第四章 武藤章の対外観
第四節 日米関係と武藤章
1.問題考察の前提
戦前の目米関係の歴史において、日米対立の歴史像を求めて行けば、原初形態はペ リー来航の時までさかのぼり、明治・大正を経て、昭和の太平洋戦争につながる1)。
国防方針においては、1907(明治40)年制定された「目本帝国ノ国防方針」に、「将 来ノ敵ト想定スヘキモノハ露国を第一トシ、米、濁、佛ノ諸国之二次グ」2)とある。
アメリカを仮想敵と想定したこの国防方針は、海軍の主張を加えたものであり、この 後の改訂を経ても陸軍の関心は常に大陸にあり、具体的な計画に基づく真剣な準備が 行われたわけではない3)。しかし、太平洋戦争の開戦決定にあたっては、海軍ととも に陸軍が大きな役割を演じている。藤原彰氏は、その理由として「南方進出、すなわ ち目中戦争の延長としての南方地域の占領が、必然的にアメリカとの衝突をもたらす という結果になったのである。」と説明し、「陸軍にとって、対米戦争は本来の目的で はなく、中国との戦争の行き詰まりから副次的に派生したものだったのである。」と結 んでいる4)。陸軍にとっての太平洋戦争開戦は、日中戦争処理と南方進出が重要な要 素となるのである。
本節においては、1940(昭和15)年以降、開戦に至る目米関係に対する武藤章の 対応・反応を分析することにより、武藤章の対アメリカ観を中心とした対外観を考察 するつもりである。その際、「南部仏印進駐」と中国からの「撤兵問題」に対して、陸 軍と軍務局長武藤章がどのように考え対応したのかを中心に置きたいと考えている。
また、1940(昭和15)年を起点とするのは、この年の7月26目閣議決定された「基 本国策要綱」および翌27目政府連絡会議で決定された「世界情勢ノ推移二伴フ時局 処理要綱」を太平洋戦争への決定的な契機と考えるからである。
戦後A級戦犯となった武藤章をめぐる評価も、彼が対米戦争を推進したのか、回避 させようとしたのかが大きな焦点の1っとなっている。しかし、この時期における武 藤章の対米戦に対する真意をはかり、対米観を考察することは難しい。武藤章は軍人 であると同時に軍務局長であった。軍務局長は、陸軍大臣の下僚として政治的方針(国 策)を決定する際の重要な調整役であった。陸軍の軍事的方針を決定し運用する参謀 本部との連絡・調整、海軍との連絡・調整を行い、軍を代表して政府の各省との駆け 引きを行うのである。特に目米開戦に至るプロセスでは、「参謀本部の動きは、ひたす ら戦争に固執し、目米交渉で局面打開をはかろうとする外務省とは、まっこうから対 立した。」5)その両者の間にあって調整したのが武藤章であったが、軍務局長は中立的 な立場ではなく、参謀本部と共に軍務局もまた陸軍という巨大官僚組織の一部なので あり、武藤章も陸軍中央に所属する幕僚なのであった。
目米開戦という歴史的決定を前に調整役の武藤は、時には政府の論理を、時には軍 の論理を採用することとなる。そのため、揺れ動く武藤に対して軍(特に参謀本部)
からは、「カメレオン」6)「不可解」7)「大政治屋」8)r灰色的存在」9)などと非難が なされ、政府からも懐疑の眼で見られる10)。この時期武藤章は軍務局長として多様な 側面を見せるが、その根底にある考え方を残された記録から、できるだけ汲み取り考 察したい。そこで、まず考察の前提として、戦後武藤のこの問題に対する主張を提示
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した後に、実際の経過を確認したい。前節同様、「武藤章口供書」及び「武藤尋問録」
U)における関係する武藤の主張を次にまとめる。
①私は陸軍大臣の命を受けて、目米交渉の事務に従事し、是非とも成功させよう とした。そうすれば支那事変もうまくまとまり日本は救われると考えた。
②上官の大臣に不同意の場合には辞職することができるという意見は間違ってい る。目本軍人はそういう理由で辞職できない。転任については東条大臣着任ころ 再三人事局長に非公式で依頼したが、出来なかった。
③目米交渉に関する陸軍の意見は、陸軍大臣と参謀総長の合意によるもので、海 軍および外務省との連絡協議に際して、私の一存で譲歩した時が度々あった。し かし、参謀本部からは必ず抗議を受け釈明を求められた。
④1941(昭和16)年10月14日の閣議で、中国駐兵を固守する陸軍に対して、
海軍は総理一任とした。私は富田書記官長を訪問し海軍の意向表明を求めたが、
成功しなかった。
⑤作戦計画は参謀本部の重要な任務であり、陸軍大臣が干渉することはできない。
前線に開戦準備を命じることは参謀総長の権限で、陸軍省に回送し捺印を求める ことになっていたが、軍務局長の捺印も含め、何ら決定的意義を有するものでは
ない。
