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新支那派から軍務局長へ

第三章 武藤章の対外観の基礎とその要因

第五節 新支那派から軍務局長へ

1.自称『新支那派」

   「第三節 武藤章とクラウゼヴィッツ」の「6.武藤論文から見えて来るもの」に  おいて筆者は、武藤論文の中に、孫子時代の中国の軍編制と「現代支那軍の編制も亦  大差なきが如し」1)と断言している箇所を取上げ、武藤の偏見を含む歪んだ対中国観、

 対中国軍観を指摘した。

  しかし、戦後書かれた回想録での武藤は、中国の民族主義を無視して偏狭な日本精  神を押し付ける目本人を批判しており、中国人の民族的自覚を見逃している軍や政府  の中国専門家を「旧支那通」と分類し、そして、目中戦争の長期化もこのような中国  への日本人の無理解が背景にあることを示唆している2)。

  前者は1930(昭和5)年ころの武藤の対中国観で、後者は戦後のものであり、認識  の差があっても不思議ではないが、全く対照的な見解と言える。この二つの対中国観  における大きな違いは、どこで生まれたのであろうか。いつ武藤は、戦後につながる  正確な中国認識を持つにいたったのか。筆者は、武藤が1936(昭和11)年6月、r関  東軍参謀」、1937(昭和12)年3月にはr参謀本部作戦課長」となり、さらに同年10  月、「中支那方面軍参謀副長」、1938(昭和13)年7月、「北支那方面軍参謀副長」と  して、中国との戦争遂行に苦悩する中で、新しい対中国観を認識せざるを得なかった  と考える。しかし、いつどの時点で武藤の認識が変わったのかよりも、なぜ、どのよ  うに変って行ったのかに注目したい。

  本節においては、武藤の対中国観に焦点を絞ることになるが、当時の目中関係は、

 中国の背後にある英・米・仏・ソとの関係でもあり、特にrスチムソン・ドクトリンj  以後のアメリカの中国政策と目本の中国政策の関係とも言える。その意味でこの時期  の武藤の対中国観を考察することは、武藤の対米観や国際認識の理解につながると言  えるのである。また、武藤の対中国観の形成は、日本陸軍という組織と無関係ではあ  り得ず(特にr支那通」と呼ばれる軍人たちとの関係)、陸軍組織の中の武藤の位置を  確認することにもつながるであろう。

  武藤をよく知る矢次一夫氏は、rまた『新支那派』というものが、事変後に出てき  て、事変当時の参本作戦課長だった武藤章など、支蔀派を侮実する意味で自ら称して  ず・た」と述べている3)。「事変」とは、当時「北支事変」・「支那事変」と呼称した目中  戦争であり、「支那派」とは「支那通」と同意義と考えられる。「支那通」軍人とは、

 広義には中国情報の専門家と自他ともに認めた軍人、狭義には陸大を卒業し「参謀本  部支那課」、「中国駐在武官」、「特務機関」などの職に就いた軍人と考えられる4)。戦  後の武藤によれば、「旧支那通」とはr支那人の民族的自覚を見逃して、過去の軍閥政  治時代の支那観を以て相変らず今の支那を料理することが出来ると思ってゐる」5)支  那通軍人を言っている。つまり、中国を依然軍閥政治のままと見るか、さらに中国人  のナショナリズムを自覚していたかどうかが、「旧」・「新」支那通の分かれ目になるよ

 うである6)。

  武藤に当てはめるならば、上述のように武藤は1930(昭和5)年の論文の中で、当  時の中国の軍事力に対して、時代錯誤的かつ侮蔑的な評価を下している。このような

対中国観は、武藤自身が言う「旧支那通」のものと言えるだろうが、その後の武藤は、

参謀本部第二部で永田鉄山部長直属の綜合班に所属し、1933(昭和8)年には自ら中 国視察を行っている。その武藤が、r旧支那通」の中国認識のように、中国を依然と軍 閥政治の継続と捉えていたとは考えにくい。そして、矢次氏によると目中戦争開始頃 には、自らを「新支那派」と称しているが、ここで問題となるのが、目中戦争に際し て「一撃論」の立場に立った武藤が、果たして中国人のナショナリズムの昂揚と国際 社会の反応をどこまで正確に認識していたかである。

 そして、矢次氏の言う「支那派を侮笑する意味で」とは、どういう意味なのか。そ もそも陸大の成績上位者r軍刀組」は、ドイツ・フランス・ロシアなどヨーロッパに 派遣され、作戦畑に進む。戸部氏によると、「支那通は、軍人の本流としての作戦畑に 対する傍流としての情報畑に属し、そのなかでもロシア情報関係者に比べると、どち らかと言えば、傍系に位置づけられる。」7)、つまり目本陸軍において「支那通」は陸 軍エリートの中の「傍流の傍系」なのである。陸軍という巨大官僚組織の序列では、

ドイツ留学組の武藤らトップエリートの一段下にr支那通」は位置づけられたのであ るから、武藤は当然そのような序列意識を明確に自覚していたと考えられる。

 「支那通」ではない武藤にとって中国は専門外であり、矢次氏の言う武藤の自称「新 支那派jとは、武藤ならではのユーモアと「支那通」への軽侮の気持に皮肉を込めて 表現したものと考えられる。しかし、何が彼に序列意識に加えて「支那派を侮笑」ま でさせたのだろうか。武藤の「支那通」への軽侮はどこで生まれたのであろうか。

