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第四章 武藤章の対外観

第一節 武藤時代

1.軍務局長武藤章の登場

  巣鴨拘置所の武藤章から出された手紙1)には、次のような武藤の言葉が綴られてい  る(傍点筆者)。日付は1948(昭和23)年10月18目、マニラから東京へ移送、収  監されてから2年半が経過し、判決を1ヵ月後に控えた武藤章の言葉である。

 r私は太車洋識争を避けるたあ1とほ高良としそ古能ゐ良夫を息ぐした.廟議決定後ばこれ に基き勝利のためにも亦萬全の奉公を励みました。それは私ゐ杢高ゐ義疹でした。然し私の 関与した限り断じてrアトロスチー」(筆者注:atrocity r残虐行為」の意)に属すること、

国際法規に違反するようなことはありません。単に開戦前軍務局長であった理由で罪ありと するならば敗者ゐ蓮命です。」

 武藤が軍務局長に就任したのは、この手紙から9年前の1939(昭和14)年、目本 及び目本国民が自らの死命を制する歴史的選択を迫られた時期である。武藤は、いか なる情勢認識と意図を持って軍務局長を務めたのであろうか。軍務局長として「可能 の最大」を尽すことを「至高の義務」とした背景には、どのような対外観、世界認識 があったのだろうか。

 第四章「武藤章の対外観」の目的は、軍務局長として武藤章が、太平洋戦争開戦前 の内外問題にどのように反応し対応したかを考察することにより、武藤章の対外観を 引き出し評価を試みることである。その際には、軍務局長武藤章が直面した重大問題 の中から、その対外観が最も反映されたと考えられる、次の3点に焦点を絞りたい。

①「目独伊三国同盟」締結をめぐる問題

②  r近衛新体制」の成立と現実(「高度国防国家」建設)

③開戦に至るr目米関係」の経過

そして、対外観としては「対ドイツ認識」、「対アメリカ認識」を中心に分析し、どの ような国際情勢認識を有していたのかに迫りたいと考えている。

 また、武藤は上の文章に続いて、次のように述べている。

 「目本の辿った進路と政策の是非適否は既に現下の極東情勢が冷厳に批判していると思ひ ます。秀吏弁萌ほ木婁と存じます。」

武藤は、r戦争犯罪jには無罪を主張するが、敗戦の責任及び日本がとったr進路と政 策の是非適否」に対する責任については、軍人として、これを受け容れている。武藤 の言を信じるならば、目米開戦回避のための彼の努力は、結局は実を結ぶことはなか ったのである。しかし、陸軍軍政の中心である軍務局長がr至高の義務」と認識して も、「可能の最大」を尽くしても不可能であったのは、なぜだろうか。

 軍務局長武藤章の対外観を評価する作業には、軍人武藤章個人の持つ世界観、対外

認識を分析することに加えて、一軍官僚の限界性を考察することが避けられないと考 えられる。武藤は、巨大官僚組織である「陸軍」と大目本帝国憲法に規定された「政 治システム」との関係性の中で、軍務局長としての任務を遂行している。そこでは、

武藤個人の持つ内外情勢認識は、軍官僚として要求される価値観や独特の組織文化と 擦り合わされる。武藤個人の認識は、そのまま軍務局長としての認識となる場合もあ ったであろうが、時には変容を迫られたはずである。本章においては、「陸軍組織と武 藤章」との関係及び統帥権独立制をとるr目本の政軍関係」をも視野に入れて、あく までも「軍務局長」武藤章の対外認識を求めて行きたいと考えている。

 1890(明治23)年に生まれた「軍務局」2)は、昭和期には、その役割をはるかに 肥大させ、陸軍軍政3)の中心機関として国政に大きな影響力を持つ組織となった4)。

国防軍を肯定する限り軍は政治と深い関係を持たざるを得ない。前述のように目本陸 軍における政治関与の専門的部門が「軍務局」であり、国家総力戦時代を迎え、予算、

資材、施設など陸軍内の調整をはかり、立法及び行政への連絡役を担う「軍務局」の 役割はますます大きくなった5)。国防の方針と用兵の計画は統帥部である「参謀本部」

が主宰するが、「軍務局」も、資材面における摩擦調整の役割から(海軍との調整も含 め)、「参謀本部」とは不即不離の関係にあった。

 しかし、二・二六事件後、陸軍の国政への影響力が増大し、統制派を中心とした国 家総力戦構想が陸軍全体の合意となると、陸軍内部の政治的対立(皇道派対統制派)

が消滅したために、官僚機構としての側面が強まり、陸軍省と参謀本部の対立に見ら れるように、陸軍内部の意思統一が従来よりも困難となっていった。1930年代から 40年代にかけての陸軍のあり方を見ても首肯できるが、陸軍内部の関係に加えて、政 府との関係においても、その根底には明治憲法体制下における「統帥権独立制」の問 題が横たわっていた。「軍部の国政関与を一面では可能にした統帥権独立制は、総力戦 時代において逆に軍部にとって梗楷となっていたのである。」6)

