第四章 武藤章の対外観
第三節 近衛新体制と武藤章
1,問題考察の前提
本節においては、1940(昭和15)年を中心とした近衛新体制運動及び大政翼賛会 に対する武藤章の対応を分析することにより、武藤章の政治観と対外観を考察するつ もりである。ここで国内政策を取上げるのは、対外的な行動・態度だけでなく、内治 (政治・軍事・経済・社会など多方面)の改良や変革への意欲もまた、国際情勢や諸 外国の趨勢への認識・判断と深くつながっていると考えるからである。
本稿第三章でも確認したように、第一次世界大戦後スタートした目本の国家総力戦 への対応は、満州事変後の国際的孤立とソ連の脅威が叫ばれる中、陸軍主導の総力戦 体制がその中心となる。1934(昭和9)年、陸軍省新聞班が公表した『国防の本義と 其強化の提唱』においては、「高度国防国家」建設が提唱される。そして、二・二六事 件後には、統制派的総力戦構想が陸軍内の主流となるが、日中戦争の長期化とヨーロ ッパでの戦争勃発という国際情勢の変動により、軍のみならず、政府、官、民におい ても「高度国防国家」建設が実現すべき国策と認識されるようになっていく。しかし、
現実には「高度国防国家」の体系的整合的な政策構想もなく、一元的な政治的統合主 体もないのが実情であった。
総力戦体制構築に先鞭をつけた永田鉄山に師事し、軍務局長となった武藤章は、当 然、目本を取り囲む困難な国際状況に対応する国内体制の整備、つまり「高度国防国 家」建設を自己の責務と認識していたのである1)。そこに米内内閣当時、近衛文麿を 中心とした新体制運動が生まれ、陸軍はこれに大きな期待をかけ、支持を表明して行 く。戦後の東京裁判において武藤は、近衛新体制推進に際して、r政党解消(解党)を 唱道」して「親軍的政党」・「ナチス流の一国一党的政党」を構想し、「高度国防国家」
の名の下に近衛をロボット化して軍中心の「ファシズム体制」を確立させようと策動 したと追及される2)。そこで、まず考察の前提として、戦後武藤のこの問題に対する 主張を提示した後に、実際の経過を確認したい。前節同様、r武藤章口供書」及び「武 藤尋問録」3)に見られる武藤の主張を次にまとめる。
①1940(昭和15)年3月決算委員会における答弁を、政党を否認し自由主義を 否定して全体主義を主張したもののように誤解している。事実は、政党の健全な 発達を希望し、全体主義という言葉も使用せず「国体主義」と述べ、利己的個人 主義に基く誤った自由主義は排除すべきと答えたのである。
②近衛公の国内体制改善(近衛新党による強力政治)という運動に陸軍も共鳴し、
米内内閣の後、近衛内閣になることは望ましいと考えていた。しかし、近衛総理 は新党を作る試みを放棄した。
③1940(昭和15)年8月26日ころ、新体制声明文案中、新体制がナチス、ファ シストを意味するものではない、という部分を削除したのは、近衛が作ったもの とは知らず、だらだら長かったので半分くらいに削除する意見を出したのである。
④陸軍では、政党の解散や親軍的一政党制を考えたりしていない。また、私は8
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月の終り頃、準備委員会幹事補佐の高木大佐に、近衛声明と新政治体制には、非 常にがっかりした、と言ったりしていない。
⑤近衛公の新党運動に陸軍は共鳴したが、一国一党制を考えたりしていない、む しろ反対に、一国一党は政党がないに等しく、腐敗堕落するという見解を持って いた。政党の解消運動は、政党自身の中から生まれた運動である。
2.決算委員会での武藤答弁
1940(昭和15)年3月19目、衆議院決算委員会において、武藤は重要な答弁を行 っている。濱地代議士の、軍はイニシヤティヴをとって、真剣に強力革新政治断行を 研究してもらいたい、という質問に対して、武藤は次のような答弁を行っている。(傍 点筆者)
r国家非常の際、一切のカを統合発揮するためには、個人の利益を先に考えていては不可 能なことと固く信ずる。この点については外国においても、全体圭義ということを申してい る。嘗ては寺内陸相は、国体観念に透徹した全体主義によってやらねばならぬと申して居る が、それは由体主義ともも含えぼ歳ほC・C・あセほ姦ギ・ふと恵う。この意味から政党が万一に も党利党略に走って国体を忘れ、国家を忘れることがあったならば、断じて許されないこと である。宙営僚友ぴ歳党が兵向二・致しそ有ぐためには軍が強すぎるということであるが、近 代戦の如く国力を挙げての戦争においては、軍が米一粒の不足や労働者のサボタージュにつ いても、非常な関心を持つのは当然であり、これは政治干与ということではないと思う。
(後略)…… 。」4)