⑥1941(昭和16)年8月か9月に重光大使と話をして、ダンケルク敗戦後のイ ギリスの状況を聞いた。イギリスはなかなか負けないこと、大英帝国崩壊など絶 対にないこと、アメリカが真剣にイギリスを援助すること、アメリカの彪大な国 力に十分考慮するべきこと、などを話した。
⑦1942(昭和17年)元旦、東郷外相を官邸に訪問し、なるべく早く戦争を終末 に導くよう努力すべきことを話した。外相も同意した。
⑧目米和平交渉が成立しても、ある期限の間は大陸における防共駐兵の必要を認 めていた。
2.「世界情勢ノ推移二伴フ時局処理要綱』
太平洋戦争に至る日米関係の経緯を見た場合には、決定的契機と言えるものがいく つもあるが、前述したように1940(昭和15)年以降では、「基本国策要綱」と「世界 情勢ノ推移二伴フ時局処理要綱」が重要な契機としてあげられる12)。
1940(昭和15)年6月、武藤は総合国策案樹立を企図して岩畔軍事課長に下命、
依頼を受けた国策研究会の矢次一夫が中心となって「総合国策十ヵ年計画」13)を6 月下旬までにまとめたが、これが土台となって7月26日、近衛新内閣の基本政策と なる「基本国策要綱」が閣議決定された。この要綱はいわば陸軍省軍務局と革新官僚 の合作というべき政策案であった14)。一方、6月のヨーロッパ情勢の変動に対応して、
参謀本部が中心となり起案、提議され、7月3目に陸軍省部の首脳部会議で採択され
たのが「世界情勢ノ推移二伴フ時局処理要綱」であるが、7月22目陸海軍首脳部にお ける懇談を経て、7月27日、政府連絡会議において決定された。
「皇国現下ノ外交ハ、大東亜ノ新秩序建設ヲ根幹トシ、先ヅ其重心ヲ支那事変完遂 二置キ、…」と謳う「基本国策要綱」15)も、「速二支那事変ノ解決ヲ促進スルト共二、
好機ヲ捕捉シ対南方問題ヲ解決ス。」を方針とする「時局処理要綱」16)も、r支那事変」
解決を目標とするが、従来の重慶政権を直接施策の対象とするのではなく、三国同盟、
日ソ関係調整、南方進出といった間接的施策により、外交戦略も加味して、援蒋ルー トの遮断を図り事変解決を目指したものであった。
ここで注目すべきは、大東亜新秩序建設と南方問題解決が基本的な方針となってい る点であり、問題となるのは、その方針の背景となっている世界情勢判断であった。
参謀本部に所属した原四郎氏は、大英帝国は崩壊するか凋落するであろうという見方、
援蒋ルートを遮断し英米の援助を断たねば重慶政権は屈伏しないという見方、さらに 米英からの石油がいつ止められるかも知れないという不安があったことを述懐してい る17)。そして、南進政策は、南方の物資を確保し自給自足体制を確立する大きな意味 も持っていたが、英米との対立すなわち対英米戦争をいかに考えるかという世界情勢 判断も問われるのである。
「時局処理要綱」は「対米開戦ハ之ヲ避ケ得ザルコトアルベキヲ以テ、之ガ準備二 遺憾ナキを期ス。」と英米不可分の情勢を考慮しているようだが、同時に「戦争対手ヲ 極力英国ノミニ局限スルニ努ム。」とあり、英米可分の希望的情勢判断に立っている。
この時の陸軍首脳部は、南進政策に伴う対英米戦争、特に対米戦争については真剣な 戦争決意も覚悟もなく18)、誤った希望的な判断を行っている。
一方、日中戦争処理に関係する撤兵問題はどうであったろうか。この2つの「要綱j が決定する3ヶ月前、1940(昭和15)年3月30目に「昭和16年からの逐次撤兵案」
が省部間に正式決定していた。昭和15年中に事変解決が無理な場合は、翌年より撤 兵を始め昭和18年までには、防共駐兵としての北支蒙彊と上海との一角に縮小した 兵力のみ残し撤兵するというものである。これは陸軍省の発案になるものであったが、
予算面から兵力を抑制し事変解決をはかろうとするものであった19)。ただ、注意すべ きは、この3月の案は撤兵案ではあるが、完全撤兵ではなく防共駐兵は残す「防共駐 兵案」でもある点である。しかし、どちらにせよ、この春からのドイツ軍の大勝利が、
この撤兵案を吹き飛ばし、南進政策へと大転換させてしまう「時局処理要綱』を登場 させるのである。
このような世界情勢判断は軍部だけではない。「時局処理要綱」と根底を流れる基本 思想は近いと考えられるr基本国策要綱」は、外務省などの革新官僚の発想により作 案されている。「バスに乗遅れるな」という流れは、何も軍人だけではなく、政府、官 僚にも広く及んでいたのである。三国同盟問題も含め、このような一般的ムードの中、
武藤はどう判断していたのか。もちろんこれらの「要綱』は陸軍が主導しそれを海軍、
政府が承認して基本国策となったものである。当然軍務局長武藤章もこれらを承認し た陸軍首脳部の一人である以上、南進政策、ドイツ利用の政略的な事変処理を、武藤 も是認していたことは間違いない。それでは、対米戦争はどうか。
この時期の武藤の言葉を見ると、7月22日、陸海軍首脳部の「時局処理要綱jの懇
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