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『借行社記事』利用の意図と方法

第二章 『借行社記事』に見る陸軍将校の対外観

第一節 『借行社記事』利用の意図と方法

1.借行社と『借行社記事』

  第二章「『僧行社記事』に見る陸軍将校の対外観」の目的は、当時の陸軍内に広がる  対ドイツ・アメリカ認識を把握することである。『借行社記事』は、旧陸軍将校の親睦  団体であった借行社の機関雑誌である。借行社は、将校の団結強化・親睦増進を目的  とする共済団体であり、1877(明治10)年に設立された当初は、将校たちの交際の  場以上の活動はなかったが、1888(明治21)年7月、全将校を対象とする『借行社  記事』を創刊している1〕。以後、1945(昭和20)年5月の『借行社記事特号』2)848  号まで、50余年にわたって定期刊行された。内容は、戦時には戦況報道の役割を果た  し、研究報告・教育計画案・内外情報・個人の意見やその反論など多岐にわたり、将  校にとっては軍事・教養に関する総合誌・学習書であった。『借行社記事』は、陸軍の  公報ではなかったが、編集も陸軍将校が担当3)し、当時の陸軍の動向を知る貴重な資  料と言える。

  『借行社記事』を利用する意図としては、一部の政策担当にあたるエリート幕僚そ  のものの対外認識ではなく、彼らを取巻く陸軍の内部環境に存在した、一般的な陸軍  将校の認識を知ることにある。そして、この試みは、武藤章が、どのような内部環境  の中で、軍人としての職務を遂行したのかという問題把握に結びつくものであり、第  三章以降、武藤章個人に焦点を絞って行く上で、一定の有効性を持つものと考えてい

 る。

  なお、『借行社記事』には、武藤章の投稿記事も載録されている。1933(昭和8)

 年6月に別冊附録として発刊されたもので、標題はrクラウゼウヰッツ、孫子の比較  研究」である。これは武藤(当時歩兵中佐)が陸軍大学校の専攻学生として在学中に  研究した成果であるが、標題が示す通り純粋に学問的な内容であるため、第三章以降  において軍人武藤章を考察する資料として使用するつもりである。

2.視点と方法

  『借行社記事』に投稿された研究・意見の中から、対ドイツ及び対アメリカ認識を  示すものを取上げ考察するが、その際、対象時期としては、1930年代を中心としたい  4)。(太平洋戦争開戦前後まで。)その理由としては、本論文の最終的な研究対象が、

 軍務局長時代の武藤章及びr目独伊三国同盟」、「目米交渉」であるからである。

  1930年代は、目本のファシズム完成期であり、高まる目米問の緊張状態の中、対外  的な主張が最も先鋭的な形で発信された時期である。それだけに、対外認識が明確に  示された時期と言えるが、しかし、同時に敵撫心・闘争心をあおるだけの感情論や冷  静さ・客観性を欠く意見も見られるという内容的問題、また、国家権力によるマスメ  ディア統制5)の徹底という政治的問題を考慮しなければならない時期でもある。

  目本陸軍の対ドイツ認識と対アメリカ認識については、各々次節以降において考察  を行なうが、その際、以下を留意点としたい。

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① 対ドイツ認識と対アメリカ認識を別個に捉えるのではなく、目独関係を中心軸  として、その関係性の中で目米関係を考え、そこから陸軍将校の対ドイツ・対ア  メリカ認識を得る。

② 日独関係については、ヒトラーの登場を分岐点と考え、ヒトラーの政権掌握以  前のドイツとナチス独裁以後のドイツの思想・教育・体制・軍事力・国力(経済  力)などをどのように評価していたかを考察したい。また、ヒトラー個人の能力・

 人格をどのように評価していたかという点にも留意したい。

③ 対米認識については、米国の軍事力・経済力など物的な評価のみに限らず、思  想・国民性など精神面の評価も含めて分析する。

④ 記事の投稿者が誰であり、どのような人物がその意見を提示していたのかにも、

 注意を払いたい。

 ①の理由としては、日本陸軍が常にドイツ軍をモデルにし特別な地位を与えてきた 6)という歴史もあるが、1930年代から目米開戦に至る外交を見ても、陸軍のみに限ら ず目本政府そのものが、目独関係を中心として、対外関係を処理してきたという側面 を無視できないからである。つまり、1930年代における目独防共協定やその強化問題、

さらに三国同盟締結のねらいが、目中戦争処理、対英米ソ牽制、南進問題などの外交 的課題解決にあったことは、これまでの研究成果により確認されている7)のである。

 また、義井博氏は、目米危機の高まりを含む日米交渉の難航を、独ソ開戦後のヨー ロッパ情勢に対する、アメリカの対応策という視点から展望すべきことを主張されて いる8)が、それは、アメリカがドイツの動向によって、対日態度を変動させたことを 意味している。これらから、1930年代のドイツの存在こそが、目米相互の政策決定や

