第四章 武藤章の対外観
第二節 日独伊三国同盟の締結と武藤章
1.問題考察の前提
本節においては、「目独伊三国同盟問題」(「防共協定強化問題」とも呼ばれた)に対 する武藤章の対応を分析することにより、武藤章の対ドイツ観を考察するつもりであ
る。
1938(昭和13)年7月、リッベントロップ・大島浩間の提案・協議に始まる防共 協定強化交渉を、後に三国同盟として結実する同盟交渉の先駆けとするならば、「第一 次同盟交渉」とも呼べるが、この「第一次同盟交渉」は、第一次近衛内閣時にスター トし、次の平沼内閣時の1939(昭和14)年8月の独ソ不可侵条約締結に伴う、内閣 総辞職により頓挫している。武藤は、この間、大陸で北支那方面軍参謀副長の任にあ り、「第一次同盟交渉」には何ら関係していない。よって武藤と三国同盟の関係を見る には、次の阿部内閣、米内内閣を経て、第二次近衛内閣の1940(昭和15)年9月に 調印された同盟条約に武藤が軍務局長としていかに対応したかを見ることとなる。つ まり、「第二次同盟交渉」前後における武藤章に焦点を絞って確認作業を行いたい。し かし、残念ながら軍務局長武藤章の該問題に対する、当時の公式・非公式の発言記録 などの資料は残ってはいない。そこで、まず考察の前提として、戦後の武藤のこの問 題に対する主張を提示することから始めたい。
1947(昭和22)11月、東京裁判法廷では、弁護側立証段階(個人関係)において 武藤章が証人台に立ち、「武藤章口供書」が朗読され、弁護側・検察側の直接尋問が行 われている1)。武藤口供書に述べられた主張(ドイツ、同盟関係)を下にまとめる。
① ヒトラーやムッソリー二のような成金は信用できない。独・伊の国力は宣伝 ほど大したものではないという認識を持っていた。
②第一次世界大戦時、上等兵であったヒトラーや軍曹であったムッソリー二と、
3000年の歴史を有する目本とが同盟を結ぶならば、万一の時、国体に傷がつく から危険である。
③ ダンケルク勝利後、同盟論が盛んになったが、私は独英戦は持久戦になると マ マ 判断し、ドイツの終局的勝利を疑っていた。(航空戦力の差、駐英武官辰見〔筆 者注:辰巳栄一〕中将の報告などから)
④「米内内閣倒閣問題」に関しては、畑陸相当時、政府に三国同盟締結を要求 したことはない。米内内閣総辞職のころは、満州皇帝の接待役で陸軍省を留守 にしていたので、関与していない。
⑤ 近衛内閣成立時の陸軍の外交方針に、三国同盟締結を断行するという明確な 方針はなかった。わずか2ヵ月後の9月に同盟が成立したのは、松岡外相の活 躍による。松岡外相の独り舞台であった。私は、枢密院の審査会で初めて条約 の意義を知った。
次に「武藤尋問録」における関係答弁内容をまとめる。
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①三国同盟が目本にとって破滅的なものであるという危険性を感じてはいたが、
その判断を松岡はじめ政府高官に伝える資格は私にはなかった。東条陸相は私 の考えを知っていたはずである。
②私が三国同盟反対論者であることは、軍部においては了解されていた。
③同盟締結が決定されたからには、武藤個人の意見は問題にならない。軍務局 長の任務として軍務局の各種の仕事を行わなければならない。
④同盟条約締結を米内首相に要求してくれと畑陸相に依頼したことなどない。
当時、私はこの種の条約に関心を持っていなかった。
⑤個人としては同盟条約に反対だったけれども、決定したからには従った。
⑥「米内内閣倒閣問題」に関しては、石渡書記官長訪問時に、内閣総辞職を要 求したり、陸軍大臣を辞職させると言ったりしたことはない。総理の心理がど うかを確認し、そして、畑陸相の苦しい立場を説明するために行ったのである。
以上が、r武藤章口供書」とr武藤尋問録」から抽出できる、武藤の三国同盟問題に 関する認識であるが、当然ながらこれらは、東京裁判という特殊な環境でなされた供 述・発言であるため、法廷でのかけひきなど戦略的な性格を持つ内容も含んでいる。
そのためこれを鵜呑みにして、史的検証に利用することは避けねばならない。そこで、
ここに確認された内容をたたき台として、この後、他の史料による考察を進めたい。
2.陸軍における三国同盟推進と武藤章
軍務局長就任後の武藤は、安易にドイツを信用しない「三国同盟反対論者」であっ たのだろうか。また、陸軍内で同盟を推進した人々(「枢軸派」とも呼ぶ)とはどのよ うな勢力だったのか。松岡外相登場以前の状況を見る。
