第1章 シュンペーターに対する評価
第3節 第1次大戦とその後
転機を迎えたシュンペーター
1913年から14年にかけての冬学期,シュンペーターはオーストリアの交換教授として,
米国コロンビア大学に赴任することになる.ここで,彼は先のチェルノヴィッツ大学で行 なった講義「国家と社会」を発展させた形で集中講義を行ない,1914 年 3 月にコロンビ ア大学からこれまでの業績に対して名誉人文学博士の称号を授けられる.その間,彼は同 大学のJ.M.クラークやW.C.ミッチェル,エール大学のI.フィッシャー,ハーバード大学 のF.W.タウシッグなどをはじめ,米国を代表する経済学者らと知的交流を深める.
第1次世界大戦の勃発する直前の1914年12月に帰国するが,彼は学部長の働きかけや グラーツ大学で唯一人の経済学教授だという理由で,兵役を免除される.その分,人一倍 がんばり,M.ウェーバーの編集による叢書『社会経済学綱要』の第1巻の学説史部門の執
29
筆を任され,シュンペーターは見事にその任を果たす.
そうこうしている内に,シュンペーターにとっては大きな転機を迎える出来事が起こる.
第1次世界大戦中の1918年の夏,ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍が西部戦線で 敗北を喫したことから,形勢が一変してしまう.シュンペーターは第1次大戦後,非マル キシストだったにもかかわらず,1919年1月11日にグラーツを去りベルリンに入り,K. カウツキーを委員長とするドイツ社会化委員会にR.ヒルファディング,E.レーデラーな どと共に加わる.当時,ある若い経済学者に「なぜ国有化を目指す社会化委員会に参加し たのか」と問われ,シュンペーターは即座に「もし誰かが自殺したいというならば,医者 がいたほうがよいからだ」と答えたという(35).それ以来,旧帝国解体後のオーストリアに おいては憲政上はじめて,カール・レンナーを首班として社会主義政権(社会民主党とキ リスト教社会党による第1次連合政府)を誕生させるきっかけになる.
1919年3月,かつての学友で外務大臣であったバウアー(最初はⅤ.アドラーであった が,彼の急死により後任となる)の推薦もあって財務大臣(当時の呼び方は財務国家書記)
に就任する.だが,シュンペーターにとって不幸だったのは,レンナー首相が党内で急速 に指導的地位を確立したマルキシストのバウアーと彼を支持する左派の意見対立を克服で きなかった最中にあったことである.しかも,シュンペーターのこのポストは元来,政治 的基盤を持たない彼にとって,微妙な立場であったに違いない.この時,シュンペーター は財政赤字とインフレを抑えるために財産税を課し,加えて国債の発行や外国からの借款 によって切り抜けようとして「財政計画」を提案したにもかかわらず,社会主義革命の必 要性を信奉するバウアーとの路線の違いや,社会化問題を巡って,政治スキャンダル化し たアルピン・モンタン社(オーストリアで最大の鉱山会社)の事件に巻き込まれ,約7カ 月で第2次レンナー内閣は総辞職するに至る.
この件について,安井琢磨はシュンペーターが内閣の蔵相の地位をわずか1年足らずで 辞任せざるを得なかった事情を,シュンペーター研究者に究明して欲しいと要望している.
「一般に伝えられるところでは,ウィーンの銀行家コーラの介入でオーストリア最大の鉄 鋼企業アルピーネ・モンターン社の株式がイタリアの金融機関[フィアット社]に売却さ れたとき,大蔵大臣のシュンペーターが閣議に諮らずにこれを認可したことが辞任の理由 だったとされている.レンナー内閣の外相オットー・バウアーも,その『オーストリア革 命』(1927年)の中でこのことを述べてシュンペーターを非難している.しかしこの点に 関しては,シュンペーター側の言い分とともに,当時社会民主党(レンナー内閣は社会民 主党とキリスト教社会党との連立内閣であった)が抱いていた基幹産業の『社会化』の計 画に対してシュンペーターがどのような立場を取っていたかを明らかにする必要がある.
彼の短い政治家としての活動を,従来のシュンペーター研究は成功しなかったエピソード として簡単に片づけることが多い.しかしレンナー内閣への参加を通して,シュンペータ ーが敗戦国オーストリアをいかなる形で再建することを望んでいたかの意図を具体的に探
30 ることが望ましい」(36).
確かに,シュンペーターの財務大臣辞任の件は,闇に包まれた謎の部分もあるが,最近,
ロバート・L.アレンの聞き込み調査や,トマス・K.マクロウ,ハイツ・D.クルツなどに よる史実に基づく調査などにより,いずれその辺の事情が明らかになることに期待したい
(37).結果としては,オーストリアの戦後経済危機は,シュンペーターの主張したとおり 1919年の連合国とのサンジェルマン条約による戦時賠償金の減額措置と,1922年の国際 連盟の管理下での国際借款で救われることになる.
シュンペーターは,オーストリア議会からウィーンで銀行の営業を行なう許可を得て,
1921年7月,株式化したビーダーマン銀行 (M. L. Biedermann & Co. Bankaktiengesell-
schsft) の会長に就任すると同時に,大株主の地位を得る.最初のうちは順調だっただが,
1924年にオーストリアを襲った経済危機によって――とりわけ,自らの投資に失敗したり テレジアヌム出身の友人の保証人になったりして――間もなく銀行は膨大な不良債権で経 営危機に追い込まれる.1924 年 9 月,自己資本不足に陥ったビーダーマン銀行はイング ランド銀行の子会社であるアングロ・オーストリア銀行から資本注入と引き換えに,シュ ンペーターは会長職を事実上解任されてしまう.
