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第二章 『借行社記事』に見る陸軍将校の対外観

第四節 小括

1.対ドイツ認識

   これまでの分析から、1930年代の『僧行社記事』における、陸軍将校の対ドイツ認   識をまとめると以下のようになる。

①総力戦遂行の観点から見て、1930年代におけるドイツ人の国民性に対する評価  は非常に高く、日本のモデルとなった明治以来の「良きドイツ」への崇拝傾向が  継続されている。

②ヒトラー政権初期から、その国家主義的・強権的な内外政策及びその主張に対  して共感的理解を示しており、高い評価を与えている。

③ ヒトラー神話を鵜呑みにし、その生活ぶりを取上げて、「聖人」或は「神」に  讐える傾向があった。ヒトラーの本質的な部分一偏狭な人種イデオロギーや思  想の特殊性一を、正確に分析できていない1〉。さらに、その残虐性と破壊性にっ  いては全く記述されていない。

④全体主義国ドイツとの比較において、英仏などの自由主義・個人主義国は、総  力戦遂行の観点から見て、精神力などの面で劣るという偏見が強い。また独伊(目  本も加えて)の結束力は強いという主観的な思い込みが見られる。

⑤ 日本陸軍は、特異なヒトラー外交の本質的原則を理解できず、独ソ不可侵条約、

 独ソ開戦といった背信行為で翻弄されても、指導者ヒトラーとドイツヘの高い評  価に大きな変化は見られなかった。

⑥ナチスが極めて特異なイデオロギーを持った国家であることを理解していな  い。そして、その「ナチスのドイツ」と明治以来の「良きドイツ」を同一視する  誤りをおかしている、と考えられる。

2.対アメリカ認識

  これまでの分析から、1930年代の『借行社記事』における、陸軍将校の対アメリカ  認識をまとめると以下のようになる。

① 1930年代初めの対米認識は、海軍力や航空戦力に対する評価は高いが、民兵中  心の陸軍については、兵士特に将校・下士官レベルの質の低さが欠点・弱点とさ  れた。質の低さとは、士気・服従心・勇敢さなどの「精神力」を意味している。

②敵国アメリカの国民性を理解する必要性が叫ばれることはあったが、大恐慌以  降は、その弱点を誇張し「自由主義」・「個人主義」を疑問視する、イデオロギー  攻撃・否定へと進んだ。

 その点において、目本陸軍にとってアメリカは、「絶対的敵」ではあっても「現実  的敵」とは言い難い。

③ 日中戦争長期化につれて目米関係は悪化するが、アメリカの強大さを冷静に評  価し、対決を避けようとする姿勢はあった。やはり、目本陸軍もアメリカの国力・

 軍事力への恐怖心、対米戦争への不安感は大きかったのである。

④三国同盟締結後の目米対立の背景には、自己中心的な「目本正義論」やドイツ  頼みの希望的観測が内包されていた。また、南進政策に伴う「対米認識の甘さ」、

 っまり、経済制裁などアメリカの対抗措置を過小評価する傾向があった。これら  は超合理的な対米認識と言える。

⑤ 目本陸軍は、国家総力戦におけるアメリカの実力にっいては高い評価を与えて  来た。そのため、陸軍内には対米戦争回避を唱える声も確実にあったが、アメリ  カの対日強硬策発動の意志、参戦意志の判断においては、アメリカの意志を軽視  する傾向があった。

⑥独ソ開戦後の国際変動に際しても、目本は目米戦争を現実的に捉えていなかっ  た。結局、目本陸軍にとってアメリカは常に「絶対的敵」、つまりイデオロギー上  の敵であって、日米開戦直前まで、差し迫った戦争可能性の高い「現実的敵」で  はなかった。

3.まとめ

  1930年代、満州事変以降の国際的緊張の中、日本陸軍は遅ればせながら、総力戦体  制・国防国家確立を目指し主導的役割を担うこととなるが、その際、理想とするモデ  ルは常にドイツであり、ヒトラーの新体制とその躍進は多くの将校たちを魅了した。

 この時期、借行社記事に数多く掲載されたヒトラーとナチズム絶賛記事がそれを示し  ているが、反面、アメリカ関係記事においては、経済恐慌に苦しむその姿を取上げ、

 弱点として自由主義・個人主義の弊害を指摘しつっ、思想戦への警戒を説いている。

  借行社記事におけるこの独・米の扱い方の違いこそが、この当時の陸軍将校の対外  観を如実に示していると言えるだろう。ドイツは目指すべき理想であり、アメリカは  イデオロギー的に排すべき敵であった。しかし、アメリカの弱点・欠点をいくら批判  しようとも、その強大さを認識しないわけにはいかず、「現実的敵」と考えることは出  来なかった。その傾向は目中戦争処理をめぐり日米が対立を深めても変わらなかった。

