所憲章』によって規定された。さらにそ の条例そのものも、キーナン首席検察官によって起草されたものであった。(リチャード・H・マ. イニア,安藤仁介訳『東京裁判 勝者の裁き』,福村出版,1985年新装版第1刷,p40,参照。).  また、大沼保昭氏は次のように論評している。「このように、裁判所の構成、被告人の選定おい て、東京裁判が『連合国=勝者の裁き』であることはまごうことなき事実であった。」(大沼保昭  r『文明の裁き』『勝者の裁き』を超えて(東京裁判の現代史的意義)」,『中央公論』,中央公論社,. vol.98(9),1983年8月,p168。).  なお、「極東国際軍事裁判所憲章」にっいては、『極東国際軍事裁判速記録』(新田満夫編,全 10巻,雄松堂書店,1968年。)では、「極東国際軍事裁判所條例」と訳され収録されているが、 今目では、charterの訳語である「憲章」が用いられることが多く、本論文においても「憲章」と した。. 一ll一.

(15) 2)東京裁判の評価ついては、その直後から今目まで、内外の歴史学者・法律学者のみならず様々.  な識者が論評を行なっており、その形式や法的正当性だけでなく歴史認識のあり方も含めて盛ん. に議論されている。容易に結論が得られるような性格の問題ではないし、本文においてrことわ  り」を入れたように、本論文の目的とは直接関係を有しない問題である。.   なお、この問題については、北岡伸一氏が示唆に富んだ見解を提示されており、その内容は、  東京裁判には「勝者の裁き」「文明の裁き」の二つの顔があったこと、「政治的行為」「正義の追及」. の両方に主眼があったことを認めた上で、東京裁判とは元来そういうものであり、戦争から平和. への大転換を実現するための国際政治上の巨大行為として、最もよく理解できる、というもので  ある。(五十嵐武士・北岡伸一編『〔争論〕東京裁判とは何だったのか』,築地書館,1997年,p237,  参照。). 3)へ一グにおけるr陸戦の法規慣例に関する条約」(1899年、1907年〉や赤十字条約(1906年、  1929年)など当時国際社会において認知されていた国際人道法関係条約をさす。なお東京裁判に. おいては判決文の附属書B・C・Dとして目本が違反した条約・公式誓約が示されている。(新田 満夫編『極東国際軍事裁判速記録』10巻,雄松堂書店,1968年,pp.826−831。以後、『速記録』  とする。). 4)「極東国際軍事裁判所憲章」、「起訴状」、「判 決」については『速記録』(第10巻)、「検察側最.  終論告」(一般・個人)については『速記録』(第8巻・第9巻)を、また「弁護側最終弁論」に  っいては、一般弁論は『東京裁判却下未提出辮護側資料』(東京裁判資料刊行会編,国書刊行会,.  第7巻,1995年。)、個人弁論は『速記録』(第10巻)を利用し、参照・引用した。 5)r田中隆吉証言」については、『速記録』以外にも、『東京裁判資料・田中隆吉尋問調書』(粟屋  憲太郎ほか編,岡田良之助訳,大月書店,1994年。)を利用した。. 6)武藤章の反論・弁明については、『速記録』における弁護側個人弁論(武藤章口供書を含む)を 利用した。. 一12一.

