第2章 シュンペーター理論体系の基礎
第2節 経済学のイメージ
実証主義を経済学方法論に導入するに当たり,理論の仮定が真であるか否かではなく,
仮定から演繹される命題を実証データによってテストすることが大切だ,と一般に論じら れている.しかし,経済学はこのように実証主義に重点を置いているかのように見えるが,
むしろ,理論と現実の乖離を初めから是認するような見せかけのようなところがある(21). かつてW.レオンティエフやディアドラ・N.マクロスキーらによって問題視されたように,
その一端は米国で発行される学術経済雑誌が,実証データとまったく関わりのない論文で 埋め尽くされていることからも理解できる(22).残念ながら,私に言わせれば,形式的に厳 密な数学的テクニックや統計的手法を用いているが,経験的に観察不能な変数を含んで,
とても統計的検証に耐えうるようなものではない.結局,答えられる問題だけを問題にし ているに過ぎず,経済学研究を面白くないものにしている.
それでは,われわれは次のようなシュンペーターの言葉をいかに理解したらよいのだろ うか.「科学的研究を行なうに当たって重要なことは,何らかの『真理』ではなく,作業 するに当たっての方法であり,簡単に言えば,観察される事実に対応し何かが現われるよ
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うに,データを処理することである.このことから『真』とか『偽』とかが与えられる」(23). これは一般に観察の「理論負荷性」(theory-ladenness)といわれるものだ.要するに,科学 的な観察は理論を背景として解釈され,はじめて意味を持つというものなので,ある理論 の基礎的な仮定に経験的事実によって真偽の判断を下すことはできず,すなわち反証とな る実験事実ではなく,これらの蓄積された数多くの実験事実群を解釈する新たな理論によ ってである.観察の「理論負荷性」については,ノーウッド・R.ハンソンが『科学的発見 のパターン』(1958年)で提示したのがその嚆矢だといわれている.シュンペーターの方 法論もそれを想起させるものである.仮にこのことが本当ならば,マッハの道具主義の影 響を受けたにもかかわれず,シュンペーターは論理実証主義に対して批判的だったとみな すことができる.したがって,シュンペーターがウィーン学団クライスのような論理実証主義に対 してどのような態度を取っていたのだろうか.
道具主義においては,その有用性の意味があれば,理論それ自身の真偽を問わない.実 際はマッハの道具主義とハンソンの観察の理論負荷性とに関連性がないのは,理論と観察 の独立性が互いに共通の前提として認められるからだ.
シュンペーターが「どのような事実も,それが分析され洗練されていない........
限り,そもそ も理論的言明が真であるか偽であるかを立証することはできない.・・・なぜなら,まっ たく真実の関係さえも,他の要因によって覆い隠されていることがあり,そのための事実 そのものについての深く掘り下げた分析がなければ..............
,われわれはこの関係について何も見 ることはできないからだ」(24)と言明したのもそのためである.確かに,われわれは理論の 事実への整合性を求めるが,理論を評価する堅固な事実が独立に存在していなければ,理 論がこのような事実そのものを演繹結果として導くというのは,そう簡単なことではない ないことを物語っている(25).
社会科学に対する認識
その後,さまざまな論争を経て,経済学は科学論などと融合しながら独自の議論を展開 してきたが,人間社会の現象と社会科学の基本的関係をいかにとらえるかという問題が常 に残される.少し考えてみればわかることだが,人間というものは社会の現象全体をその まま理解することはできない存在であり,どう把握してよいかわからないというのがわれ われの本音である.しかし,ここで単に愚痴をこぼしたところで社会科学の前進に何ら貢 献しないので,その解決の糸口を探ってみよう(26).
第一に,自然科学では実験や観察によって膨大なデータを収集し,それらを統計処理す ることで,自然界の背後に隠された法則を発見することができる.ところが,社会科学で はデータの数が少ないものが多く,十分に力を発揮しにくい面がある.特に,社会現象は 生身の人間が登場するため,その動機は容易に推し量りにくく,人間同士の関わり合いの 結果として生まれた社会制度,経済の仕組みなどは多岐にわたるため,その全体像を把握
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することは困難を極める.このように複雑に絡み合い,再現性を持ち得ない,一面的には とらえにくいもの,それを認識するのが社会科学の使命だといえる.したがって,古典力 学の対象とする物理現象のように,単純な公式ですべてがわかるというものではなく,ま た統計学の対象とするような統計量のように,平均とばらつき度合いで大方とらえられる というものでもない.
第二に,にもかかわらず,社会科学は人間社会の現象の中に一定の意味や関係性をみつ けようとしなければならず,社会現象は,歴史のしがらみをフルに活用しながら進展する のだから,何らかの人間のもつ普遍的な行動特性をその中に必ず見いだせるはずだ.社会 科学は混沌の中に規則性,変化の中に継続性を探し出そうとするものである.すなわち,
どうしたら首尾よく意味ある関連適合性や論理的整合性を見出せるのか,どのような次元 の仮説を設定したら複雑な現実の振る舞いを理解することができるのか,これを探り出す のが社会科学の役割である.