目米関係の方向性に影響を与えたと言えるのであり、その対ドイツ認識の分析が、こ こでは大きな意味を持つと考えるからである。

 ④は、分析手法として常識的なことであるが、特に投稿者の立場(職業・階級・地 位など)と主張内容との関係には十分考慮するつもりである。また、投稿者の中には、

戦前、『借行社記事』において主張していた意見と、戦後における回想的な著作の中で 述べる意見とが、若干異なるケースもある。(今回の調査では、元外交官の森島守人氏、

元ドイツ大使館付武官補佐官の遠藤悦氏、元情報主任参謀の杉田一次氏。)この問題に ついては史料的制約があり、本論文においてこれ以上深く追究することは困難である ため、今回は当時の時代環境や組織の内部環境を考える材料として提示することのみ 行いたいと考えている。

1)『借行社記事』創刊の経緯にっいては、森松俊夫氏の「『借行社記事』の意義」(「『借行社記事』

 目次総覧別巻,吉田裕監修,大空社,1990年。所収。」)参照。

2)『借行社記事』は、本冊と同時に別冊「附録」を多数出版しているし、本冊も時期により、『借 行社記事特報』(昭和10年7月〜16年3月、「部外秘」)など名称を変えて、現職将校だけに  「部外秘jとして配布している。『借行社記事特号』は昭和16年4月から昭和20年5月まで発

行されたもので、現職将校を対象とし「部外秘jとされた。在郷者・一般購読読者には『借行社 記事普通号』が頒布され、機密度に応じて2種類が発行されている。『借行社記事』の種類に関し ては、木下秀明氏の「雑誌『僧行社記事』所在一覧(資料)」(『軍事史学』軍事史学会12、

1977年,p.94、p.95)参照。

3)森松俊夫氏によれば、編集者の所属は、教育総監部3・陸軍省2・参謀本部1・陸軍大学校1・

 陸軍士官学校1・航空本部1・近衛師団司令部1・経理学校1であり、各々選出された佐官級が

 主力であった。(前掲「『借行社記事』の意義」,p.9.)

4)黒沢文貴氏は、1920年代を中心に、『僧行社記事』における対米観分析を行なっておられるが、

 その理由として、20年代が陸軍の対米研究の草創期で、以降の対米認識の大枠が形成されたこと、

 30年代と違って比較的偏向性の弱い、冷静かつ客観的な対米分析が可能であったことをあげてい  る。本研究においては、氏の1920年代の対米認識を大いに参考にさせていただいた。(黒沢文貴  『大戦問期の目本陸軍』,みすず書房,2000年。pp.252−253,)

5)マスメディア統制とその立法化については、『現代史資料40・41』(みすず書房)の「マス・メ ディア統制1・2」を参照。この時期については、「ファシズム体制化の準備過程が進行した時期」

 「目中戦争にともなう臨戦体制と重なる形でファシズム体制が確立した時期」という政治的特徴  を持っていたと分類している。(『現代史資料40』,「外題」p.xi.)

6)日本陸軍とドイツとの結びつきに関して、その幹部教育の特徴については、藤原彰r目本陸軍  と対米戦略」(『目米関係史 開戦に至る十年』,細谷千博他編,東京大学出版会,1971年,pp。8  −12.)を参照。また、明治の陸軍草創期からのドイツとの歴史的関係については、藤井徳行「明

治時代における軍事エリート」(『海外事情』,拓殖大学海外事情研究所,VOL,25(9).pp.30−

38.1977年。)を参照。

7)『太平洋戦争への道 第五巻』(日本国際政治学会編,朝目新聞社,1963年。)には以下のよう に記述されている。

 「すなわち陸軍の防共枢軸強化の主張は長期化した目中戦争の解決を目途とした外交的措 置として積極的意義をもたせようとするものであり、もはや対ソー本にとどまらず、とくに 英国との関係では単にこれを牽制するというよりもそれによって進んで英国の援蒋行為を中 止せしめるための圧力としたい意図が、明らかにみとめられるのであった。」(p.67.)

 藤原彰「目本陸軍と対米戦略」(『日米関係史 開戦に至る十年』,細谷千博他編,東京大学出 版会,1971年。)にも次のように述べられている。

 「そして戦争の終局は、ドイツの勝利によってイギリスが屈服し、アメリカが戦争継続の 意志を放棄するであろう、との希望的な予想を立てていたのである。」(p.13.)

8〉 義井博『目独伊三国同盟と目米関係』,南窓社,1977年,p.4.参照。

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