(16) 第二節起訴状 1何が裁かれるのか  東京裁判の開廷に先立つ1946(昭和21)年4月29目、米英中ソをはじめとする11  力国は、首席検察官と参与検察官を通じて、28名の日本人に対する「起訴状」を提出.  した。すでにその約3ヶ月前の1月19目には、マッカーサーの命令により、17条よ  りなる「極東国際軍事裁判所憲章」が布告され、その後、検察局による実質的な被告 選定が開始されていた。.   東京裁判が裁く法的な対象は、「極東国際軍事裁判所憲章」によると、「平和に対す  る罪j、「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」であり、r上記犯罪の何れかを犯さんと.  する共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に参加せる指導者、組織者、教唆者及び  共犯者は、斯かる計画の遂行上為されたる一切の行為に付、其の何人に依りて為され.  たるとを問はず、責任を有す。」Dとある。三つの罪それぞれにr共同謀議」論が採  用され、個人責任が問われている。そしてその共同謀議の参加者として、武藤章を含.  む28名が、A級戦犯として訴追された。 2.前文が語ること.   55項目の訴因からなる「起訴状」を見ると、その大綱を説明するために前文が置か  れ、その後、各訴因が続いている。そして、さらに各訴因を支持するための主要な事  実を記した附属書が附加されている。今、その前文を要約すれば、以下の通りである。. ①「目本の対内外政策は、犯罪的軍閥により支配」され、指導された。そして「目  本国民の精神」は、世界の諸民族に対してr民族的優越性」を有しているという、  「有害なる思想」に毒されていた。. ②日本の議会制度には、rドイツに於てヒットラー及びナチ党に依りイタリアに於て.  ファシスト党に依り確立せられたると同様の組織が導入」され、大部分の資源が戦  争目的に動員された。そして、rナチ・ドイツ並にファシスト・イタリア」が参加し.  た目本の「共同謀議」の目的は、「侵略国家に依る世界の他の部分の支配と搾取jで  ある。. ③「国際法並に神聖なる条約上の誓約、義務及び保証」をやぶって、「侵略戦争の計  画、準備、開始又は遂行」を意図し実行した。. ④「目本國政府の諸機関」に対して、「陸海軍派閥」は勢力と制圧を強め、r翼賛会  等を創設」して「国家主義的膨張政策」をとった。そして、「武力による目本の膨張  計画を推進する為」、「ドイツ及びイタリア」と軍事同盟を締結した。2).   つまり、自民族中心主義を唱える陸海軍の犯罪的軍閥が、ナチスやファシスト党  同様の全体主義で目本の内外政策を支配し、世界制覇を目指して、国際法や諸条約  に違反して侵略戦争を開始した、というのである。そして、その「犯罪的軍閥」と.  して個人責任を追及されるのは、一般の目本国民や天皇ではなく、28人の被告たち  である。さらに、彼らをナチスと同様の組織であり、共通した目的を持っていたと 一13一.

(17) 見倣している。そこには反自由主義、反議会主義、反社会主義的思想と人種主義、. 民族主義的特徴を持つナチス・ドイツに類似した目本、そのドイツと軍事同盟を. 締結して、国家主義的膨張政策を掲げ、国際秩序を無視する目本という国家があっ た。. 3.訴因一18ヵ年にわたる侵略行為.   55項目の訴因は、3つに分類されている。第一類が「平和に対する罪」(第1∼36)、.  第二類がr殺人及び殺人の共同謀議の罪」(第37∼52)3)、第三類がr通例の戦争犯  罪及び人道に対する罪」(第53∼55)4)であり、いずれも共同謀議が問われた。もち.  ろん訴因の中心をなすのは、第一類「平和に対する罪」であり、侵略戦争や条約違反  の戦争の計画準備、開始、遂行と細かく分けられている。   第一類の各訴因を見ると、第1は、「一九二八年(昭和三年)一一月一日より一九四五  年(昭和二十年〉九月二目に至る迄の期問」、18ヵ年にわたる共同謀議であり、「東ア.  ジア並に太平洋及びインド洋並に右地域内及び之に隣接せる凡ての国家及び島喚に於.  ける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得する」ことを目的としていた。第5は、同  じく18ヵ年に及ぶ共同謀議であり、その目的は「ドイツ、イタリア及び目本が自己  特有の圏内に………夫々特別支配を有することに依り全世界に亘る軍事的、政治的及.  び経済的支配を獲得する」ことにあった。残りの34の訴因は、第1の訴因を細分化  したもので、侵略の被害国別のもの、さらに被告をいくつかのグループに分けたもの  から構成されていた。