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資本主義の基本構造

第5章 シュンペーターにおける資本主義の現代的意義

第1節 資本主義の基本構造

振り返ってみれば,本論文の目的は,序論でも述べたようにシュンペーターの資本主義 論に着目し,彼の理論体系に横たわる思想やイデオロギーをあぶり出し,その現代的意義 と限界を問うところにあった.すなわち,シュンペーターにおける資本主義の発展と変動 を題材に彼の理論体系に対して様々な光を当てることで,資本主義の基本構造を明かにす ることであった.それ故に,私は本論文全体を通して,シュンペーターの説くイノベーシ ョンの理論が,今日の豊かな資本主義社会を作り上げるのにどのような影響を及ぼし,あ るいはいかなる成果を上げたかを検討してきた.この最終章では,これまでの議論の総括 として,シュンペーターが求めてやまなかった資本主義の未来を展望し,彼の論理構造の 核心と現代的意義がどこにあるかを究明してみよう.

なんと不思議なめぐり合わせだろうか.マルクスが亡命先,ロンドンで没した1883年,

その同じ年にシュンペーターとケインズは共に,20世紀における資本主義が直面する不安 定な問題とその本質を解決しなければならない運命を背負って生まれてきた.

1983年9月,彼らの死没・生誕百年を記念して,オランダ北東の町クローニンゲンで,

「マルクス・ケインズ・シュンペーター」に関するシンポジウムが開催された.このシン ポジウムに日本から出席した小谷義次は帰国後,次のような報告を行なっている.「そこで の討論の課題は,この三人の経済学者の歴史的ビィジョンを対比するなかから,現代資本 主義社会の歴史的発展過程についての,ひとつの解釈を生みだしえないかという点にあっ た」(1)と.

さて,シュンペーターとケインズについてだが,この二人の巨星が自らのプライドを捨 てきれず,知的交流をしなかったのは,20世紀の経済学にとって誠に不幸な出来事であっ たという.このような趣旨の発言をしたのは,アーサー・スミッシーズである(2)

1936年当時,ハーバード大学においてケインズの新著『雇用,利子,貨幣の一般理論』

に対する世間の熱狂的歓迎ムードとは裏腹に,シュンペーター自身はかなり醒めていたよ うだ.スミッシーズによれば,「シュンペーターに対するケインズの無関心」に対して,「ケ インズに対するシュンペーターの敵意」に原因があったと回顧する(3).同年代の二人がな ぜそうなったのだろうか.

憶測の域を出ないが,それには次のような経緯が絡んでいたと思われる.ケインズがシ

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ュンペーターに先駆け,1930年に『貨幣論』を公刊したため,シュンペーターは,自らの 貨幣論に関する草稿の出版を断念せざるを得なかったことによる.しかしその時,ケイン ズにおいても事情はそう変わらなかったようだ.というのは,後輩のD.H.ロバートソン の理論から大きな影響を受けたケインズは,貨幣数量説のドグマから脱却すべきそこで展 開した自らの理論を「基本方程式」として提案してみたが,どうしても消費財の価格水準 P をうまく説明することができず,彼が 6 年余りの歳月をかけた野心作も手直しを余儀 なくされていたからだ.

シュンペーターが当時,若手経済学者によって結成されたケンブリッジ・サーカス

(Cambridge Circus)の活動内容を知っていたのだろうか.今となっては知る由もないが,

シュンペーターはケインズの『一般理論』に与えたリチャード・カーンの影響を高く評価 し,「ほとんどケインズの共著者というに近いものがある」(4)と論評したが,後にカーン自 身によってそれは否定される.

「サーカス」とは何か.「サーカス」とはケインズが『貨幣論』を出版したのを契機に,

1930年11月,その内容を検討する目的で組織化された非公開の研究会である.この研究 会はサークルを意味するサーカスと呼ばれ,会員は,ケンブリッジ大学の若手経済学者で あるR.カーンを中心に,P.スラッファ,オースティン・ロビンソン,J.ロビンソン,D. H.ロバートソン,それにオックスフォードから研修に来ていたJ.ミードであったが,ロ バートソンは最初の会合に1回出席し,後は出てこなかった.しかし,サーカスは翌年5 月に解散し,選抜された学部学生のためのセミナーへと発展的に解消したが,サーカスが ケインズ革命に与えた影響については,いまだ意見のわかれるところだ.