 1936(昭和11)年6月、武藤は軍事課高級課員から関東軍参謀に転補される。武 藤にとっては初めての本格的中国勤務であった。関東軍に対する認識レベルの低い彼

を待っていたのは、「支那通」の一人、田中隆吉であり、武藤は彼の進める謀略工作に 巻き込まれて行く。筆者には武藤の「支那通」への軽侮の象徴は田中隆吉であり、こ の関東軍時代の体験が、この後の彼の対中国観に大きな影響を与えたと考えられるの

である。

2.綴遠事件の反省

  1936(昭和11)年11月、内蒙古軍を率いる徳王は、関東軍飛行隊の支援下、緩遠  侵攻を決行するが、中国側の傅作儀(縷遠主席)の反撃を受け、潰走敗退した。これ  が、関東軍が推進して来た内蒙古の自治独立運動8)の延長線上に位置する、繧遠事件  である。中国側は、この戦闘を関東軍に対する勝利として宣伝したため、「中国国民に  軍事的自信を与え、抗日気勢を一段と盛上がらせること」9〉となり、関東軍の威信を  傷つけ、日中関係に多大の影響を及ぼした事件であった。

  事件の準備段階を見ると、事件に先立っ1935(昭和10)年5月、関東軍参謀副長  板垣征四郎少将、第一課長石本寅三大佐、参謀田中隆吉中佐らは徳王と会見し、支持  の意向を伝えている。その後、蒙彊10)工作は関東軍参謀部第二課(情報担任一高級  参謀は河辺虎四郎大佐)で管掌し、主任参謀はやはり田中隆吉中佐であった。田中中  佐は、1936(昭和11)年5月ころから謀略による繧遠省併合工作を決意、謀略部隊  の編成にとりかかっていたが、武藤章が河辺大佐に代わって関東軍参謀部第二課長(高  級参謀)として赴任したのが、その翌月であった。その後、田中参謀が内蒙の特務機

一141一

関長を兼任し内蒙工作の中心的役割を果すようになる11)。そして、9月末、田中参謀 は、「繧遠工作実施要領」を起案、田中参謀の熱烈な徳王支持の主張に武藤も屈し、軍 司令官植田謙吉大将、軍参謀長板垣征四郎中将も遂に同意した12)。

 内蒙工作自体は、満州事変後から関東軍が熱心に推進したものであり、その目的は、

中国共産軍とソ連の勢力下にある外モンゴルの連絡を遮断して、満州国の安全を確保 し、対ソ戦準備の完了にも資するというものであった13)。そのため該工作は、満州国 の国防を一手に引き受け、対ソ戦に備える「北向きの軍隊」141という性格を担う関東 軍には大きな意味を持っていた。

 しかし、繧遠事件は、あくまで関東軍第二課の謀略として、現地特務機関長田中隆 吉の責任において計画、実施され15)、その進展に伴い、「漸次秘密のヴェールの中に 没し去り、遂には現地機関と主任参謀以外はその実相を把握し得ないような事態に立 ちいたった」16)秘密工作の結果であった。そして、目中戦争の近因ともいわれた同事 件が、極めて未熟な謀略工作17)(田中参謀が集めた烏合の謀略部隊は敵味方何れとも わからぬ代物であった。)に基く失敗であった事実は、軽々に看過できるものではなか ったはずである。(実際には責任者の処罰はなかった。)

 繧遠事件について武藤の回想録では、「私は詳しい原因は知らぬが、」と前置きして、

事件発生後、田中中佐が神経衰弱にかかりどうすることも出来ないので、自分が12 月に後始末をしたと、簡単に記している18)のみである。一方、戦後出版された田中 隆吉の著作19)によると、「繧遠事件の眞相」と題する単元の冒頭、「然しその全貌を 知るものは目本人では唯私一人である。他に何人もこれに直接關係した人はない。」

(p.29.)と真相は自分のみが知ることを強調している。

 そして、蒙古軍の侵攻については、蒙古軍の訓練不足を考慮して、徳王に軍事衝突 を避けるように主張したが聞き入れられなかったこと、さらに、視察に来た武藤章大 佐が、r徳王に対し強硬に恢復攻撃を命じた」(p.33.)こと、そして、r私はそれが無 用の愚策たることを武藤氏に説いたが、氏は頑として聴か」(p.33.)なかったことを 記している。ここで田中隆吉は、事件の責任は、明らかに徳王と上司である武藤の強 硬姿勢にあると指摘しているのである。

 しかし、事件経過を見ると、田中隆吉の主張は首肯し難い。武藤が関東軍に着任し たのは、事件発生のわずか5ヶ月前であり、田中はその1年以上も前から、該工作に 中心的に関与している。さらに「支那通」ではない武藤にとって、中国勤務は初めて の経験であり、関東軍における武藤の認識は極めて乏しいものであったと推察できる。

田中の部下として内蒙工作に従事した松井忠雄大尉(徳化特務機関輔佐官)の手記20)

が、その事件収束の経緯を詳細に伝えている。

 松井大尉は、「本工作の性格は、あくまで第二課の謀略であって、現地機関長の責 任に於て行われる。またその発動時機の決定も、現地機関長の判断による等実施要領 はその独断に委せられていた。」(p.563.)とすべて田中の独断であったことを明言し ている。さらに、田中が神経衰弱になったため、1937(昭和12)年元旦、武藤が後 始末に乗り出したことを記し、以下のような武藤との会話を伝えている(p.577.)。