これらから以下のことが言える。. ①訴追の対象が、18ヵ年の長きにわたる、東アジア・太平洋・インド洋における  侵略行為であること。. ② それぞれの被害国に対して、国際法・条約・協定・誓約に違反して戦争を行っ  たこと。. ③目独伊三国が、各自の勢力範囲を決めて、全世界支配を計画し遂行したこと。.  目本が違反した②の国際法・条約・誓約などについては、附属書B・Cに別記され ている。「国際紛争平和的処理條約」(1899年,1907年,ヘーグ)、「敵対行為の開始 に関するへ一グ第三條約」(1907年)、「国際連盟規約」(1919年)、「九國條約」(1922 年)、「ケロッグ・ブリアン條約(不戦条約)」(1928年)、「目ソ中立條約」(1941年). など5)であるが、特に目本のこの時期の対外政策(対中国政策)にとって重要なのは、. 九ヵ国条約と不戦条約である。ワシントン会議の一環として調印された九ヵ国条約は、. 中国をめぐる国際関係において、アメリカが強く主張していた門戸開放政策をその準. 則として樹立されており、目本の特殊権益獲得・勢力範囲設定をめざす対中国政策を 真っ向から否定するものであった。事実目本は満州事変以後、九ヵ国条約違反という. 非難を無視し、該条約の拘束力を否認して、米英を中心とした国際秩序に対抗するこ ととなる。その意味で、目本による九ヵ国条約違反とは、米英を中心とした国際体制. 一ワシントン体制一への挑戦であり、特にアメリカとの関係では、目本が対米協調か ら対米強硬(反米)外交への歩みを進めることを意味したのである。目本の対中国観 隅14一.

(18) と対米観が問題となる。.  訴因1で目本の犯罪の始期をr1928年」としているのは、言うまでもなくr不戦条 約」がこの年にパリで調印され目本も批准しているからである。この条約以後、目本 が行なった戦争一満州事変・目中戦争・ノモンハン事件・太平洋戦争など一は、すべ て侵略戦争であり、それらの戦争を準備、計画、開始、遂行した被告らは、不戦条約 という国際秩序を無視した国際犯罪人であるという見解を表している6)。そして、彼. らが選んだパートナーが同じ犯罪国家ドイツであるという全体構図となる以上、日本 の対ドイツ観が問われるのである。.  訴因53から55までの第三類は、戦場や占領地での捕虜や一般人に対する虐待や虐 殺を指し、「通例の戦争犯罪」としている。これにっいても目本が違反した条約・保証. が附属書Dに別記されており7)、それによるとr陸戦の法規慣例に関する第四條約」 (1907年)、r俘虜の待遇に関する國際條約」(rジュネーヴ條約」1929年)、r陸地軍 隊に於ける傷者及び病者の状態改善に関する國際條約」(「赤十宇條約」1929年)など を指している。. 4.個人責任と武藤章.   これら55項目の訴因が、28人の被告に当てはめられて、それぞれ訴追された。各  被告と訴因の関係8)を見ると、被告各人の訴因合計数の平均は「41」で、特徴的なの.  は第一類「平和に対する罪」の訴因1∼17が28人全員に訴追されていることである。   この部分は、「侵略戦争の共同謀議」、「侵略戦争の計画準備jにあたり、目本をド.  イツと同様の侵略国家と位置づけるためにr侵略戦争の共同謀議」に力点を置いたキ  ーナン首席検察官の意図が窺える9)。そして、民間人であった大川周明と外交官であ.  った白鳥敏夫を除く、残り26被告全員が第三類「通例の戦争犯罪」で訴追されてい  ることである。訴追と判決を比較するならば、有罪と判定された平均訴因数は、r5」.  に満たないほどに減少するが、やはり訴因1のr侵略戦争遂行の共同謀議」について  は、松井石根と重光葵をのぞく全員に有罪判決が下ることとなる。この結果は、検察.  側の意図どおりであり、戦争違法観に基づき侵略戦争を否定する戦後国際秩序を見据  えたものとも考えられる。.   武藤章は、55の訴因のうち48項目について訴追されている。その内訳を見ると、  第一類「平和に対する罪」の大部分と、第二類「殺人」の37∼43「宣戦布告前攻撃の  殺人」の全部、そして第三類の全部が、問われている。つまり侵略戦争の共同謀議、.  計画、開始、遂行と太平洋戦争の不法なる攻撃開始を行なった政策決定者としての責  任と、通例の戦争犯罪の責任を有するというのである。そして、附属書Elo)r起訴状  に記載せる犯罪に対する個人的責任に関する記述」によると、「各被告に対してその占.  むる地位よりする権力、威信及び個人的勢力を利用し、…… 各訴因に掲げられたる.  犯罪行為を促進し且遂行する為めに用いたることを訴追するものとす」とある。武藤  の場合には、「陸軍大学校教官」(1930∼31)、「陸軍省軍務局先任将校」(1935∼36)、.  「参謀本部課長j(1937)、「中支那方面軍司令部附」(1937)、「関東軍司令部附」、「陸.  軍省軍務局長」(1939∼1942)、「在スマトラ近衛第二師団長」(1943)、「在フィッピ.  ン第十四方面軍参謀長」(1944)の役職名が明記されている。 一15一.