R.L.アレンによると,投資がうまくいっていた時は,シュンペーターは自ら進んで何 人もの売春婦をかわるがわる伴って歩いていたという(38).しかし,シュンペーターは数週 間のうちに一切の蓄財を失ったばかりでなく,多額の負債(正確な数字はわからないが,
一部の借金の穴埋めには退職金を充てたものの,当然それでは間に合わず,銀行に対して の負債は今日の貨幣価値に換算して約5,000万円,その他,未払いの税金,友人知人から の恩借,別れた妻シーバーへの慰謝料の支払いなど)をも背負い込んでしまう(39).こうし てシュンペーターは,失意のうちに政財界の現場を去ることになるが,以後,多額の借金 返済のため,10年近くも苦しめられる羽目に陥ることなど,誰が予想できただろうか(40). 断っておくが,当時のオーストリアにおいては,学者と政治家の二足のわらじを履くこと は,シュンペーターの恩師をみればわかるとおり,決してめずらしいことではない.
こうした人生の試練の中にあっても,彼は『租税国家の危機』(1918年)と「帝国主義 の社会学」(Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik 誌,第46号,1919年)を 発表する.前者の「租税国家」という概念は産業資本主義の確立とともに出現したもので あり,国家が財政収入の大部分を租税収入に依存している状態をいう.この用語はルドル フ・ゴルトシャイトなどによって提唱されたものだが,これを一般化させたのは,ほかな らぬシュンペーターによるところが大である.
とりわけ,第1次大戦中に執筆された同書『租税国家の危機』において,シュンペータ ーは,「第1次世界大戦は果たして,租税国家の危機をもたらし,租税国家の機能停止を 不可避とするものだろうか」と自問し,これに対する答えは「否」であった.その原因は 資本主義経済とのかかわりのもっと深い分配機能に求められるべきものである.シュンペ
31
ーターが分配機能という視点から国家をみていただけに,大いに注目に価する見解だ(41). 神野直彦はこの間の事情を次のように説明する.「ゴルトシャイトは,祖国オーストリ アの財政破綻を憂い,1917年に『国家社会主義か国家資本主義か』を世に問うたのである.
その翌年,オーストリアの大蔵大臣を務めていたシュンペーターが,ゴルトシャイトの提 唱する財政社会学を受け継ぎ,『租税国家の危機』・・・を発表する.シュンペーターは 市場社会とともに成立する近代国家が,市場経済から調達する貨幣に依存するしかない『経
済的寄生(economic parasite) 』としての租税国家であることを明らかにしたうえで,ワグ
ナーが定式化した『経済膨張の法則』と『経済的寄生』との対立関係を分析する.
シュンペーターによると,市場経済が高度化すれば,社会的共感の領域も拡大するため,
社会サービスの供給水準を引き上げざるをえなくなり,財政経費は膨張する.とはいえ,
租税国家は『経済的寄生』という存在であるため,租税で市場経済を萎縮させてしまうわ けにはいかない.シュンペーターはこうしたディレンマのために,『租税国家の危機』が 生起せざるをえないと主張したのである」(42)と.
何もシュンペーターの時代だけの問題ではなさそうだ.わが国でも「財政の破綻」が問 題になっている.そもそも租税の本質的機能は,公共サービスの費用調達機能に重点があ ったはずなのが,それが所得の再分配機能や景気の調整機能にまで拡大し,これが政治の 力によって節度なく民間にばらまかれれば,際限なく国家の赤字は続くことになる.しか し,市場機構や交換原理に任せておけば,解決できるといったものではないので,先送り が常態化する.
一方,後者の「帝国主義の社会学」は,第1次大戦後のものだが,その2年前に出版さ れたレーニンの『帝国主義論』(ロシア語版,1917年)を読んでいたかどうか定かでない.
このシュンペーターの論文は,古代から近代までの歴史上に現われた帝国主義の実態を基 に,その国の資本主義そのものの内在的論理と結びつけずに,国民の心理的性向や社会構 造と結びつけ,ホブソンやネオ・マルキシストですら見落としていた国家の際限なき拡張 を強行しようとする無目的的な行為について言及したものである.
シュンペーターの評価について,例えば,伊東光晴によると,シュンペーターの帝国主 義論は,資本主義の段階を区別することなく,プロイセン=ドイツという現実への批判で あると同時に,それがオーストリアを巻き込み,第1次世界大戦へと進む現実を前にして 展開された帝国主義への批判であることを忘れてはならない(43).そういわれると,確かに シュンペーターは「標語としての帝国主義」と「帝国主義の実践」を区別しているに過ぎ ない.その結果,シュンペーターの帝国主義論は,あまりにもドイツ帝国主義を一般化し すぎ,イギリス帝国主義を執拗なまでに無視することになる.また,都留重人によると,
シュンペーター帝国主義論の弱点は,「資本主義の独占的な側面と帝国主義とを結びつけ ることに成功しながら,その独占的な側面を『純粋の資本主義』とは別個のものである」
(44)と断定したことから生じている.