さて,われわれはこのようなコンテキストを頭に入れながらシュンペーターとの関連で,
当面の課題である新古典派経済学の前提をここでいま一度,吟味しておこう.
新古典派経済学の前提に対する問題提起
そのためにはまず,新古典派経済学がその思想的基盤を形成するに当たって,解析力学 からどのような影響を受けたか,それを考察してみるのも一つの方法だと思う.新古典派 の認識のあり方が,18世紀のフランス啓蒙主義からフランス革命にいたる思想を代表する 科学である解析力学の影響を受けることによって出来上がったものだからである.われわ れはその手がかりを荒川章義に求めることができる.彼は,新古典派の前提を方法論的個 人主義,功利主義,合理主義に置き,その内容を次のように手際よく解き明かす(27).
第一に,解析力学が外的世界のマクロ運動を,それを構成する個々の質点のミクロ運動 にいったん還元したことにならって,新古典派経済学では,経済のマクロ運動を,それを 構成する個々の経済主体のミクロ運動に還元することにより分析する.
第二に,解析力学が個々の質点の動きを,すなわち運動ポテンシャルを最小にする径路 だけを選択するという理論仮説により形式的に基礎づけたことにならって,新古典派経済 学では個々の経済主体の動きを,すなわち自己の利益を最大に追求する行動だけを選択す るという行動仮説によって功利的に基礎づける.
第三に,解析力学が外的世界を安定した秩序(ダランベールの原理)と合理性(ハミル トンの原理)を本来的にかねそなえた合理的秩序に他ならないとしたことにならって,新 古典派経済学では人間がその中に生きる経済世界を安定した秩序(市場均衡)と効率(パ レート最適)を本来的にかねそなえた合理的秩序に他ならないと考える.
このことから新古典派経済学という学問は解析力学と同様に,一見複雑あるいは混乱に 満ちたようにみえるが,実は安定した秩序に満たされた存在に他ならず,またこの安定し
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た秩序は同時に,合理性をかねそなえた存在に他ならず,それ故に,新古典派の前提が解 析力学からの模倣だ,と荒川は説く.ただし,この指摘は別に新しいことでもなく,これ までにも幾度となく経済学者によって「力学」を「経済学」に,「質量」を「効用」に読 みかえられ,純粋理論なるものの構築が試みられてきたところである.
問題は,経済学説の歴史を繙けばわかることだが,経済学では経済理論が先にあって,
それを数学的に表現できるようになったのであって,単に経済学の法則が解析力学の原理 から導かれたのではなく,経済学の概念を形式合理化(数学化)しながら,時には非常に 長い時間を要しながら抽象化できることに気づいたのである.
事柄の性質上,社会科学よりも自然科学のほうがより早い時期に科学として十分な展開 をみせたのは,周知のとおりである.ところが実際には,物理学においてさえ数学の言葉 で表現(形式合理化)されるようになって初めて,明晰な精密科学になったといわれるよ うに,解析力学はニュートンの力学法則をラグランジュ力学とハミルトン力学に基づいて 再定式化し,精密科学になったのである.これは量子力学の発展に大きく貢献することに なる.これに対し経済学では均衡解の存在と安定性が厳密に証明されるようになってから,
数学的精緻化に一層拍車がかかったが,物理学にしか当てはまらないような特殊な事情を 経済学に持ち込むのがよいかどうか,慎重に議論しなければならない.経済学のように人 間の経済活動を対象とする学問と,物理学のようないわゆるハード・サイエンスとの根本 的違いは,まさに普遍的法則といった意味での一般理論が限定したところにしか存在しな いが,経済学者はこの辺の論争を意図的に避けてきたといわれても仕方がない.
ところで,サミュエルソンの次の言葉などはこれまで経済学がたどってきた歴史的経緯 を如実に物語っている.「経済学は,論理学や幾何学の演繹的方法を利用すると同時に,
統計的推論や経験的推論に見られるような帰納的方法をも使う.経済学では,物理学者が 行なうようなコントロールされた実験を用いることは不可能だから,そこには方法論上の 根本的な問題が生じる.すなわち,例えば,内省ないしは価値判断というような主観的要 素,曖昧で感情的な意味についての語義学上の争点,正規分布上の誤差の場合も偏った分 布の場合もあるような確率論上の大数法則,推理や推論における誤謬等がそれだ」(28).こ う言ったサミュエルソンですら,1947年に著した『経済分析の基礎』では,経済理論を数 学的に構成しようと形式論理による演算に重点をおき,現実の経済との対応を問題とする よりも,論理的無矛盾性を検討することに終始する.
経済学に物理学的な手法を安易に期待するのがよいかどうかわからないが,経済現象を 公理系の視点から解明するだけでは許されなくなっているため,厳密な帰納に基礎を置く
「リアルタイム経済システム」(グローバル化した経済の危機管理のためのシミュレーショ ン・システム)にとって代わろうとしているのも事実である.
ドイツ歴史学派に対する認識