(19)  また、附属書Eにはr一九四一年(昭和十六年)に於ける左記時目又はその頃開催 せられたる会議及び閣議の … 諸決議の際に出席し且これに同意せることを訴追す. る」とあり、1941年6月25目から12月1目に至る14回の「連絡会議j、「御前会議」 が列記されている。そのうち武藤が出席し責任を有するとされるものは、8回である。 さらに、「陸軍機関…の凡ての行為又は解怠行為に対する責任者の一人たりしことを訴. 追する」という訴追方針も示されており、1941年当時の武藤の役職がr軍務局長」で あったことを考えると、武藤が陸軍軍人として訴追を受けるのは、軍務局長という重 職にあって太平洋戦争開戦に同意し、戦争回避の努力をしなかった不作為が問題視さ れていると考えられるのであり、そこから武藤章の目米関係における役割と行動を、 アメリカがどう評価したのかも推測できるのである。.                     註 1)『速記録』第10巻,p815.r極東国際軍事裁判所條例」第五條。(なお、『速記録』からの収録に.  あたっては、読みにくさを避ける意味でカタカナをひらがなにしたほか、各文の末尾に句点を打  った。). 2)『速記録』第10巻,p817.「起訴状」。. 3〉この第二類は、裁判所憲章に規定のない犯罪であり、判決では第一類や第三類に吸収する形で 生かし、第二類は直接には認めなかった。. 4) r人道に対する罪」は、ニュルンベルク裁判ではユダヤ人の計画的・組織的大量殺人に対する. 罪として特別の意味を持っていたが、東京裁判では、通例の戦争犯罪と区別されなかった。した  がって判決としても「人道に対する罪」はまったく現われなかった。 (太平洋戦争研究会『東京. 裁判がよくわかる本』,PHP研究所,2002年。参照) 5)『速記録』第10巻,pp.826−829.. 6) なぜ連合国は不戦条約締結以前の侵略行為を起訴しなかったのか、という問題に関して、瀧川. 政次郎氏は「さ』やかなる英・米・仏・蘭・ソ聯諸国の良心」という言葉を用いて、過去におけ  る欧米諸国の植民地主義を批判している。1928年以降とすることで、欧米による過去の歴史的侵 略行為を問題にすることなく、目本の膨張のみを処罰できるのである。 (瀧川政次郎『東京裁判  をさばく(上)』,東和社,1953年再版発行,pp.146・149.) 7)『速記録』第10巻,pp。829−831.. 8)太平洋戦争研究会『東京裁判がよくわかる本』,P H P研究所,2002年,pp.36・39。参照。. 9)キーナンは、はじめから「平和に対する罪」を中心に訴追準備を行なった。(粟屋憲太郎『東京 裁判論』,大月書店,1989年,p85.参照) 10) 『速記録』第10巻,pp。831−835.. 一16一.

