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永田鉄山と陸軍総力戦派

第三章 武藤章の対外観の基礎とその要因

第四節 永田鉄山と陸軍総力戦派

1.永田と武藤

  本節の目的は、武藤章が師事した軍人永田鉄山の思想及び両者の関係を取上げるこ  とにより、武藤章の軍人観・国家観や対外観の形成に影響を与えた要因を考察するこ  とにある。その際には永田鉄山が研究・構築しようとした「国家総力戦体制」(「国家  総動員体制」)に注目したいと考えている。

      前節までに見

1921(大正10)年 1922(大正11)年 1923(大正12)年 1924(大正13)年

1926 (大正15) 年 1928 (日召禾03) 年

1929(昭和4)年

1930 (日召不05) 年 1931 (日召禾1】6) 年

1932(昭和7)年 1933(昭和8)年 1934(昭和9)年

1935 (日召禾010) 年

1936(昭和11)年 1937(昭和12)年

  〔武藤章〕

陸大卒業、士官学校勤務

〔永田鉄山〕

スイス公使館附武官

ドイツ留学出発

帰国、教育総監部 歩兵操典改正 陸大専攻学生派遣 参謀本部第二部 参謀本部第一部

一、陸大教官

中国、欧米視察

歩兵第一連隊附(教育主任)

関東軍参謀(第二課長)

参謀本部第三課長、

中支那方面軍参謀副長 北支那方面軍参謀副長 陸軍省軍務局長

1938 (日召禾013) 年

1939(昭和14)年

軍事課高級課員、陸大教官 整備局動員課長

歩兵第三連隊長

軍務局軍事課長

歩兵第一旅団長

相沢事件(死亡)

たよ う 1こ、 1920

(大正9)年に陸 大を卒業した武藤

力宝、1930(日召禾05)

年に陸大専攻学生 を終え参謀本部附 を命じられるまで

の10年間は、軍

隊教育や戦略・戦 術研究といった純 軍事学的な時期で あり、1930(昭和 5)年から1939(昭 和14)年軍務局長 に就任するまでの 9年問は、歩兵連 隊附及び軍事課勤 務の時期を除き、

武藤自らが言うよ

うに1)、「参謀勤務

時代」であり、いわば武藤のそれまでの原則的かっ学問的な理解を、参謀として現実 に対応させた時期と言える。

 この武藤の幕僚としての歩みは、まさに陸軍のエリート軍人のものであるが、その 武藤の数歩前を歩んでいたのが、永田鉄山であった。上の略年表は両者の経歴を並べ たものである。永田は陸士16期、武藤は25期であるが、その経歴においては共通点 が多い。欧米留学(勤務)、教育総監部、陸大教官、省部の要職を経験し、軍政の中心 である軍務局長に就任するのであるが、最後は両者共に自らの意志に反してその生命 を絶たれることとなる。

 永田と武藤が、直接の上司と部下の関係にあったのが3度ある(上表の下線部を施 した時期)。1920年代初めの教育総監部では共に第一課に所属し、軍隊教育について 武藤は永田の考え方に触れたはずであり、1930年代に入って参謀本部第二部(情報)

では、永田部長直属の綜合班に武藤は勤務している。そして、軍務局においては局長

永田の下、武藤は軍事課の高級課員という要職にあった。相沢事件の際には、武藤は 局長室に駆けつけ、血にまみれた永田を抱きかかえ、自ら血の滴りを浴びつつ働巽し

たという2)。

 武藤を知る人々の証言によれば、武藤は有能ではあるが、決して扱いやすい部下と は言えない。意見が異なる場合には、上司といえども徹底的に議論を闘わした3〕。1937

(昭和12)年の盧溝橋事件の際の石原莞爾部長と武藤課長の日中戦争をめぐる対立は 有名である。職務への真摯な姿勢と自信の表れと言えるが、性格でもあっただろう。

 武藤をよく知る矢次一夫氏は、武藤のことを人は「有学有識なれども、無徳なり」

と陰口を叩く者が多かったことを伝えている4〕。また、あの石原莞爾自身、「兵隊は頭 が硬いといって馬鹿にされるが、武藤のような有能な人間がいる。武藤以上の男は今 見あたらないが、ただし自由主義者だ」5)、「仕事をさすなら武藤だ」6)と述べてい る。ここで石原が言う「自由主義者」という形容にっいては明確な解釈が難しい。大 正デモクラシーの洗礼を受けた「民主主義的発想」の持主という意味にもとれるし、

「軍人には珍しく自由で柔軟な発想をする」、「型にはまらない現実的で合理的な思考 パターン」を持つ、つまり「機会主義者」であることをも指しているのだろう。それ は武藤が上司や組織の方針に盲従しない軍人であることをも表している。その一筋縄 ではいかない「自由主義者」武藤が兄事し師事したのが、永田鉄山であった。