にもかかわらず,ケインズ経済学研究の第一人者である浅野榮一が内外のさまざまな文 献に当たり,次のような結論を導く.「カーン論文〔雇用乗数に関する論文〕と,この論文 の見解を受け入れてそれをもとに行なわれたサーカスの討論は,ケインズのいう貨幣理論 をたんなる物価水準決定の理論から同時に産出高・雇用量の決定の問題を扱う理論へと変 えていくうえで,決定的な影響をケインズに及ぼしうる内容を含んでいた.しかし,カー ン論文もサーカスの討論も,投資が貯蓄を超えた場合に生ずる産出高と雇用量の増加分を 確定するための理論については決定的な前進をもたらしたが,それが社会全体としての産 出高・雇用量水準の決定の問題に対して持っている意味についてまだ十分に考慮するに至 っていなかったということは,このあとの『貨幣論』から『一般理論』への発展における ケインズの役割がたんなる受動的なものに終始したのではなく,むしろ彼自身の独自性を 介入させる余地が十分存在したことを示唆しているように思われる」(5)と.

なるほど,ケインズが並の経済学者と違い,一流の経済学者といわれるゆえんは,『貨幣 論』で解決できなかった困難な問題に対して,引き続きこのように『一般理論』で新たに 挑戦したところにある.この飽くなき知的探究心が後に「ケインズ革命」として一世を風 靡することになる.立場は対照的にあった,当時のシュンペーターの複雑な心情をE.シュ

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ナイダーやR.スウェドバークがみごとなまでに活写している(6).ところで,シュンペータ ーのケインズに対する反発が実際にいかなるものであったかは別として,シュンペーター はその後,『貨幣と本位貨幣』(Geld und Wӓhrung 実際にこのタイトルで刊行予定の広告 を雑誌に掲載)の出版を予定するが,結局宙に浮いたままになる.それが 1970 年に至っ てシュンペーターの草稿がフリッツ・K.マンの手で編集され,『貨幣の本質』(Das Wesen des Geldes)というタイトルで公刊され,続いて1996年にはL.ベルティとM.メッソリに よってシュンペーターの遺稿の中から別の数章が発見され『貨幣論集』(Il trattato sulla moneta) として刊行される.

このようにシュンペーターが自己の貨幣論を完成させなかったため,今日に至るまで,

シュンペーター研究にとっては大きな障害になっている.シュンペーター研究において貨 幣・金融(信用)理論を深く掘り下げた研究が軽視されてきたのは,疑いなく彼自身の体 系の未整備が禍していたといえる(7)

シュンペーターの貨幣論

シュンペーターの貨幣論については,それを避けて通るわけにも行かないので,とりわ け同時代のケインズとの比較においてその経済学上の意義を確認してみるのも一つの方法 だ,と考えることができる.

例えば,A.スミッシーズによると,シュンペーターは自らの理論体系にケインズの理論 を組み入れることによって,自分の利子理論に欠けたある種の重要なヒントを得ることが できたはずだという.すなわち,「シュンペーターが主として分析の力点を集中したのは,

貸付資金の需要は企業利潤の見込みに依存するという論点であったからだが,他方,その 資金の供給面については,彼は何らまとまった分析をしなかった.これが金融市場の条件 に依存するのは確かだとしても,金融市場における条件がその他の経済体制の動きといか に関連しあうかという点は明らかにされていない.これに対してケインズの理論は,利子 率が貨幣的要因に依存するだけではなく,同時にまた貯蓄や投資の収益性にも等しく依存 するというのはどういう訳なのかを明らかにしている.もちろんケインズの理論といえど も,『一般理論』におけるがごときのままではなお断片的なものに過ぎない.例えば,物価 変動はただ暗黙裡に考慮しているにすぎず,銀行制度についても論じることさえしていな かった.しかしケインズは,シュンペーターが自己の理論を完成し得たであろう道筋だけ ははっきりと指摘したと言える.さらにまた,流動性選好と不確実性の関係についてのケ インズ派の考え方や,静態状態に近づくにつれて利子が低下する傾向をもつというケイン ズ派の考え方も,特にシュンペーターの理論体系に適合させるべきだったものとしてあげ ることができよう」(8)と.

スミッシーズが言うように,ケインズの貨幣論とシュンペーターの貨幣論がお互いに補 完的なものとして役立つためには,次のような課題を克服しなければならない.