(20) 第三節最終論告と武藤章 1.検察側最終論告始まる.   キーナン〆首席検察官による検察側最終論告の序論の朗読が始まったのは、1948(昭.  和23)年2月11目であり、裁判開廷から1年9ヶ月が経とうとしていた。その内容  1)は、満州事変勃発前から太平洋戦争終結に至るまでの目本の共同謀議を中心とした.   r一般論告」と、被告個人の責任を追及する「個人論告」からなっており、検察側は.  その朗読に14目間を費やしている。   本節においては、武藤章への「個人論告」を検討することによって、連合国が見た  軍人武藤章とその対外観を抽出したい。その際、最終論告のために展開された検察側  の、被告武藤章に対する「立証」内容2)にっいても、「論告」との関係で視野に入れ.  るつもりである。なお検察側最終論告は、先ずr一般論告」が朗読されるが、その主  張内容の大部分は、最終的に「判決文」に反映されて行くこととなる3〉。そこで本節.  では、r一般論告jの内容検討については省略し、次節においてr判決文」の中に、連  合国が見た目本陸軍を検討することとしたい。   また、当然ながら検察側最終論告に対応して、弁護側の最終弁論も行なわれている。.  これは目本及び被告個人の弁明であり、そこには弁護側が描いた目本陸軍像、被告像  が見受けられる。詳しくは第五節において後述するが、弁護側の主張内容の要点を、.  本節の検察側主張と対応させて取上げるつもりである。そして、それらも含めて、第  二章以下での日本陸軍と武藤章の対外観追究作業の出発点とするつもりである。. 2.田中隆吉の登場.   1946(昭和21)年7月5目、東京裁判の法廷に、元陸軍省兵務局長田中隆吉(元  少将)が、検察側証人として登場した。その後、田中隆吉はたびたび証言台に上り、.  検事の求めに応じて、さまざまな証言を行なった4)。その内容は、1928(昭和3)年  の満州某重大事件から、桜会の組織、十月事件、張鼓峰事件、そして陸軍省内部の組  織などに及んだが、その証言内容は、大部分が検察側の意図する方向にむかっていた  5)。そして、武藤と田中については、武藤が関東軍参謀時代、田中がその部下という.  関係を持ち、陸軍においてはほぼ同世代(武藤は陸士25期、田中は26期)であった  が、後述するように、田中隆吉は、武藤章に対しては、徹底的に不利な証言を行なっ  ている6)。.   田中隆吉証言は、伝聞を含み正確さに欠けるものであった7)が、検察官や裁判官に.  とっては軍の中枢を知る「内部告発者」と受け止められ、特に検察側にとっては、共  同謀議立証の中軸となる重要な証言であった。田中隆吉証言は、結果として検察側論  告及び判決に対して大きな影響を与えることになるが、特に陸軍省軍務局と武藤章に  とっては、決定的な威力を発揮することとなるのである。そこで、次に、彼と検察局  との関係及び武藤章に結びつく証言内容を検討したい。 3.検察局と田中隆吉.   敗戦後、田中隆吉は手記と著作を発表し、陸軍省の赤裸々な内部を暴露した。その  後、検察局から出頭命令を受け、尋問そして東京裁判証人という道をたどっている。 一17一.