 そして、その陸軍内部の調整及び政軍関係の連絡を担う陸軍省軍務局の主こそが、

「軍務局長」であり、軍政のトップに位置する陸軍大臣の政治的幕僚長とも言える存 在であった。従ってその権限と責任は大きく7)、激務かっ困難な役職であったため、

昭和期には、17人の軍務局長が誕生しているが、その平均在任期間は、わずかに1年 2ヶ月であった。その中にあって武藤章の局長在任期間は2年7ヶ月、しかも、その 時期が太平洋戦争開始前後の最も困難な激動期であったことを考えると、武藤こそは まさに昭和を代表する軍務局長であったと言えるのである。その意味で武藤が軍務局 長を努めた1939(昭和14)年9月から1942(昭和17)年4月までをr武藤時代」

と呼称できる8)と考える。

2.局長就任時の課題

  武藤は、定期異動で北支那方面軍参謀副長から、町尻中将の後任として陸軍省軍務  局長に栄転してきた。矢次一夫氏は、政治将校としては永田鉄山亡き後、r目華事変以  後の軍部で、武藤章があるいは第一人者であった」と武藤の実力を評価し、「軍務局長  というポストは武藤として、長年胸中深く秘めていた待望のポストでもあった」と武  藤の意欲と覚悟の大きさを推察している9)。軍務局長就任において武藤章が取組むべ

一159一

き課題として認識していたのは、一つは何と言っても目中戦争の処理であり10)、もう 一っはそれを可能にする国内体制の強化であったであろう。

 第三章「武藤章の対外観の基礎とその要因」でも確認したように11)、武藤にとって 事変処理は、自ら種を蒔いた責任を痛感する問題であった。そして、この時点におい ては、日中戦争を「民族的抗争」と理解し、政戦両略による戦争処理を実行できる政 治的決断力が必要であると確信していたのである12)。また、国内体制の強化とは、上 述の事変処理を遂行できる政治体制の確立はもちろん、さらに対英米関係およびヨー ロッパ戦争にも適切に対応できる強力な政府と、それらを支える国家総力戦体制(高 度国防国家)の完成を意味したであろう。そして、それは武藤にとっては強力な政党 による内閣を意味した13)。これらは軍務局長武藤章の課題であったが、目本が直面し ていた問題でもあった。

3.武藤を取り囲む状況

  それでは、上述のような責任を自覚し、かつて師事した永田鉄山と同じ、軍務局長  というポストについた武藤を取り囲む陸軍の状況はどうだったのであろうか。陸軍将  校たちは、いかなる世界認識、対外観を持っていたのであろうか。彼らの認識が、軍  務局長となった武藤章の現実認識及び問題対応方法にいかなる影響を与えたかを、実  証的に把握することは困難であるが、ここでは、第二章r『借行社記事』に見る陸軍将  校の対外観」における考察結果を利用し、武藤時代における陸軍将校の一般的な認識  を、再確認したいと考えている。『借行社記事』は、陸軍将校にとっては一般的な軍事  雑誌であったが、軍事技術、内外情勢、戦史研究だけでなく、思想や経済問題を含む  国防一般に関する情報誌の役割を持っており、一般将校にとっては教科書的な存在で  もあったのである14)。エリート幕僚である武藤章を取り囲む、時代的かつ組織環境的  な状況の一端を見ることにより、この後に続く武藤分析の参考としたい。

  1939(昭和14)年11月、武藤の局長就任2ヵ月後に掲載された、田邊正樹大尉の   「欧洲戦乱を続る主要各國の動向と帝國」という記事15)がある。田邊大尉は陸軍省  情報部に勤務する歩兵大尉である。この記事から看取できる対アメリカ、対ドイツ認  識に関する記述を整理すると、まず、アメリカについては、目中戦争以来米国におけ  る対日感情が良くないこと、目米通商航海条約の廃棄通告は非友好的措置であること  を挙げるが、何とアメリカの国内事情まで酌みとって、対米感情を悪化させるべきで  はないと主張している。対米不信感はあるが、何とかそれを抑えて最悪の事態を避け  ようとする冷静で合理的な判断が働いていると言える。

  次いでドイツに関しては16)、r独ソ不可侵条約」締結から3ヶ月後であるため、不  快感は表しているが、「一慮抗議すべき」という程度の軽いものであり、「第一次の世  界大戦當時に比較すれば猫逸の立場は非常に有利で」あると、ドイツの軍事的優位を  述べた上、ドイツの立場に立って、日本政府の交渉姿勢に問題があったのだから、反  省すべきは目本側であると目本政府を責め、さらには、今後の日独関係の悪化を恐れ  ドイツ批判を抑制するようにまで促している。明らかな親ドイツ的傾向が見られるが、

 アメリカに関しては、対決姿勢は見られず関係改善を求める配慮が感じられる。

  しかし、1940(昭和15)年5月、ドイツの電撃戦による西方攻勢がスタートし華々