  目本が、目中戦争解決をもくろみ日独伊三国同盟を締結すると、ヒトラー打倒を表  明しイギリス援助を推進するアメリカとの関係は、一層険悪さを増した。借行社記事  においては、1930年代半ばから40年代にかけても、本質的な理解を欠いたままの妄  信的なヒトラー、ドイツ崇拝記事が盛んに登場するが、一方アメリカに対しては、「目  本正義論」に基いて東アジア支配を認めさせようとする論調が見られるようになる。

 ドイツの快進撃による眩惑は、ドイツ頼みのアメリカ牽制をもたらし、南方進出に伴  うアメリカの対目強硬策をも過小評価させることになった。ドイツ、アメリカに対す  る客観的かつ冷静な認識の欠如が招いた結果と言えるだろう。借行社記事には、目米  戦争に関する根拠薄弱な論説まで出てくるが、対米武力衝突を回避すべきとする記述  も根強く、アメリカが「現実的敵」として認識されていたとは言えないことを示して

 いる。

・89一

 アメリカを含む国際情勢について述べた1941(昭和16)年前半の借行社記事にお いてさえ、対米戦争は想定されていない。記事を見る限り、アメリカの対目強硬策(経 済制裁)発動に対する危機感も認められなかったが、現実には8月、「石油の対目禁 輸令」が発令され、日本は開戦を決意する。「石油の対目禁輸令」が南部仏印進駐の対 抗措置であれ、独ソ戦の連鎖反応であれ、結局はドイツを、ヒトラーを過信あるいは 妄信した結果と言えるだろう。

 1930年代から40年代初めにかけての借行社記事には、自国(自民族)中心的、独 善的な国際情勢理解を示す記事が多く確認された。それらの投稿者の多くは、陸大卒 のエリート将校であり、外交官であり、情報担当の専門家であった。

 戦後、軍部の政治介入(特に軍部外交)の弊害を訴えた元外交官の森島守人氏や、

目独関係の冷静な分析を提示したドイツ大使館付武官補佐官であった遠藤悦氏にして も、目本陸海軍の対米認識の甘さや誤認識を指摘した元情報参謀の杉田一次氏にして も、彼らは、当時の目本では、国際情勢、軍事、外交面の理解度においては第一級で あったと言えるし、戦後の主張においても適切な考察であると高く評価できる。しか し、その専門家たちの記事でさえ、現代から考察するならば、分析の誤りや認識の甘 さを指摘せざるを得ない。借行社記事が陸軍の編集による機関雑誌であり、当時の特 異な目本世論の動向から、それらに迎合するような論説を書かざるを得なかったのか も知れない。しかし、そのような事情を考慮したとしても、これらは、1930年代にお ける目本人の対ドイツ・アメリカ認識を特徴づける典型的事例と言えるし、また、特 殊な時代環境や組織環境の中にあって、冷静かつ適正な対外認識を持つことがいかに 困難であるかを示してくれている。

 もちろん中には、冷静かつ客観的で、合理的な考察もみられたし、学問的にレベル の高い専門的論文もあったことは事実である。しかし、対ドイツ・アメリカに関して は、超合理的認識の諸様相一ヒトラーの「聖人化」、ドイツ勝利への希望的観測、根 拠のない「日本正義論」、アメリカ認識の甘さなど一 が数多く見られたことも事実で ある。特に時代の諸相と借行社記事の内容をっき合わせた時に気付くのは、ドイツの 影響の大きさであり、目本陸軍とドイツとの結び付きの深さであった。

 以上が、借行社記事を通して見た1930年代における陸軍将校たちの対ドイツ観・

対アメリカ観である。武藤章は、このようなr将校たちの対外認識」に囲まれ、軍人 として自己の職務に従事していたのである。武藤は、1920年代前半にドイツ駐在を経 験し、1930(昭和5)年には参謀本部欧米課に席を置いてドイツ関係の調査を担当し ている。さらに1933(昭和8)末には、3ヶ月間欧米を視察する機会をも得ている。

当然、彼は彼独自の対外観を持っていたはずである。果たして彼はどのような対ドイ ツ観・対アメリカ観をもっていたのであろうか。そして、武藤は1930年代末から、

陸軍を代表する軍務局長として、内外政策にその手腕を振るうことになるが、このよ うな陸軍将校たちの対外認識の中で、彼はどのように陸軍の意志を形成し、具体化し たのであろうか。次章以下で扱いたい。