(21) これらの出来事をもう少し詳しく時系列的に整理すると下のようになる。 〔なお以下の整理については、主に『東京裁判資料・田中隆吉尋問調書』(粟屋憲太郎. ほか編,岡田良之助訳,大月書店,1994年。)と、その解説を利用した。以後、『尋問 調書』とする。〕. ① 手記(「開戦前後の真相一敗北の内幕一元陸軍兵務局長の手記」)8〉.                      発表:  「1945年12月18目」 ②  『敗因を衝く一軍閥専横の時代』(以後、『敗因を衝く』とする。)9).                      刊行:  「1946年 1月」. ③検事団事務所への出頭     . 1 「同年2月15日」. ④第1回尋問        : 「同年2月19目」.  (∼第31回尋問  「1947年4月23目」 ). ⑤ 被告人選定の開始                 「 同年 3月11目j. ⑥ 起訴状の公表                   「 同年 4月29目」. ⑦東京裁判開廷        . 「同年5月3日」.  上の整理から、検察局は田中隆吉の手記と著作の内容に興味を持ち、田中隆吉尋問. が実現したことが理解できる。しかも、尋問回数は実に31回、期間にして1年2ヶ 月におよび、まさにその間に検察局によって「被告の選定作業」、「起訴状の作成・公 表」、そして裁判開廷後の「検察側立証」が行なわれている。そこから裁判準備とその. 運営に、田中隆吉の尋問と供述内容が大きく関係したのではないかと考えられるが、 それには田中隆吉の尋問内容と証言内容を検討する必要があるであろう。  田中隆吉は、『敗因を衝く』の中で、陸軍省を中心とした軍閥の専横が無謀な対米開. 戦につながったことを強調しているが、かつての上司・同僚の実名をあげて痛烈に批 判している。その中にはもちろん武藤章も含まれるが、検察局の目にとまったのは、 やはり東条英機であっただろう。  「東条陸相のもとに参謀総長の重職にある杉山大将は、東条陸相の前には猫のごとく無力. である。参謀本部は東条陸相の意のままに動いた。…… 東条氏の得意たるやまさに思うべ しである。」(『敗因を衝く』,p.44.).  「要するに東条内閣は東条一個人の独裁内閣であった。…… 独善的な東条氏の性格から. 見て、彼がもしひとたび英米に対して開戦を決意せば、手負える猪のごとく、蕎地に突進す る事は明らかである。」(『敗因を衝く』,p.61.).  上のような表現は、まさに検察局が求めていたものであったであろう。そして、『尋. 問調書』によると、田中隆吉の供述に「武藤章」の名前が登場するのは、31回の尋問. 中、9回(第4・5・8・12・14・15・17・21・27回)であり、そのうち武藤章の被告 編入に影響を与えたのは、その時期からみて第12回尋問と考えられる。粟屋憲太郎氏 の研究10)によると、検察局による被告選定が開始されたのが3月11日であり、武藤章. が小磯国昭とともに編入されたのが3月20日である。第12回(3月20目)の尋問内容を 見ると、 一18一.

(22)  「一九四〇年七月、武藤は、畑大将を介して米内首相に、三国同盟に加盟することを要求 しました。しかし、米内首相は、彼の言に従うことを拒みました。すると、武藤は、当時の 陸軍大臣の畑に辞任するよう申し入れました。…… このようにして米内内閣は倒れました。. 以上は、一九四〇年一二月に私が畑大将から直接に聞いた話であります。続いて武藤は、近 衛公に新内閣をつくらせる仕事に着手しました。その主要な動機は、三国同盟に参加するこ とでした。同じ年、つまり一九四〇年の九月、彼は、ナチの政治体制そっくりの大政翼賛会 を組織しました。」(『尋問調書』p。123.).  r武藤は、東条大将よりもはるかに頭脳優秀、きわめて野心的な将軍で、統制派の威力と 影響力を象徴していました。一九四一年ごろの日本の政治は、実際に、彼によって支配され ていました。……一〇月半ばまでには対米交渉を打ち切るよう、東条をして近衛に言わしめ たのも武藤でした。」(『尋問調書』p.125.). この尋問がなされた当目、武藤章は被告に編入された。当然、田中の供述が影響力を 持ったのである11)。次に田中隆吉の尋問・証言内容を検討し、武藤章最終論告との関 係をさぐりたい。 4.田中隆吉証言.   ここでは、証拠用資料として活用された12)『敗因を衝く』と『尋問調書』の田中隆.  吉証言が、どのような内容を持っていたか、さらに、それが検察側立証にどのように  活用されたかを見てみたい。.   『敗因を衝く』には、r軍閥専横の時代」という副題があり、この中ではっきりとr軍  閥化とは何ぞや。それは軍が政治経済に関与する事を意味する。」(『敗因を衝く』p.63.).  と明言している。そして、組織としては陸軍省及び軍務局を、個人としては陸相(後、.  首相)東条英機・軍務局長武藤章・軍務課長(後、軍務局長)佐藤賢了の3人を名指  しで批判し、彼らの全体主義的な国内支配や覇権主義的な外交を、「政治関与」であり、.  軍人にあるまじき行為と非難している。これらの姿勢は、『尋問調書』における田中の  証言内容や他の著作13〉にも共通するものであり、検察側に強制されたというよりは、  田中隆吉独特の基本的理解と考えられる。   武藤章に関する証言内容を分類すると、①「対外関係」(対米関係・対独関係 中心)、.  ②「国内政策関係」(大政翼賛会関係 中心)、③「陸軍組織関係」と大別できる。. ① 対外関係.  対外関係の中心は何と言っても対米関係であり、武藤章の対米開戦に向う態度を下 のように明快に証言している。  rアメリカ人はまだ知りませんが、武藤章は、この大東亜戦争の原動力になった人物であ り、したがって、今次戦争にっいて真に責任を問われるべき人物であります。」.                        (『尋問調書』p.91.第8回尋問).  また、ハル=ノートと開戦に関する証言として次のように言っているが、田中は裁 判の検察側立証段階における証人としても全く同様の証言を行なっている(『速記録』 第4巻,157号,p223.)。 一19一.