つまり、国家総力戦下においては、個人主義(利己的な)は通用せず、国家優先の 全体主義的(武藤はr国体主義」と言っている。)な体制が必要であり、政党も党利党 略は許されないと言っているのである。それが、東京裁判の判決文では、次のように 解釈されている。(傍点筆者)
r目本の指導原理は、『主義と信念において完全な國家圭義、。ずなわち全体圭義七姦けれ ほ姦らぬ』という断定的な見解をかれは引出し、これに賛意を表した.…… もし政党が現 在の危機においてかれら自身の利益を助長することだけを求めているならば、睦宙は歳党ゐ 鯵消1と替歳もあると武藤は言った。」5)
武藤の答弁は、自由主義を排撃、全体主義を指導原理とし、そのための政党解消を 強要しているのであろうか。武藤は、「武藤章口供書」では、自由主義排除は利己的な 自由主義を意味していること、全体主義を採らねばならぬといったのは、濱地代議士 であり自分は言っていないこと、政党の否認どころか健全な発達を希望したことを主
張している6)。
武藤答弁は新聞により発表内容に若干の差があったらしく、「自由主義」「個人主義」
「全体主義」といった政治的専門用語の解釈によって、武藤の演説の真意自体変って しまったのである。別の発表文では7)、自由主義について「個人の利益を尊重する所 の個人主義に出発しまする一切の自由主義」と限定しているし、「私は学者ではありま せぬから知りませぬが、吾々から申しますれば、国体主義とでも申せば…」と用語使
用の不正確さを前置きした上でr国体主義」と使っているのである。政党解消につい ても、「どうしても反省されぬと云うならば、是は合法的な措置に於て、此の非常時局 に於ては解散して貰わなければならぬ」と、「解散」という重い言葉を用いているが、
脅迫的な表現で強要しているわけではない。
何よりr国体主義」の意味をどう理解すべきであったのだろうか。確かに自由主義 的な意味はなく、戦時体制下におけるr全体主義の方向を志すもの」8)であるが、東 京裁判判決文に見られるように、「国体主義=反自由主義=全体主義=ナチズム・ファ シズム」と短絡的に理解してよいのだろうか。今から見れば、武藤の慎重な用語使用 の必要性も指摘できるが、軍政を司る幕僚としての必死の願いが行間に読めるのであ る。「一君万民」の憲法を「不磨の大典」とする政治体制下、しかも長期戦の非常時に おいて、軍務局長としては挙国一致、全国民の協力を求めるしかなかったであろう。
この5ヵ月後に陸軍省の局長会報で為された武藤の発言が記録されている。
(昭和15年8月21日)
「軍は国防国家の完成するがためにはいよいよ挙国一致の大勢を堅持する要あるものと考 えあり。然るに現在いたるところ相到受身の様相を帯び個人といわず団体といわず、みな利 己主義に徹し、己れの利益のみを考え、一君万民、国家奉公、公益無私の精神をみられず。
何とかこれらが国家万民のために大同団結、大いに自粛の実を挙げねばならぬ重大の時期と
思う。」9)
これは総力戦の原則であり軍人としては常識であったであろう。総力戦体制とは、
「国内の全構成要素を平時から最も有機的かつ有効に組織し、戦時において国力を 最高度に、しかも統一的に発揮させることを目標として構築される組織大系」10)なの であり、この時はまさに目中戦争解決に焦慮する戦時であった。
そして、何よりも筆者が指摘したいのは、次の部分である。(傍点筆者)
r此の戦争を致します為には宙ゐ意恵と歳治家4)意恵がきタウと二致しなければならぬの であります。……現在の国家組織に於きましては、歳治を担在致しまず歳治家と、●軍を統率 ずる蒋宙ほ別々1と豪らそ膚るのであります。政治家が有ゆる点に付いて軍を諒解して居るこ
とになりますれば、軍は安んじて軍の事のみに専念することが出来るのでありますが、是は 事実に於七木苛能セあらまずので、どうしても軍と致しましては、此の戦争を遂行する為に 斯う云うことをして貰いたい、ああ云うことをして貰いたいと言うのは、是は当然なことで あります……。」11)
満州事変以来の軍の暴走や政治介入を考えると、「軍の事のみに専念する」という言 葉に説得力はなく独善的な言い訳にも聞こえるが、上記の箇所にこそ、この時の武藤 が目指していた政治体制が語られているように思える。r軍の意思と政治家の意思がピ タリと一致」する政治体制、つまり「国務と統帥の一元化」を実現させ、将軍が純粋 に軍事に専念できるような強力かつ安定した政府を、この戦時下に理想としていたの である。そして、彼は「統帥権独立制jの実態を十分に知るだけに、「事実に於て不可 能」と述べて、現実的な諦観をにじませるが、少しでも理想形に近い政治体制構築へ の意欲と責任を有していたのではないだろうか。前出の局長会報での発言に続いて次
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