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第2章 シュンペーター理論体系の基礎

第1節 価値判断論争

本章に入るに当たって,われわれは次のことを確認しておかなければならない.という のは,ウィーン大学の学生であったシュンペーターにとっては,価値判断論争がすでに終 息に向かいつつあったとはいうものの,彼は終始その行く末を見守っていたからだ.した がって,ここでは最初に価値判断論争の概観について述べ,その後でシュンペーターが取 った方法論的な立場を検討してみることから始めよう(1)

周知のように経済理論と経済政策を最初に区別したのは,ドイツでは官房学派の初期の 経済学者K.H.ラウ(1792-1870年)である.また,イギリスでは古典派の経済学者N.W. シーニア(1790-1864 年),フランスではJ.B.セー(1767-1832 年),その後,理論と歴 史と政策の区別をさらに明確に体系化したのは,オーストリア学派の始祖カール・メンガ ーである.

このメンガーによれば,経済学の領域には次のように特殊な目的のための三部門からな る科学が存在するという.その第一は経済の歴史的諸科学(歴史および統計学)であり,

これは経済現象の個性的なものと個性的関連の探究および叙述を任務とするものだ.第二 は理論的経済学であり,これは経済現象の普遍的本質および普遍的関連(法則)の探究を 任務とし,そして第三は経済の実践的諸科学(経済政策と財政学)であり,これは経済の 領域における合目的的な行為のための原則を探究し,叙述することを任務とするものだ.

しかし,このように経済学を「理論」,「歴史」,「政策」の三領域に区別し,配分する方法 は真に妥当なものなのだろうか.なぜなら,これらの領域ははっきりと三領域に分かれる のではなく,重層的に関連し合うから,区別それ自体は分析手法上の相違によるものであ って,対象とする現象の性質によるものではない.先のメンガー自身による三部門の区別 のうち,歴史と他の二者との区別はきわめて明確だが,理論と政策の関連については,特 別な省察を加えていない(2)

ここに,経済理論の実践的応用,あるいはその経済政策への適用の可能性を巡って問題 が提起されることになる.

ところで,経済学の歴史を振り返ってみれば,アダム・スミスは 18 世紀の産業革命を 目前に控えて,分業と資本蓄積の方法を近代的な市民社会の思想と結びつけることによっ て,資本主義の成立を理論的側面から支えることになる.しかし,カール・マルクスはス

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ミス的自由放任の行き過ぎによって,つまり産業資本の担い手としての資本家が生産手段 を私有し,働き手である賃金労働者は生産手段を全く所有していないことから階級闘争の 理論を展開し,労働者の団結による資本主義社会の打倒と,社会主義社会の建設を目指す ことになる.そして,ケインズに至っては,1930年代の世界的不況に伴って生じた失業問 題を目の当たりにし,有効需要の原理を打ち立て,政府の経済への積極的な介入を呼びか けることになる.このように経済学者たちは,その時代が直面する複雑な問題と果敢に取 り組むことによって,新しい学問の世界を切り開いてきたといってよい.

ここで私が取り上げようとするシュンペーターについても,同様なことがうかがえる.

シュンペーターが果敢にチャレンジしたテーマは,20世紀に入って飛躍的発展を遂げる 資本主義をモデルとして,果たしてその発展と変動の形成過程を統一理論でもって説明で きるか否かを問うことだった.爾来,シュンペーターは,過去に現われたぬきさしならぬ 論争はしばしば学派特有の価値観や党派性にその原因があるとみなし,経済学における政 策的提言と理論的構築を厳しく峻別し,その姿勢を生涯貫くことになる.

いま一度,価値判断論争当時の時代精神を振り返ってみれば,それは自由主義の体系が 現実の政策思潮を支配しつつあった時である.時代はすでに,20世紀の転換期にさしかか っていたが,ここに経済学の本質的問題に新たな一時期を画するような問題がはじめて提 起される.それは,古典学派においてもなお意識されず,長い経済学の発達過程で生じた

「理論」と「政策」との密なる関連に対し,そもそも政策ぬきの客観的な経済理論はいか にして可能であるか,言葉を換えて言えば,経済の理論家は,その立場から果たして経済 政策の世界に発言しうる資格を有するかという問題である.

