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天保銭組とドイツ留学

第三章 武藤章の対外観の基礎とその要因

第二節 天保銭組とドイツ留学

1.天保銭組となる

  武藤家に残るアルバムに、軍服で正装した若き武藤の写真が残されている(巻末の  写真資料〔写真3〕)。アルバムでは振袖姿の初子夫人と並んで配置されていることか  ら、結婚前後、おそらく30歳頃の青年将校武藤の姿である。(階級章は確認しづらい  が、多分「大尉」か。)その右胸には陸軍大学校卒業徽章、いわゆる「天保銭」が付け  られている。しかし、陸大時代の武藤を語る資料は少ない。武藤にとって陸大とは何  であったのか、単なるエリート軍人へのステップだったのか、彼がこの陸軍の最高学  府に何を求め学んだのか、これらを明らかにすることは困難であるが、彼とその同期  生が残したわずかな言葉を頼りに、陸大と武藤の関係を、そしてその結果としてのド  イツ留学にっいて考察したい。

  武藤は1917(大正6)年12月陸大に入校し、1920(大正9)年12月に卒業してい  る。彼の回想録では、武藤は陸大受験を強く志望していたわけではなく、前年の暮に  突然連隊長から陸大受験を命じられ、翌年4月の試験を受けたようである1)。陸大の  入学試験は難関で、一般に受験準備には3年を要すると言われたが、武藤の言葉が事  実であったならば、わずか半年弱の受験勉強でしかも1度で難関の陸大に合格したこ  とになり、武藤の知識・教養の深さと非凡な集中力を認めざるを得ない。武藤が陸大  に学んだ時代は、世界的には第一次世界大戦が終結し、国際協調主義の中軍縮が叫ば  れ平和が志向された。目本国内でもその影響下、デモクラシー・平和主義・社会主義  が世に溢れた時代であった。このような風潮の中、武藤はエリート軍人r天保銭組」

 への道を歩み始めたのである。

2.陸大時代の武藤

  陸大は本来、参謀(幕僚)養成のための教育機関であり、そのために参謀本部の所  管であった。「陸士は記憶の学校であり、陸大は判断の学校である」2)とされ、陸大  では状況を設定しての戦術教育が徹底された3)。そして、その戦術教育4)は、モルト  ケを師と仰ぐメッケルの軍事理論と参謀養成教育に大きな影響を受けたものであった。

 この戦術教育に関しては、試験はなかったが、毎目のように宿題が出され、学生はそ  の回答に追いまくられた5)。

  武藤は陸幼・陸士においては成績上位者に名を残すことはなかったが、この最高学  府において結果として優等の成績(上位5〜6名)を残し恩賜の軍刀を拝受する。「記  憶の学校」より「判断の学校」の方が武藤に向いていたのか、「戦術」を中心として他  にr戦史」、r参謀要務』などの科目に彼が秀でていたのか、または、このころになっ  て初めて主体的に軍人の学問に取組んだのか。このあたりの事情は明言できないが、

 この陸大という環境と時代が、武藤の軍人としての実力を開花させたことは事実であ

 る。

  しかし、武藤自身は、その一方で、置かれた環境と時代の中で大きな苦しみを経験  していた。前述したようなデモクラシー・平和主義・社会主義の風潮の中、「当時の私  を回顧すると全く煩悶懊悩時代であった。」、「私もその例に洩れず、盛んに思想、経済、

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文化等の書を読み耽けった。所謂何々中尉の一歩手前まで進んだ。」6)エリート軍人の 道を約束された武藤がなぜ軍職を離れねばならないのか、常識的には理解しにくいが、

彼の置かれた環境と時代を参考に推論を試みる。

 この時代、世界的にも国内的にも平和、軍縮が叫ばれる中、日本は1918(大正7)

年8月シベリア出兵を強行するが、長期間にわたる駐兵はやがて内外の批判の的とな る。国内では米価高騰に苦しむ国民の不満が爆発し、米騒動という民衆運動にまで発 展する。さらにアジアにおいては、1919(大正8)年、三・一独立運動、五・四運動 により反帝反目の声があがる。国家予算における軍事費の財政的問題も含め、国家と 軍の在り方、軍の存在意義など、根本的な国家制度に関わるマクロの問題から、軍人 の役割・使命といったミクロの問題まで、国民から疑問符をっけられた時代であった。

 そんな中、青山の陸軍最高学府では、相変わらずメッケル流の、敵戦闘力の撃滅を 目標とした作戦至上主義に則った戦術教育が継続されていた。世間の風潮から最も遠 いところに位置したのが、陸軍大学校とその教育であり、武藤は「国民から遊離した 陸軍」を感じざるを得なかったのではないか。

 軍職に止まった、この時期の武藤の煩悶は、軍という特殊環境と第一次世界大戦後 の特異な風潮のはざ問で、自らの人生観・職業観を問い直す作業ではなかったか。し かし、陸大の教育にその答を求めることは出来ず、武藤は独力でその答を探す以外に なかった。その方法が、一つは軍事以外の学問(特に哲学・思想・文化・経済など)