武藤の戦後の回想録には、三国同盟に関する記述は少ない。「松岡外相の全責任に於 てなされたもので、一言半句も意見を差し挿む余地はなかった。」2)と成立過程におけ る関与を否定しているのみである。武藤をよく知る人々の証言を確認すると、まず、
石井秋穂氏3)の「武藤は自ら日濁伊三國同盟を主張したことは絶封にありません。」
という証言がある。しかし、これも東京裁判の弁護側立証段階(個人関係)における 証言である4)。陸軍省の嘱託で、この時期、武藤と懇意であった矢次一夫氏は、武藤 がドイツ留学経験がありドイツ人をよく理解していたこと、ドイツ、イタリアのよう な成り上がり者を相手に、3000年の伝統を持つ日本が生死を賭する軽率な同盟は慎む べきと主張していたこと、そして、武藤がドイツの軍事力に疑問を持ち英上陸の可能 性も懐疑していたことを指摘し、「前後の事情から言い得ることは、彼が三国同盟に極 めて不熱心だったということは事実だったろう。」と明言している5)。また、武藤と幼 年学校同窓の柳勇氏も同様の証言をされている6)。
矢次氏にしても柳氏にしても、武藤の復権を意図した弁護とも考えられないことは ないが、武藤を公私ともによく知る人物であることから、ある程度の信頼性を置くこ とができるだろう。また、管見によれば、東京裁判における政治的な田中隆吉証言以
外、この頃の陸軍関係者で、武藤を「積極的な同盟推進者」と断定する証言も見ない。
(斎藤良衛氏は『欺かれた歴史』の中で、武藤を強硬な同盟推進者のように記述して いるが、これについては後述する。)
それでは逆に、この時期の陸軍における「積極的な同盟推進者(提携強化推進者)」
とはどのような人々だったのか。参謀本部欧米課長を務め(昭和14年12月まで)、
陸軍における同盟推進の協議にも参加した辰巳栄一氏は、次のように述懐している7)。
(傍点筆者)
r陸宙省、参謀本部ゐ中堅幹部が推進力になったといえましょうね。…・一 陸軍省参謀本 部の中堅幹部、各課長(陸軍省は軍務課、軍事課、参謀本部は情報部の各課と作戦課など)
が会議を開いてドイツ案を検討しました。いろいろと議論はありましたが、結論としては目 独同盟に踏み切ろうということになったのです。…… 当時、陸軍省、参謀本部の首脳は異 議なくこれに同意されたのです。」
1939(昭和14)年3月に軍事課高級課員となった西浦進氏の述懐も、ほぼ同内容
と言えるであろう。8)。(傍点筆者)
「兎に角、当時の陸宙ゐ課良廠が庫動力であり、現地では大島(浩)駐独大使、白鳥(敏 夫)駐伊大使を中心として陸軍武官(独逸は河辺虎四郎〔24期〕、伊太利は有末精三)がこ れを輔けて、外地からの原動力となった。」
西浦氏は具体的な人名として、一番熱心であったのは軍事課長の岩畔大佐であり、
参謀本部では第八課長の臼井茂樹大佐、その他独逸班関係者が熱心であったという。
これはもちろん「第一次同盟交渉」が頓挫する前の話であるが、『戦史叢書』では、
それ以後の裏面における同盟推進の策動が記述されている。それによると最も熱心な 同盟推進論者として、1940(昭和15)年2月に帰国し参謀本部第六課長に就任した 唐川安夫大佐、配下の山縣有光少佐、それに第八課長臼井大佐らが指摘されている。9〉
また、この省部の課長クラスを中心とした目独伊提携強化論は陸軍首脳部の同意を獲 得していたとも考えられる10)。そして、独ノ不可侵条約後、一時的に同盟問題(目独 提携強化問題)は陸軍内においてタブー視されたが、岩畔、臼井、唐川、山縣など「枢 軸派」と呼ばれる人々は、ドイツ大使館と緊密な連絡を取りながら、三国同盟を目標 に、ひそかな活動を続けていたのである11)。
すなわち武藤章の軍務局長就任以前から、日独伊提携強化論は首脳部の合意を得た 方針であり、就任後も、あたかも地下の伏流のように確実に陸軍内を貫流していたの である。原動力は課長クラスの中堅幹部であり、軍務局長の武藤が直接それらを主導 していた形跡はないし、武藤を知る人々はそれを否定している。しかし、直属の上司 である武藤が、彼らの動きや意図を知らぬはずはなかったと考えられるし、この後も 含めて、武藤がいわゆる「枢軸派」と称される人々に日独伊提携強化反対を訴えたこ
とは確認できない。
3.「総合国策十ヵ年計画』から「基本国策要綱』へ
1940(昭和15)年に入り、武藤章軍務局長は総合国策案の樹立を企図し、岩畔軍
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