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第三章 武藤章の対外観の基礎とその要因

第一節 軍人への道

1.帝国陸軍軍人武藤章

  第三章「武藤章の対外観の基礎とその要因」の目的は、陸軍将校武藤章の対外観を  形成した基礎的要因を提示することである。武藤章が歩んだ時代環境や取り結んだ人  的関係に考慮しながら、軍人としての経歴の中から必要事項を抽出し考察したいと考  えている。その際には、武藤がどのような軍人意識・軍人認識(理想像、職業観、使  命感、戦争観など)を有していたかを前提としたい。なぜなら、武藤章は軍人として  の職業倫理や責任を基礎として目本陸軍と国家を見つめ、国際情勢を理解するよう努  めたと考えられるからである。

  熊本県菊池郡菊陽町(旧 上益城郡白水村)、遠く阿蘇の外輪山を望み、田園風景が  広がるのどかな地に元陸軍省軍務局長(陸軍中将)武藤章の生家はあった1)。玄関先  には、武藤が9歳の時に植樹されたと言われるニッケの木が、樹齢100年を超えて今  目でも青々とその葉を茂らせていた。この木は、1906(明治39)年9月、熊本地方  幼年学校に入校し、軍人としての第一歩を踏み出す武藤の姿を、また1942(昭和17)

 年4月29目、「大東亜戦下の軍務局長……熊本が生んだ陸軍の逸材武藤章中将」(熊  本目日新聞 昭和十七年四月三十日)2)として墓参のため郷土入りした武藤の姿を、

 常に玄関先から眺めていたのであろう。

  戦後、巣鴨拘置所への収監直後、家族に宛てた手紙には、「(目本)軍人として」と  いう言葉が多く使用されている。(傍点筆者)

 rいづれにするも蛍人とし七さいぜんをっくしたかこをかえりみ、みじんもはづることは ありませんから、くれぐれもごしんぱいくださいますな。」3)

r私は白本軍入としそ最善を尽くしたのでして、敗戦に就ては誠に申訳ないと思ひますが、

戦争犯罪を犯したことは絶対にありませぬ。j4)

武藤の政治責任を問う論者は、このような表現をもって、豪腕武藤章の自己の活動に 対する正当化、責任逃れと非難していることは承知している。しかし、これら鉛筆書 きの手紙は、家族への細やかな気配りと愛情に満ちており、人間評価の難しい武藤の 別の顔を浮かび上らせるとともに、動かし難い「軍人として」の衿持を感じさせない

だろうか。

 次は、刑が執行される約1ヶ月前の、武藤から兄直也氏宛ての手紙である51。

 「判決は御承知の通りで近々刑の執行があるでしょう。平八叔父上、榮子姉上、初め皆様 どうぞ私の死について悲しまないで。私も既に五十七才ですし、考えて見るとよく今日まで 生きて来たと思ひます。例の昭和三年の一月には赤痢で危篤に陥り、昭和十一年の二・二六 事件には暴兵連の暗殺目標となり、日米交渉には強硬論の刺客につけ回はされ、南方戦線で は再三爆弾や砲弾に見舞はれて度々死地に立ったのですが不思議に生き残りました。だが今 度は確実に死にます。私の心境は至極平静で往生間違いなく、母上の許に行けると信じてい

ます。又々母上に我儘を云ったり、甘へたり出来ると思っています。  ・」

 「死んで行く私としては彼等を拘束する所謂遺言など一切致しませんでした。時勢の変化 がどうなりますやら予測を許さず、世間は益々住難く㌧なるでしょう。なのになまじっかの 遺言は彼等を苦しめる結果となると思ったのです。…… 甥、姪、従姉妹達並に村の人々や 辱知の方々に生前の厚情を深く謝して下さい。呉々も御大事に平和に御暮らし下さい。」

上の「彼等」とは、初子夫人とまな娘千代子さんのことであるが、家族・親戚への繊 細な心遣いが感じられる。そして、何より、新生目本を案じ平和を願いながら、「軍人

として」の死を平静に迎えようと努める武藤の姿が見られるのである。

 帝国陸軍軍人武藤章の対外観や国際理解を求めるには、明治から昭和の時代の中で、

彼が「軍人として」何を志し、巨大陸軍組織の中にあって何を為そうとしたのか、そ して、世界の中で祖国目本をどのように見ていたのかを問うことを避けることはでき ないと考える。

 r二伸  もう一度井口に帰って御飯を味噌漬で頂きたいと思っていましたが、駄目でし た。お母さんが浄土で支度して待っていられるでしょう。」

 浄土で会いたいと願う母加野さんへの武藤の思いは深い。幼い頃より末子の武藤は r母の慈愛を占有してゐた」ということ61であるが、武藤の軍人への道を開いたのも、

軍人好きの母であった7)。軍人への志望は本人のものではなかったのかも知れない。

武藤章のご息女千代子さんは筆者のインタビュー8〉において、「父は若い頃何度か軍 人を辞めようとしたそうです。しかし、常に母親の願いを受けて思い止まったそうで す。」と言われ、「家庭にあっては常に温厚な父親で、軍人らしい厳格さなど全く感じ ることはなかった。」、「思い出すのは部屋でごろんと横になって、三国志などを読んで いる姿です。」と付け加えられた。武藤自身も回想録において、大正デモクラシーの風 潮盛んな頃、軍人が嫌になり懊悩したこと、母の思いを受け止まったことを記してい