への傾斜であり、もう一つは、戦争哲学・戦略論の古典、クラウゼヴィッツの『戦争 論』と孫子の研究ではなかったかと筆者は考えている。

3.陸大教育と武藤

  陸大の功罪については、戦前から議論が噴出し、さまざまな提言がなされて来た。

  「功7〕」の第一は、何と言っても参謀教育の成功で、戦術能力の向上は、目清・日露  戦争の作戦指揮で一定の成果を見たことが挙げられる。「罪」について大別すると、「教  育内容について」、「教育目的について」、「卒業生の人事について」があるが、最も世  の批判を浴びたのは三つ目の人事制度についてであろう。陸大卒業生(天保銭8)組)

 と陸士卒のみの者(無天組〉の進級における差9)は歴然としており、天保銭組の特権  意識と無天組の反発は、陸軍部内の融和を欠く事態にもつながり、やがては二・二六  事件の遠因の一つともなる。

   「陸大は当初参謀養成を目的として発足するが、組織の拡大に伴い参謀、高等司令  部副官及び教官養成へと間口を広め、かっ高等指揮官たる将帥の教育をもその目的と  するようになる」10)が、実際には陸軍省の主要なポストも独占するようになる。「参  謀という専門技術者=スペシャリストと行政官僚=ゼネラリストとの区別がなくなっ  た」U)のである。教育内容は戦術を中心とした参謀養成教育であるにもかかわらず、

 教育目的は拡散し、誰を養成するのかは甚だ不明確となった。そして、陸軍組織の各  トップ層に、人事面での差別的制度を通じて、当該能力に疑問がある者でさえ配置さ  れ非難される結果となる。つまり陸大のこれら3種類の「罪」は深い関連性を持って  おり、根源的問題は教育内容そのものと目的との齪齪にあるように思える。

  上法快男氏は『陸軍省軍務局』の中で、陸大教育の弊害を述べている。「政治哲学に

基礎をおくべき戦争指導という大切な役割があるということ、もう一つは数万の大軍 を指揮統帥する将帥(将軍といってもよい)はもっと幅の広い高度な社会哲学とか倫 理学・心理学などの基盤に立つ別個の徳操教育(または養成といってもよい)過程を 経て初めて生まれるということにめざめなかったことである。」、「従って、戦争指導の 衝にあたる将帥を養成するには別の機関を以て戦争哲学、政治哲学の研究をすべきで あったと思う。」12)陸大の目的に適合するようなr政治哲学」・r戦争哲学」・r倫理学」・

「心理学」などが、教育内容に含まれていなかったことが指摘されている。

 陸大では軍事学以外の「政治」・「経済」などいわゆる普通学がなかったわけではな い。堀毛一麿氏は、「これは正課ではなかったですね。…戦術の単位を一〇〇とすれば、

これらの講座は一ぐらいのもので、しかも優劣の差のつけようのないような試験でし たから、それが成績に影響することはありません。」B)と述べ、軽視されていたこと がわかる。そして、松村秀逸氏は「クラウゼヴィッツの戦争論や孫子の研究もなかっ たし、戦争哲学や戦略論などは、教科の内容とは無関係であった。最高学府というか らには、この辺のところまで、教ゆべきではなかったろうか。軍令に関しては教える ところが多かったが、軍政に関しては教えるところが少なかった。」14)と回顧されて

いる。

 それでは、目本陸軍はモルトケの弟子であるメッケルから何を学んだのだろうか。

大江志乃夫氏は『目本の参謀本部』の中で、r悪い意味での『メッケルの遺産』」と表 現して、「即効性のある実用主義を追究する日本の陸軍の要求にこたえるに急なあまり、

幅の広い教養と基礎的な学問研究の重要性が軍人に不可欠であることを力説しなかっ たことである。その結果、メッケルが重視した戦史研究でさえ、目本陸軍には根付か なかった。」15)とし、実用的な戦術中心のメッケル教育の意図が裏目にでた、と言う のである。

 以上見たように陸大の教育内容の問題点は、戦術教育を重視するあまり、幅の広い 教養、戦争哲学、戦略論、その他基礎的な学問(政治・経済など)を軽視したことに ある。そして、この問題点が根底にあって、その上に教育目的の不明確さが重なり、

差別的な人事考課制度につながるのである。このような弱点を抱えた陸大教育に対し て武藤が何を思ったかは、記録がなく不明であるが、彼の行動はまるで陸大教育の不 足を補うかのようにも見える。一方では広い教養を求めて自ら軍事学以外の哲学・思 想・文化・経済などの諸学問を追究している。また他方では、戦略論・戦争哲学を学 ぽうとして、クラウゼヴィッツの『戦争論』と孫子の研究に取組んでいる。武藤はrメ

ッケルの遺産」を独力で清算しようとしていたように見える。

 吉武敏一氏は、武藤章と中学・幼年学校・士官学校・陸大すべて同期であった古閑 健(中将)氏の教示とことわって、「武藤章氏の陸軍大学校卒業時(中尉)の御前口演

(優等学生の天皇に対するもの)もたしかクラウゼウィツ・孫子の比較研究ではなか ったかと。私の推察を許されると、この口演内容はその時の指導教官、幹事、校長等 の筆や意見も加わった武藤章氏にとっては不本意なものであったのではないだろう か。」16)と述べている。「不本意」というのは、「御前jという特殊な場所での発表で あったためという意味と、この約10年後、陸大専攻学生として研究成果をまとめた 論文「クラウゼウヰツ、孫子の比較研究」に比して不十分な出来という意味の両方が

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