実は,このことは自由主義体系への痛烈な批判を行なったF.リストやマルクスをさすの ではない.この世紀の後半において,はなばなしく活動したところのドイツ歴史学派の総 帥グスタフ・シュモラーの登場と結びつく.これに対し,前述のオーストリア学派の始祖 カール・メンガーとの間に,経済学史上まれに見る「方法論争」の名で呼ばれる感情的な 論争が行なわれたのは,われわれの知るところである.シュモラーはメンガーを無視した が,実質的に,この論争はメンガーのほうに分があったといわねばならないものだった.

ただしひとこと付言すれば,メンガーの主張が正しかったからではなく,シュモラー自身 が自らの立場を相対化しようとする精神が欠けていたからである(3)

ウェーバーの「価値判断」論

後期歴史学派にとって,この不名誉な出来事は誰かが濯がなくてはならず,その役を買 って出たのがマックス・ウェーバーである.1904年に発表した彼の論文「社会科学的およ び社会政策的認識の〝客観性〟」(Archiv für Sozialwissenschft und Sozialpolitik 誌,

第19巻第1号)は,理論と政策の本質的相違を明らかにし,理論を追究する経済学者の 守るべき科学的客観性を提示したものである(4)

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政策をぬきにした理論問題においては,学者の意見の一致はあり得るけれども,事柄が ひとたび政策問題に及ぶならば,この一致はあり得ない.なぜならば,理論を構成する認 識はSein(存在)について生じるのに対して,政策のそれはSollen(当為)の問題が先行 するからだ.したがって,政策の場合には,意見は認識に依存するのではなく,意思に依 存し,しかもこの意思たるものは理論の手の届かない「価値判断」の所産であって,結局 は,個人によって全くまちまちな「世界観」の問題に帰着する.それ故に,客観的な理論 認識を追究する者は主観的な価値判断の領域に踏み入ってはならず,また踏み入ることは できない.それがウェーバーの論旨である(5)

ただし,ウェーバーが等しく「価値判断」(Werturteile)だと言っても,例えば,いく つかの政策的手段のうち一つを選ぶというような種々なる可能性についての「技術的判断」

については「客観性...

」を否定しなかった.科学的理解が不可能だとして斥けたのは,人に よって異なる世界観に基づいての「いかにあらねばならないか............

」という意味での「実際的 判断」である.

さて,ウェーバーの科学論が当時のドイツの学界に投げかけた波紋は,想像以上に大き かった.なぜかと言えば,当時は前述のとおりドイツ歴史派の諸学者がシュモラーを総帥 として活発な活動をしており,かのマーカンティリズム時代の再現を思わせしめるような 形で経済理論「即」経済政策の論議が横行していた時だからである.これに対してウェー バーの論文は,その時流に対する鋭い批判と警告を含んでいた.かくして,ウェーバーの 提起した「価値判断」は学者の論争題目となり,1909年,ウィーンで開かれた社会政策学 会では,価値判断問題が討論の中心題目となる.ウェーバーに和したW.ゾンバルトは,こ こで経済学における価値判断に反対し,あらゆる経験科学と同様,経済学はただSein(存 在)にたずさわるべきで,Sollen(当為)にはたずさわってはならない,と説く.

一方,これに対して前衛闘士として応戦したのは,E.フィリポヴィッチやゴットル=オ ットリリエンフェルトなどである.とりわけ,ゴットルは,経済学に通有の個人主義的,

自然科学的な方法論に強く反対し,社会構成体を中心とした経済活動の新たな理解から価 値判断の立場への支援を送る.これが世にいう「価値判断論争」と呼ばれるものだ.

シュンペーターは,ある意味でこの点を最初から達観していたと見ることができる.と いうのは,彼は『理論経済学の本質と主要内容』を著わすことによって,まず純粋理論を 取り上げ,その意義を解明していたところから察することができるからだ.彼が方法論争 を通して得た結論は,マッハ的道具主義の立場を取りながら方法論的個人主義を貫くとい うことだった.このような立場から例えば,デヴィッド・リカードウが実際的な問題を解 決するに際し,単純化された抽象的理論を無批判的に政策提言に適用したため,シュンペ ーターは「リカードウの悪弊」(6)と呼んで,これを忌み嫌った.

シュンペーターは自ら,メンガーの『国民経済学原理』(1871年)やワルラスの『純粋 経済学要論』(1874年)を高く評価する一方,1870年代の「限界革命」がスミスを祖師と