る9)Q

 新資料を用いて武藤の実像に迫った澤地久枝氏の労作『暗い暦』においても、素顔 をさらすことのない武藤の人物把握の困難さが語られている10)が、昭和陸軍の顔で あり大軍務局長と言われた武藤を見るには、かなりの慎重さが必要なのかも知れない。

果たして武藤は母親によってひかれたエリート軍人へのレールを、何を思い疾駆した のであろうか。

2.武窓における武藤章

   「武窓」とは、学窓に対する言葉で武人の学校というほどの意味であろうか。幼年  学校・士官学校を指す。武藤の武窓時代を振り返りたい。

  武藤は熊本市の名門済々畏中学から、1906(明治39)年9月、第十期生として熊  本陸軍地方幼年学校に入校し、「独逸班」(ドイツ語班の意。フランス語班と25名づ  つに分かれた。)に入っている。ただこの時は、「武藤」ではなく「井上」姓を名乗っ  ている。親戚にあたる井上大佐の養子となっていたからであるが、これも軍人の家庭  出身者が軍学校において有利と判断した母親の希望であったらしい11)。武藤自身も自

一93・

分の「生徒時代は別に取立て』云ふ程のことはない。」12)と回顧しているが、同期生 の柳勇氏も「当時の武藤は未だ左程目立った存在ではなかった。むしろ北島(卓美)

や富永(恭次)等のほうが頭角を現わしていた。」13)と述べている。

 二こに「熊本陸軍地方幼年學校 明治四十年度第一学年生徒考科列序表」14)、つま り成績表がある。科目は「教授部」として「國語」・「漢文」・「作文」・「佛語」又は「濁 語」・r本邦史」・r本邦地理」・r算術」・r代数」・r植物」・r理化示教」・r書」・r習字」

の12科目(語学はさらに第一分科と第二分科に分かれている。)で、その他に「訓育 部」・r躬行鮎」があり、合計14種類の合計点数と席順が表示されている。r教授部」

の各科目と「訓育部」の点数は20点満点で、「躬行鮎」は60点満点とされている。「訓 育部」とr躬行鮎」は、道徳と実践にあたると考えられるが、全体としては「教授部」

とされる普通科目の合計点数が重視されたことがわかる。

 これらを見ると上の柳氏の回想が頷ける。総員51名中、序列1位は「富永恭次」、

2位はr北島卓美」、1位冨永氏の点数合計は320点満点で308,7点、2位北島氏は 299.7点、武藤は277.9点で、14位(入校時は21位)であった。

 武藤自身、軍学校での授業は「窮屈」であったと不満をもらしている15)が、母の 強い願いにもかかわらず、この頃の武藤は軍人教育の勉学に全力で励んだとは言い難 い。しかし、科目別に見るならば、r濁語」18.1点、r本邦史」18.5点とドイツ語と歴 史に優秀な成績を残しているのは、後年、ドイツ戦史研究に進む武藤の片鱗と考える のは、あまりに牽強付会と思われるだろうか。

 試みに武藤の成績のみを追うならば、陸軍士官学校卒業時の成績が、歩兵科473名 中の42位16)、飛び抜けて優秀とは言えない。「陸士の成績は一生ついてまわる」とい われる陸軍軍人の世界で、武藤はそれほど成績にこだわってはいない。やはり、母親 により切り開かれた軍人の人生であったからであろうか。しかし、その後の武藤は、

難関といわれる陸軍大学校を1回で合格し、卒業時には優等生(各期上位5〜6名)

として恩賜の軍刀を手にする。さらに進級序列17)を見るならば、陸士25期生中、昭 和3年の少佐進級時は3位、昭和7年の中佐時も3位、昭和11年の大佐時は2位と いうように、まさに「陸軍に武藤あり」というエリート軍人の名声を獲得する。

 武藤は陸幼・陸士の窮屈な正規の授業科目よりも、自身が興味のある文学・思想・

哲学の書を好み、耽読したという18)。単なる学校秀才ではない幅広い知識と教養が、

彼の人間的能力と相侯って、陸大での研究や軍人としての実践の場で彼を大きく飛躍 させたのであろう。しかし、若き陸軍将校武藤章が目指したのは、ただエリート軍人 となることではなかったはずである。

3.学術研究と指揮官への憧れ

  武藤家には1冊のアルバム19)が残されている。わずか15枚の白黒写真を収めたご  く普通のアルバムであるが、武藤の軍人としての歩みが見事に配置されている。その  中に大分俘虜収容所所員時代の写真(巻末の写真資料〔写真2〕)がある。6名のドイ  ツ人捕虜と親しげに肩を並べ、外套に片手を突っ込んだリラックスした姿勢で写って  いる。少尉任官後、22歳頃の武藤である。彼の回想録では、来年度の新兵教育の準備・

 計画に取組んでいたところであったので、俘虜収容所の創設・管理は「あまり面白い