 永田と武藤の両者を知る人々も、永田は決して派閥を作ることはなかったが、二人 の関係の深さを指摘している。有末精三氏は、永田が軍内における親分子分というよ うな関係を嫌い、派閥とは無縁であったことを述べて、次のように回想している7)。

 「強いて永田さんに子分がいると仮定すれば、それは東条英機と武藤章の二人であると思

う。」

 rただ文章を直すことなどについては細かいのです。武藤章さんが同じような性格だから 気に入っていたのでしょう。それだからと云ってこの二人の関係を派閥とは云えないと思う

のです。」

 後年、武藤は東条陸相(後首相)の下、軍務局長に就任するが、その東条と武藤の 関係についても、柳勇氏は、次のように断言している8〕。

 「彼は東条総理系統の人物では無く、寧ろ永田鉄山系統に属する人物であり、我が陸士の 同期生第二十五期生中第一の人物である。…… 当時多くの省部の幕僚が東条総理に摺伏し て居た時、自己の意見を堂々として主張し得る人物は、武藤章彼れ一人だけであった。」

柳氏が言う「永田系統」とは、もちろん派閥という大袈裟なものではなく、永田の軍 人としての思想を継承するというほどの意であろう。

 武藤自身は、回想録で永田について下のように述べている9)。

 「当時軍務局長は永田鉄山少将であった。我々部下は同少将に『合理適正居士』の尊称を 奉ってゐた。永田少将はいろいろのデマを放送され、陰謀家のやうに云はれたが、全くの虚 構であって、合理適正と認めざるかぎり頑として応じない人であった。それが一部の野望家 たちには妨げになるから排斥されたのである。」

一127一

永田鉄山の名誉回復を意図した文章であるが、その中に永田への親しみや尊敬ぶりが 窺えないだろうか、特にr合理適正居士』という尊称に、永田の人柄に対する信頼と軍人と

しての合理性や公正さに対する、武藤の高い評価を看取することができる。

 1920年代から1930年代、永田鉄山は陸軍の希望の星であった。この時期、陸軍は 軍縮と軍部批判にさらされながらも、国家総力戦に適応した近代化を目指す。しかし、

国家革新の声が高』まる中、軍内の派閥抗争は激しさを増し、金融恐慌とともに幕を開 けた昭和は、国内にテロと流血を、対外的には満州事変後の国際的孤立という内憂外 患に突き当たる。このような状況下、陸軍は次第に発言権を強め、政治のキャスティ

ング・ボートを握る存在となっていくが、その陸軍にあって「永田の前に永田なく、

永田の後に永田なし」10)と評されたのが永田鉄山であった。少佐・中佐という佐官時 代の武藤にとって、永田は、同じドイツ帰りのエリート幕僚として、または一軍人と

しても、その方向性を示してくれる巨星であり、目指すべき目標であったのである。

2.『邪は正に勝たず』

  永田は、志半ばで非業の最期を遂げるが、困難な時局において常に「邪は正に勝た  ず」という信念を持ち、事にあたったようである11)。永田が軍人として「正」と信じ  た道とは何だったのか。

  陸大在学中から軍の近代化に関心を持っていた12)永田は、1913(大正2)年から  のドイツ駐在、1915(大正4)年からのデンマーク・スウェーデン駐在により第一次  世界大戦を実体験し、目本における軍の近代化及び国家総力戦への対応の必要性を痛  感する。帰国後、永田は臨時軍事調査委員会に委員として服務し、1920(大正9)年  には、『国家総動員に関する意見』と題する報告書を作成するが、これは以後の陸軍が  推進した国家総動員構想の大体の骨格をなすものであった13)。この後、永田は1926   (昭和1)年から1935(昭和10)年にかけて、整備局動員課長、軍務局軍事課長、

 軍務局長を歴任し、国家総動員プログラムを実行に移して行った。っまり、陸軍が主  導する国家総動員構想の具体化と総力戦体制の構築こそが、永田が目指したものであ  った。

  総力戦段階に対応した陸軍革新の動きは、陸士16期の小畑敏四郎、岡村寧次、永  田鉄山の3名がいわゆる「バーデン・バーデンの密約」(1921年)で派閥解消・人事  刷新・総力戦体制構築の盟約を交わしたことに始まり、その後、中央幕僚将校を中心  に「双葉会」・「木曜会」・「一夕会」など組織的広がりを示す。しかし、1930年代に入  り満州事変への対応と皇道派対統制派の派閥抗争が、陸軍における緊急の課題として  浮かび上って来る。永田は、軍の内外からの批判・抵抗や諸矛盾の一つ一つに対応し  解決して行く必要に迫られたのである。その時の信念が、「邪は正に勝たず」であった。

  上法快男氏は、その著作14)において「永田鉄山の思想」をまとめているので、次  に要約して引用する。

①この非常時局には、軍の統制、団結が最も大切なことである。軍中央部が決意  し、下克上的考え方を一掃して、大臣中心にすべて行動する必要がある。

② 統制派・皇道派という色分けは、中級以上の人には区別はない。派閥は自己擁