(23)  r当時武藤軍務局長は局長会報で、『アメリカの最後通牒はこれを受諾するならば、目本は 将来じり貧になって亡びる』と言った。』(『敗因』p.76.).  「一二月八日の正午に陸軍大臣が、陸軍省の全職員を召集し、大講堂でわれわれに訓辞を しました。… 武藤は、『ついにやった、これで東条は英雄になった』と言いました。」.                       (『尋問調書』p.261.第27回尋問). 目米交渉における来栖三郎派遣問題に関しても、次のように言い、法廷でも同様の証 言をしている(『速記録』第4巻,157号,p223.)。  r戦争が始まってから語られたのです。実のところ、武藤は、〔開戦の〕翌日、次のように 言いました。『俺は、来栖を派遣してアメリカを騙してやったのだ』と。」.                       (『尋問調書』p.157.第14回尋問).  以上から、対米戦争を望む武藤章が日米交渉を利用してアメリカを欺き、目本を戦 争へと導いたという、武藤章の対米観・対米戦争観が得られる。.  次に対独関係であるが、田中は武藤とドイツ及び三国同盟に関する証言を数多く行 なっているが、その典型例を選ぶと、下のような例があり、同様の内容を法廷でも証 言している(『速記録』第4巻,157号,p.223.)。  「武藤将軍は三国同盟の熱心な唱道者であり、ドイツは戦争に勝利すると確信していまし た。当然のことながら、彼は、支那から撤兵して支那事変の解決を図るべしとする要求に反. 対しました。もしドイツが戦争に勝てば、英国は完全に敗北するであろうし、その結果、米 国も開戦を断念し、すぺてのヨーロッパ列強は、アジアのすべての国から彼らの勢力を引き 揚げると考えたのが武藤将軍でした。」(『尋問調書』p.125.第12回尋問).  また、上の証言中には、武藤が中国との戦争をどのように考えていたか、つまり対 中国観についても見ることができる。さらには、下では陸海軍首脳部として武藤と明 言してはいないが、前後の表現から当然その中心は武藤を想定していたと考えられる。  r要するに陸海軍の首脳部の開戦決意は、ドイツの必勝を確信し、ドイツとともに戦わば、. たとえわが日本に国力なしとするも、最後には英米ともに戦意を失い、目本の勝利をもって 局を結ぶことを得るとの他力本願のものであった。」(『敗因を衝く』p.76,).  このような開戦時の対外観は的を得ている部分もあるが、武藤及び陸軍軍務局にそ れを当てはめ、全責任を問う姿勢は田中隆吉ならではであろう。武藤章はドイツの国 力・戦力を盲信した陸軍の代表的存在で、ドイツ勝利を前提に対中国戦・対英米戦を 考えた人物であった、という武藤の対外観が示されている。また田中は他の著作で、. 武藤は二度のドイツ遊学において、ナチスの発展をその眼に見て、ナチスの礼讃者と なった、とまで明言している14)。. ② 国内政策関係  陸軍が政治と経済をいかに支配し、戦時体制を構築したかについてである。田中は、. 武藤が畑陸相辞任を工作した15)後のことを、以下のように述べている。 一20一.

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